[ホームページ] へ戻る   
 交野歴史健康ウォーク  2009.6.13 第96回
=交野古道を歩く=



山根街道
郡津から村野を経て東高野街道へ

  行程;京阪河内森駅→大松・道標→磐船街道→西川原古墳(平田菜園内)→
四辻→私市共同墓→私市隧道→お旅所→私市水辺プラザ
           12時頃解散    徒歩 約 5Km
山根街道と東高野街道
 生駒市の南田原から磐船を経て、私市から枚方に至る道は磐船街道といわれ、古代の有力氏族物部氏がその祖神と仰いだ、饒速日命(にぎはやひのみこと)の河内降臨の神話と深い関連がある。饒速日命の降臨の記事は「古事記」(712)、「日本書紀」(720)に見え、饒速日命(にぎはやひのみこと)が神武天皇の東征にさきだって天磐船に乗って高天が原から畿内に天降ったと書かれている。
そして、長髄彦の妹御炊屋姫(みかしやひめ)を娶って、可美真手命(うましまでのみこと)を生んだとある。
 平安時代の807年から936年の間につくられた「先代旧事本紀」には、饒速日命は哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話がある。その哮が峰は磐船神社から磐船街道を隔てた西側、かっての石切り場のあった海抜180メートルの峰(府民の森ほしだ園地のクライミングウォールの北側の切だった峰)だと言い伝えられている。頂きに万治二年(1659)の年号と三光(太陽・月・星)を刻し、首長に供え物を捧げる意味を示す石碑がある。この山に接して、この山の肩ぐらいの高さの岩内洞(がんないどう)という洞窟があったが、今はない。 (星田歴史風土記より)
 当時六十才の貝原益軒が元禄2年(1689)2月に当地方を訪れ、仁左衛門宅に一夜を借りた。貝原益軒は紀行文「南遊紀行」に当時の天野川の情景を次のように記している。

 「獅子窟山より天野川を見下ろせばその川、東西に直に流れ、砂川に水少なく、その川原白く、
ひろく、長くして、恰も(あたかも)天上の川の形の如しさてこそ、この川を天野川とは、
只天野川の流れの末ばかりを渡りて、古人の天野川と名付けし意を知らず。
おおよそ諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天野川と名付けしこと、むべなり。
磐船神社のお旅所にて記念撮影

2009.6.13(土)午前9時、京阪河内森駅前に集合。天候、晴れ。
いつもの元気なメンバー総勢21名の参加で、大松から私市四辻、私市共同墓、磐船神社のお旅所まで磐船街道周辺の史跡を巡りながら元気に歩いてきました。

 出発地点の京阪河内森駅で中会長の挨拶の後、当日の案内役の平田政信さんより、磐船街道の概略とウォークの道程など、説明を受けました。
 このたび(2009年3月)交野市文化財事業団より発刊された「私市村役人文書」に掲載されている、「延宝9年(1681年)私市村絵図=(当日の下記の案内マニュアルを参照ください)を手許に、現在地点と地図上の地点を確認しながら詳しい説明を受けた。現在磐船街道と言われている道の名前は、奈良県側の道を「岩船海道」と記し、私市から南へと続く道を「枚方大和道」と書かれていること、また、川は南から「かのこ川=現在私市カントリー(鹿子山)より流れ出る川」、「尺治川」、「谷奥川(現在の土生川)」、「小久保川」がそれぞれ天の川に注いでいる。また、私市の村は3つの村に分かれて描かれていることなど。
 駅前の「かいがけ道」から大松の道標を左に磐船街道を南下、道々いろいろと説明を受けながら古道を訪ねました。
 平田菜園に造られた「西川原古墳」では、森古墳群一号墳の50分の一の墳墓模型を見学、「森古墳群」卑弥呼の墓などのことを詳しく聞くことができました。次に、四辻の様子など、昔の写真などを見ながら狭い道をボンネットのバスが行き来したこと、道端の家の瓦が振動でズレタリ軒先が壊れたことなど、昨日のことのように話された。
 私市共同墓の弘安地蔵、私市隧道、磐船神社のお旅所など、「磐船街道=国道168号線」を車に気をつけながらゆっくりと散策、最後は、平成19年6月にオープンした「私市水辺プラザ」を見学、12時頃自由解散。

