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交野八景の一つ・かいがけの錦繍(きんしゅう) 平安時代から鎌倉時代にかけて、京都の天皇や貴族たちの熊野(和歌山県)参りがさかんになり、京都から鳥羽に出て淀川を船で下り、交野にあがって「峡崖(かいがけ)道」をのぼりつめると大和へ出る。 竜王山麓一帯から南側にかけて、南山遺跡、山麓の横穴式古墳、府立交野高校の車塚古墳など多数遺跡が確認されていることから、古い時代からこの「かいがけ(峡崖)道」は、頻繁に利用されていた。 奈良時代、東大寺大仏建立の際、銅の鋳型が上手く出来ないため、結局、九州の宇佐八幡にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、奈良へ行くことになった。 その一行は途中二手に別れ、一隊は枚方市の百済寺に、もう一隊は交野郡の獅子窟寺に宿泊。
「伏拝」。昔の人々の生活の知恵である。ほんとうはお寺に参り、社殿にぬかづきお願いするのが当然だがここからお許し下さい。ご利益もお参りし、ぬかづいたのと同じようにと伏し拝むその方向の中心が伏拝みの碑である。
嬰児を捨てた山、間引き子を捨てた山ではないか。付近には乳母谷(おちごたに)、地獄谷など暗い地名や嬰児にかかわる地名が多い。鳥居をくぐり、参道をとおりくねった山道を登りつめると、山頂に龍王石がある。
「寺」地区では、雨乞いを龍王山の山頂で行った。雨乞いは村中不参なしといって、各家庭から必ず一名は参加した。村人達は、かいがけの道を太鼓をたたきながら龍王山山頂へと登り、山頂に着くと火を焚き、全員で「雨たんぼ、じょおいの、雨たんぼ、じょおいの」と大声で唱えながら、雨乞い石のまわりを廻ったそうだ。 この「かいがけの道」は伊勢参宮、大峰の霊場へ人々を急がせ、中世の熊野路ともなったころ、ここが、お願いする場所であり、また、たのしい休息の場所でもあった。 |
「峡崖(かいがけ)道」をのぼりつめると大和へ出る。
河内の国と大和の国との国境に傍示(ほうじ)の里がある。
傍示(ほうじ)の里には八葉蓮華寺がある。 小さくてひっそりとしたお寺の中に、国の重要文化財に指定された阿弥陀如来立像がある。
名匠として知られる鎌倉時代の仏師・快慶の作で、檜(ひのき)を用いた82.4センチの半等身像。
流れるように美しい衣線や、青年のような若々しい表情など、快慶の意欲が伝わる造形美である。
建久3年(1192)から建仁3年(1203)ごろの作と推定されている。
山間のお寺らしい静けさがあり、心がひときわなごみます。
一度は訪れてみたい所です。
現在の傍示には、「伊丹」姓が多い。
この伊丹氏が傍示の里にやってきたのは、天正元年(1573)のことである。
この年、かって摂津国伊丹城の城主であった伊丹兵庫守親興が、室町幕府足利義昭に加勢して織田信長と戦った。
戦況悪く、宇治の槙島城が落とされた為、親興は高槻芥川城に逃げ込んだ。
しかし、この城も織田方の荒木村重に落とされ、しかも親興は討死してしまった。
荒木村重は、この功によって、伊丹城主となった。
そのため、残った伊丹一族は淀川を渡って交野に逃げこんだ。
けれども、織田方の追手が厳しく、ついに寺村の竜王山のうしろ、この傍示の里に入り込んだ。
そして、この地を安住の地として、代々住んできたのである。
また、大坂の冬の陣の時、伊丹因幡守という人が大坂方の武将として出陣している。
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