2009.6.13 交野歴史健康ウォークで歩いてきました 交野古道 磐船街道を歩く 行程;京阪河内森駅→大松・道標→磐船街道→西川原古墳(平田菜園内)→ 四辻→私市共同墓→私市隧道→お旅所→私市水辺プラザ |
平安時代の807年から936年の間につくられた「先代旧事本紀」には、饒速日命は哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話がある。その哮が峰は磐船神社から磐船街道を隔てた西側、かっての石切り場のあった海抜180メートルの峰(府民の森ほしだ園地のクライミングウォールの北側の切だった峰)だと言い伝えられている。頂きに万治二年(1659)の年号と三光(太陽・月・星)を刻し、首長に供え物を捧げる意味を示す石碑がある。この山に接して、この山の肩ぐらいの高さの岩内洞(がんないどう)という洞窟があったが、今はない。 この道は、大和と交野を結ぶ重要な道の一つであり、長禄二年(1458)九月二十二日、大和の国の衆徒らに河内国への出陣を命じた幕府の奉書が下った。それは、近江八幡神人らが放生会(ほうじょうえ)など神事の違乱に及び、幕府の下知に従わないので、「神人張本人」に懲罰を加える為の動員令であった。つまり、大和生駒郡から磐船街道を私市へ越えた星田妙見山麓に布陣し、交野を攻める配置であった。 今、枚方から磐船街道を南に向って歩いてみると、枚方市岡本町商店街に「宗左の辻」の道標が、同じ石に「大坂みち」と「願主大阪(四人の名前)」の二通りの文字を使っている。
更に、天野川沿いに南に下ると、府民の森「ほしだ園地」が右手にある。ここは、全長280m最大地上高50mの木床版吊橋で、人道吊橋としては、全国的にも最大級の規模の「星のブランコ」が誕生して、シーズンを問わず大阪・奈良・京都の近郊からのハイキング客で賑わっている。 旧道を進むと、若鮎が引き返したと言う高さ七b程の「鮎返しの滝」に人知れず水が落ちている。 まもなく、高さ18b、長さ15bの舟形巨岩を御神体として祀る磐船神社が鎮座している。 現在は、平成9年に開催された大阪国体に合わせて、道路改良工事と河川防災工事が進められ、磐船神社に入る手前で道路が三叉路に分割され、新磐船トンネルが新設された。 |
万葉集に石船が歌われている。 あきつしま やまとの国を 天雲に 石船うけて ともにへに まかひ しじぬき いごきつつ 国見しせして あまりまし はらひ平け 天野川の堤防のない頃の、古い時代の道筋は、郡津の古墳や長宝寺、郡衙のあった倉山を経由し、私部城、出が城、船戸から天田神社、松宝寺を通っていたということである。 安永5年(1776)「河内細見図」の道筋 枚方ーー釈尊寺ーー郡津御茶屋ーー私部ーー私市ーー岩舟越えーー割石越え 明治2年(1869)「河内国預地」便覧の道筋 @枚方ーー大垣内ーー田宮ーー山ノ上ーー村野ーーフク田ーー郡津ーー私部ーー私市ーー岩舟越え A枚方ーー大垣内ーー村野ーーフク田ーー郡津ーー私部ーー私市ーー岩舟越え 名称の変遷は、@上津鳥見路(かみつとみじ)嘉禎2年(1236) A岩舟越 長禄2年(1458)B岩舟越・割石越
安永5年(1776) C岩舟越・大和道 享和元年(1801) D南都街道 天保8年 E岩船街道
明治30年 F国道168号線 昭和28年 |