 途中、開(ひらき)・向井(ついしょ)・加賀田(かがた)用水のそれぞれの取水口など、昔のお百姓さんたちが田圃の水を確保するために、天野川からどのようにして水を取り込むよう努力をされたか、その御苦労の一端を窺うことが出来ました。今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の平田さん有難う御座いました。

次回は、7月11日(土)、「かいがけの道」を交野ドームから傍示の里まで歩きます。
 集合は、午前9時、交野ドームです。


出発地点の京阪河内森駅前で中会長と平田政信さんの挨拶


当日の歴史ウォーク行程MAP










石清水八幡宮三宅荘園墾田跡 石碑
小久保川の北側の道の下にあり、分かりにくい場所に建っている

樋の尻川
小久保川の堤防の下を通っている

小久保川の堤防の下を通って北へと流れている

JR学研都市線の踏切を渡ると、私市の旧道の入口に道標としては珍しい六角形のものが、常夜灯とともに保存されている
磐船街道の六角形の道標


  私市の旧道の入口(大松の辻)に道標としては
珍しい六角形のものが、常夜灯

とともに保存されている。
 ここは、「かいがけの道」の分岐点である

 
撮影:黒田幸男さん
磐船街道へと進み、大松の辻を振り返る

磐船街道から藤が尾へと通じる古道
(私市村絵図に描かれている)


西川原古墳(平田菜園内)
平田さんがお孫さんと一緒に手作りされた古墳模型

森古墳群1号墳(雷塚)の50分の壱の模型墳墓



撮影:黒田幸男さん

私市の四辻
この街道を、昔はボンネットのバスやダンプも通った!

磐船街道を歩く その1
動画でご覧ください、平田さんの詳しい説明が聞けます。



磐船街道を歩く その1  (9分10秒)


弘安地蔵さん
私市駅から歩いて5分、「私市共同墓地」に弘安地蔵さんが安置されています。
 このお地蔵さんは、府内で最古の銘「弘安4年(1281年)」を持つお地蔵さんで、府指定文化財・重要美術品に指定されています。
 弘安地蔵さんは、右手に錫杖を持たない古い形式のもので、頭上とその左右には地蔵菩薩を示す梵字「カ」が彫られています。像の右側には「石作三郎」と石工の銘が確認できます。
 別名「杖あずけの地蔵さん」とも呼ばれ、安置されている地蔵堂の中には、帽子や杖などが置かれています。
 人が亡くなると、生前、身につけていたものを地蔵堂に預けることで、早く極楽に導いてもらいたいという願いからかもしれません。庶民の願いを聞いてくださるありがたい仏さまとして、今も大切にまつられています。

この石仏には、左右に
「右ハ為二浄林浄雲一石作三郎」「弘安四年四月十五日立之」という銘が刻まれており、
ここから「弘安地蔵」と呼ばれている。
 大阪府下にある石仏の中では、年号のある一番古いもの
でさらに、像の頭上とその左右に地蔵の種子(カ)が見える。新仏ができると、仏が生前使用していた杖、帽子、履物などをこの石仏に届けると言う。

 弘安四年(1281)といえば、NHKTVでも放映された「北条時宗」の時代、あたかも蒙古の二度目の来襲を受けた、弘安の役が起こった年である。
 
昭和三十六年十月、大阪府指定文化財、重要美術品に指定されている。

[弘安の役] 元は1279年南宋を滅亡させ、1281(弘安4)第2次日本遠征を決行した。元・高麗の東路軍4万2000は5月に合浦を出発し、対馬・壱岐を襲い、博多をめざしたが防塁と日本軍に阻まれ上陸できなかった。一方、旧南宋軍を主体とした江南軍10万は、遅れて中国の慶元を出発し、平戸付近で東路軍と合流。7月30日、平戸から鷹島へ移動していた元軍を大暴風雨が襲い、元軍は壊滅的な打撃を被った。その後、日本軍による残敵掃討戦が展開した。2回の蒙古襲来は失敗に終ったが、元は日本遠征の意志を撤回せず、日本側は異国警固番役を廃止することはできなかった。またこの蒙古襲来は、鎌倉時代の政治・社会・文化に大きな影響を与えた。
 (岩波日本史辞典より引用)
 
