[ホームページ]

かいがけの道

かいがけ のぼれば 地蔵が笑う
「交野郷土史かるた」より

2009.7.11 交野歴史ウォークで歩いてきました
交野古道 かいがけの道を歩く
行程;交野ドーム→交野車塚古墳→大畑古墳→住吉神社→かいがけの道→
      伏拝の辻→かいがけ広場→傍示の村→菅原神社→里→スマイル地蔵→
      大仏の道→じゅんさいの池→かいがけの道・道標

郷土史カルタの「か」

かいがけの道 へはJR学研都市線・河内磐船駅、または京阪電車・河内森駅より東へ森地区の住宅街をぬけ、寺地区を竜王山に向って右折、徒歩約20分。

住吉神社の右手を曲がると、交野から高山を経て奈良へ通じる「かいがけ(峡崖)道」(砂利道)の入口に着く。
昔の人々が往来した道を、往時を思いながら歩くと、世俗を忘れ心が洗われる気持ちになります。
落ち葉が道一面に広がる秋が最も美しく、ロマンチックなムードが漂います。

いまは、ハイキングコースとして沢山の人に利用されている。

住吉神社 かいがけの道 かいがけの道入口
「峡崖(かいがけ)道」
交野八景の一つ・かいがけの錦繍(きんしゅう)

平安時代から鎌倉時代にかけて、京都の天皇や貴族たちの熊野(和歌山県)参りがさかんになり、京都から鳥羽に出て淀川を船で下り、交野にあがって「峡崖(かいがけ)道」をのぼりつめると大和へ出る。
ここから王寺、五条を通って紀州へ行くのが一番近道だと、昔は随分通行人があったようです。

竜王山麓一帯から南側にかけて、南山遺跡、山麓の横穴式古墳、府立交野高校の車塚古墳など多数遺跡が確認されていることから、古い時代からこの「かいがけ(峡崖)道」は、頻繁に利用されていた。

奈良時代、東大寺大仏建立の際、銅の鋳型が上手く出来ないため、結局、九州の宇佐八幡にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、奈良へ行くことになった。

その一行は途中二手に別れ、一隊は枚方市の百済寺に、もう一隊は交野郡の獅子窟寺に宿泊。
そして、この「かいがけ道」を通って奈良の都に入ったと言われている。

「柳谷伏拝」、「愛宕山大権現」「石清水八幡宮」の伏拝に出会う かいがけの道標から急坂をくねって登ると、北の路肩に「柳谷伏拝」、「愛宕山大権現」「石清水八幡宮」の伏拝に出会う。柳谷は眼の仏様、愛宕さんは鎮火の神様、八幡さんはこのあたりは昔、八幡さんの荘園であった関係や、開運の神様である。伏拝みの辻から二曲りほど上がった西の開けた所に野崎観音と「二月堂」の伏拝みがある。野崎さんは婦人病によく効いて下さるし、二月堂は切羽詰まった時にお願いする観音さんである。さらに登ると、薮の北の台地にかいがけ地蔵がおられる。その後ろには弘法大師堂があったと言われているが,その跡だけである。地蔵尊祠堂修繕寄附帳には、明治25年9月にこの地蔵は歯痛患者を助け、円満幸福を得ることが出来ると書かれている。歯を痛むと人々が願をかけ全快すると、箸などを供えたと言われている。

「伏拝」。昔の人々の生活の知恵である。ほんとうはお寺に参り、社殿にぬかづきお願いするのが当然だがここからお許し下さい。ご利益もお参りし、ぬかづいたのと同じようにと伏し拝むその方向の中心が伏拝みの碑である。

かいかげ地蔵 かいがけ地蔵から少し上がると、すぐ左側に龍王社への登り口である。鳥居の右前の標石に「従是嬰児山龍王社三丁」と刻まれている。嬰児山(みどりごやま)の山号に暗いイメージが起こる。

嬰児を捨てた山、間引き子を捨てた山ではないか。付近には乳母谷(おちごたに)、地獄谷など暗い地名や嬰児にかかわる地名が多い。鳥居をくぐり、参道をとおりくねった山道を登りつめると、山頂に龍王石がある。

竜王石 淳和天皇の天長2年(825)大干ばつで稲が枯れた。この苦しみが天上に達し、弘法大師に雨を祈らせたのがこの龍王石である。また、この山頂には、雷神が小便をかけて穴があいたという「いばり石」や弁慶の馬がつけた蹄の跡があるという「弁慶石」がある。

「寺」地区では、雨乞いを龍王山の山頂で行った。雨乞いは村中不参なしといって、各家庭から必ず一名は参加した。村人達は、かいがけの道を太鼓をたたきながら龍王山山頂へと登り、山頂に着くと火を焚き、全員で「雨たんぼ、じょおいの、雨たんぼ、じょおいの」と大声で唱えながら、雨乞い石のまわりを廻ったそうだ。
また、龍王山麓の茶が瀬という尾根の西側に「古龍王」という地名が残っており、むかしここに八代龍王を祭る祠があったといわれている。

この「かいがけの道」は伊勢参宮、大峰の霊場へ人々を急がせ、中世の熊野路ともなったころ、ここが、お願いする場所であり、また、たのしい休息の場所でもあった。
天正(1573〜1592)の初めごろ私部城に大和の筒井勢が急いだのもこの道である。


傍示(ほうじ)の里

国の重要文化財に指定された阿弥陀如来立像 「峡崖(かいがけ)道」をのぼりつめると大和へ出る。
河内の国と大和の国との国境に傍示(ほうじ)の里がある。

傍示(ほうじ)の里には八葉蓮華寺がある。 小さくてひっそりとしたお寺の中に、国の重要文化財に指定された阿弥陀如来立像がある。
名匠として知られる鎌倉時代の仏師・快慶の作で、檜(ひのき)を用いた82.4センチの半等身像。

流れるように美しい衣線や、青年のような若々しい表情など、快慶の意欲が伝わる造形美である。
建久3年(1192)から建仁3年(1203)ごろの作と推定されている。

山間のお寺らしい静けさがあり、心がひときわなごみます。
一度は訪れてみたい所です。


伊丹一族傍示の里へ
「交野郷土史かるた」より

現在の傍示には、「伊丹」姓が多い。
この伊丹氏が傍示の里にやってきたのは、天正元年(1573)のことである。
この年、かって摂津国伊丹城の城主であった伊丹兵庫守親興が、室町幕府足利義昭に加勢して織田信長と戦った。
戦況悪く、宇治の槙島城が落とされた為、親興は高槻芥川城に逃げ込んだ。

しかし、この城も織田方の荒木村重に落とされ、しかも親興は討死してしまった。
荒木村重は、この功によって、伊丹城主となった。
そのため、残った伊丹一族は淀川を渡って交野に逃げこんだ。
けれども、織田方の追手が厳しく、ついに寺村の竜王山のうしろ、この傍示の里に入り込んだ。

そして、この地を安住の地として、代々住んできたのである。
また、大坂の冬の陣の時、伊丹因幡守という人が大坂方の武将として出陣している。

傍示の里 農作業に忙しい

ふるさと交野を歩く(山の巻)を参照