 続いて、私市隧道へと進んだ。最近はめっきり車の往来が激しくなった168号線(磐船街道)を生駒に向かって、私市小学校を過ぎカーブを大きく曲かったら、生コン会杜が見えてくる。その左側の山肌に3本の洞穴がある。その内の1本は奥行き45m、高さは2m位で大人が立った状態で中に進むことができる。5m間隔で左右にも堀った跡がある。洞穴中は、真っ暗闇で大変涼しく感じられた。

 ここは、旧陸軍造兵廠・香里製造所の移転計画地跡である。
 大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所(香里製造所)を昭和20年の終戦前に交野市の私市に洞窟を掘り移転する計画があった。
 枚方製造所は、100万uを超える広大な敷地に9つの工場が建ち、1万人の工員が砲弾の製造をしていた。香里製造所は日本有数の火薬製造所で枚方製造所で造った砲弾に火薬がつめられ戦争地へ向かった。
その輸送には、片町線の星田駅からの引込み線が使用された。(星田に残る、「陸軍用地」の石標)
 移転計画地の面積は2610uでその内完成したのが652u、長さ138m、洞窟5ヵ所、坑木による簡単なもの。立木は終戦時に撤去して現在は3ヵ所の洞窟が残っている。
 今回、3号隋道(奥行き45.3m、総延長73.5m、床面積約147u)及び、他2ヵ所の洞窟も確認した。
なお、
市内に残る戦跡は星田に「陸軍用地」の石標と「中村少尉の鎮魂碑」の戦争の貴重な遣産がある。

=シンポジューム「交野の戦跡を語る」(8.29レジメより)=
香里製造所 : 大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所  
 私市地下疎開工場 (第1号〜3号隧道)
   星田駅〜第5枚方製造所 (陸軍専用鉄道跡)・・・1948年米軍空撮に軌道あり 
                陸軍用地碑・・・現在2本確認                             
   

私市地下疎開工場 (3号隧道)
大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所 大阪府北河内郡交野町大字馬場堂。
面積652u 長さ138b 洞窟5ヵ所 机木ニヨル簡単ナルモノ。
立木終戦時ニ撤去シ現在殆ど崩壊シアリ。
3号隧道は奥行45.30b  総延長73.50b  床面積約147u
地下工場計画・・・瞬発信管 計画概要・・・導火薬
摘要・・・隧道計画面積2.610b  完成面積652b  計画長サ545b  
完成長サ138b    進捗度 20%
       


磐船神社 お旅所(生コン会社のすぐ南)
撮影:黒田幸男さん
私市水辺プラザ

平成19年6月にオープンした  交野広報「私市水辺プラザ」

私市植物園側(日の出橋)より全景

=天野川(畑山)砂防堰堤=  (平田政信さんのよもやま話より)
明治32年(1899)築造されている。
大阪府下では、明治11年(1878)から明治20年(1887)まで、淀川左岸支流の天野川、穂谷川の水源地にて、直轄砂防事業として山腹工が施工されていた。
この砂防事業を大阪府が引き継ぎ山腹工を主体とした工事を行ったようであるが工事記録は明治32年(1899)以降しか存在せず、流域では系統的な砂防事業が展開されていた可能性がある。

 

明治中期、全国に先駆け近代砂防の範となった淀川水系砂防事業の一翼を担った本堰堤の技術レベルは、当時の技術水準をよく示すものであると言える。本堰堤上流右岸側には大正13年(1924)地域の灌漑用水として「加賀田用水」の取水口が設けられた。その際に流路を操作した形跡が見受けられ、天野川の主流部は堰堤上流で一度右岸に衝突し、用水の取水に対して十分な水位を提供したのち、刎ね返った水が堰堤左岸側を主流として流れている。
本堰堤は砂防堰堤として防災機能を果たしかつ灌漑用水の取水にも寄与しており、地域に根ざした近代化遺産として貴重な構造物と言える。
=編集後記=
 平成15年1月30日国登録有形文化財指定を受けたもの。   =了=

加賀田用水の取水口
撮影:黒田幸男さん
私市・森を流れる加賀田用水
加賀田用水の歴史と現在の堰と水路の状況
 加賀田用水 : 江戸時代中頃(1700年代)、私市の池堂から森の加賀田に用水を引き、草川を通して私部の官田まで水を流したのが始まりで、明治16年頃、天野川の井堰が完成。
 その後、大正12年10月の大雨で諸川が氾濫し加賀田用水堰が崩壊したため、美田50町あまりが荒野になり村民は悲嘆に暮れた。私市の田圃の持ち主であった西村忠逸氏(1872〜1941)が深くこのことを悲しみ、同志たちと水利組合を組織して復興にあたることにした。同年12月に起工し、昭和10年5月に完成した。上流の堰を復旧しただけでなく、下流に一つ堰を設けて、新たな水路をつくった。かが田の「かが」は利益・利得の意味で、収穫の多い田と言う意味であろう。

 加賀田用水路への取り口は、市大植物園に渡る日の出橋の上流300mの場所にあり、落差10mはあろうか、天の川を石組みで堰き止め左手に造られている。加賀田用水は、私市から森、私部へと広く田圃の灌漑用水として今も利用され続けている。天の川の水を上手く取入た先人たちの汗の結晶である。
 ※ 私市の水利組合としては次の5つの組合がある。
      1.加賀田水利組合 2.上代水利組合 3.開水利組合 
      4.潰れ池水利組合 5.持久水利組合
 
石堰の下の溜まり場、ここは戦前の子供達の格好の水遊び場であった この石堰の下が戦前の子供たちの水遊びの場であったそうだ。平田さんたちが子供の頃、学校から帰ると急いで集まり水遊びをしたと言われる、私市の天の川石堰。水の綺麗な川を覗き込むと、元気な子供たちの喚声が聞こえてきそうであった。よき時代の思い出の場所である。
 この附近は私市橋から日の出橋の南にかけて天野川の護岸工事がすすめられ、石垣が綺麗に組まれ整備された。



交野市の国の登録文化財
天野川石堰堤
市内を流れる天野川は、交野が原に伝わる七夕伝説の伝承地として、古くより知られています。しかしこの川、しばしば洪水被害が発生していたようであり、砂防事業は不可欠でした。
淀川水系砂防事業は、明治中期に全国に先駆け行われ、本堰堤は、当時の技術レベルをうかがい知ることのできる貴重な近代化遺産です。明治32年(1899)年築造。
傾斜勾配は、約17度を測ります
しゃくじがわさぼうえんてい 尺治川砂防堰堤
尺治川は、府民の森より流れ出、天野川に合流する川で、上流には月輪の滝(別名 金剛の滝)があります。
砂防堰堤は、ちょうど天野川に注ぎ込む地点にあり、現在は流れのないため石組みがよく見られます。
しゃくじがわゆかかためこう 尺治川床固工
尺治川の河道内に設置されていますが、うっそうとした竹林の中にあり、通常は望見することができません。
国の登録文化財制度
 平成8年に、築造後50年以上を経過した建造物の中で、歴史的景観に寄与するもの、再現が容易でないものを対象とし、多種多様の建造物を目録に登録するとともに、それを公表することによって保護の促進を図るため設けられた。問い合わせは、交野市文化財事業団 (п@893-8111) 
交野市ホームページの文化財事業団を参照させていただきました。記して感謝いたします。

  上記の登録文化財の散策のことは、尺治川を歩くを参照ください。
引き続き、「磐船街道を歩く その2をご覧ください!
動画でご覧ください、平田さんの詳しい説明が聞けます。

磐船街道を歩く 」 その2
  (8分17秒)
最後は、平成19年6月にオープンした「私市水辺プラザ」を見学、12時頃自由解散。
 途中、開(開)・向井(ついしょ)・加賀田(かがた)用水のそれぞれの取水口など、昔のお百姓さんたちが田圃の水を確保するために、天野川から如何にして水を取り込む努力をされたか、その御苦労の一端を窺うことが出来ました。

 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の平田さん有難う御座いました。

次回は、7月11日(土)、「かいがけの道」を交野ドームから傍示の里まで歩きます。
 集合は、午前9時、交野ドームです。
最後までご覧いただき有難うございました!

ホームページに戻る