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交野歴史健康ウォーク  160回
「私市の史跡と仏たち・弘安地蔵」


案内:平田 政信氏
(交野古文化同好会)

日時 : 2016年10月13日(木)午前10時 京阪・私市駅前集合  参加者17名(内会員12名)

 行程 : 私市駅 → 窪坂の湧き水 → 岩屋橋(昭和4年) → 二尊石仏 → 百重ヶ原橋 →
      天田神社 → 佃通り → 西念寺(懇田地蔵) → 古代天野川一条通 → 加賀田用水
       → 私市橋  →  天野川堰堤 → 私市水辺プラザ →  加賀田用水取口 →
        私市の惣墓・弘安地蔵 → 京阪・私市駅   (解散)12時過ぎ  約4km徒歩
       

 案内人 : 平田 政信氏 (交野古文化同好会)
 10/13(木)、天候晴れ。京阪・私市前に集合、午前10時出発。
 先月に引き続き、平田政信さんの案内により、「私市の史跡と仏たち・弘安地蔵」を大変詳しく解説頂きながら歩いてきました。本日の元気な参加者は17名(内会員12名)の皆さんでした。

 
 今回のウォークは、私市駅を起点に、私市の詳しい地名の由来を聞きながら自然豊かな湧き水、川や田んぼ、橋、用水路、寺や神社をめぐり昔の人々の知恵と暮らしぶりなどを懐かしく辿り、今も大切に守り祀られている仏たちに出会える素晴らしいウォークとなりました。
 秋晴れに恵まれ、私市の沢山の地蔵さんに出会え心癒されました。皆さんお疲れさまでした。

 なお、今回案内頂いた先人の偉業・用水路などについては、後日まとめて記録しておくよう準備を進めたいと思いますので、皆様のご協力をお願い申し上げます。

※当日配布されましたレジメに加えて、平田政信様が作成された貴重な資料や多くの写真・資料などを快く提供を受けましたこと、誠に有難うございました。
  記して謝意を申しあげます。

交野の子どもの歌に、「さいたかさいたか西念寺 ういたかういたか雲林寺
 松のたからは松宝寺」と歌われている
西念寺で記念撮影
「私市の史跡と仏・弘安地蔵」 ウォークマップ
平田政信さん作成の私市の地名地図


「私市の史跡と仏・弘安地蔵」
歴史健康ウォークレジメ
私市駅で集合・スタート

平田政信さんより、私市の地形や歩く行程など詳しく説明を受ける


現在の私市駅


昭和30年代の私市駅
土 生 川
土生川 (どじょうがわ)
 私市駅の北、私市2丁目と3丁目の境の川で、獅子窟寺の南側の深い谷が源流である。私市山手に出るまでに土砂の流出を防ぐため2ヵ所のダムが造られている。下流は私市駅から大阪市立大学付属植物園に通じる道と、私市の村中の道(磐船街道)との交差点に出てきて、その南で尺治川に合流している。

 現在、土生川と書いているが、地元の人は「どうじょう川」といい、字は「道場川」であるという。
この名の意味は獅子窟寺がもともと修験者の道場のようなものであったし、周囲にその修行場が沢山あった。寺の南、垂直に落ちる深い谷は格好の修行の場となっていただろう。それに由来してついた名で、後世の人はその意味が、漢字がわからず、発音だけから生まれた土生川でなかったかと思われる。

この付近は久保の内という。
「久保」「窪(くぼ)」は、「くぼ地」「水の湧く場所」という。私市の久保の内は、
台地の下に広がる水田地帯とそれに続く若宮神社一帯である。

窪坂の湧き水
 私市のそうれん道を土生川の堤防へと歩き、右へ行くと私市駅へと通じる道を左折してだらだら道を下ると、右手に今も綺麗な水が湧き出している、ちんちん水の辻に出る。

 交野では、よく澄みきった水質の良い水のことを
ちんちん水と呼んで、昔から飲料水として使われてきた。交野の自慢は水だと言われている。交野の水源は、他市のようなダムや河川の水を、人工的に急速に浄化したものではなく、汚れのない緑濃い木々と花崗岩質の砂れきの山で、自然の巧妙な営みにより、たっぷりと貯水され、じっくりと濾過されたもので、神からの贈り物と思われる清浄なちんちん水だからです。ちんちん水は、「沈沈」に通じ、神秘的な清らかな水を沈沈水(ちんちん水)と言われるようになった。

今も勢いよく湧き出ていて利用されています。
愛宕講の灯篭  
現在も村の5ヶ所に灯篭が立ち愛宕講が続いている
岩 屋 橋
 昔、獅子窟寺への参道は二つありました。一つは、私市の在の道を通って岩屋道を東へ歩き現在の私市山手1丁目の外れを山に向かうのと、もう一つは坂口の村から上る道でした。昭和45年水道局の低区配水池が完成した時、私市山手1丁目の道と坂口からの道が接続しました。

 私市の上ん山を切り開いて昭和4年、生駒電鉄私市線が完成。上ん山の南側の道が岩屋道、その南に「つぶれ池」があった。その時架けられたのが岩屋橋である。その後、昭和48年、上ん山が潰され松宝寺池が半分埋め立てられ公園となった。


岩屋橋から百重が原橋を見る

岩屋橋

昭和4年の銘がある
岩屋橋の地蔵
 岩屋道沿いには沢山の地蔵さんが祀られていたそうですが、昭和36〜37年以降、私市山手が開発されたころ無くなったしまった。その後、上ん山を畑にと開墾された時出て来られたのが、「岩屋橋の地蔵さん」だそうです。今も大事にお祭りされています。
百重ヶ原橋
百重ヶ原(ものえがはら)
 「百重・百々重」は、幾重にも重なり合う、次から次へと広がるという意味で、獅子窟寺から森の山々が幾重にも丘陵の尾根が重なり合って望まれる。そして、前の谷の延長線上には私市と森、天田宮の西の平地(院田の地)が望まれる。
 百重原に立って、北、西を望めば、山の重なり、谷の広がり、眺望まことによろしきを得ている。
  このことが百重原と付けられた地名のゆえんであろう。

百重ヶ原橋からの風景


桜の花が咲く頃、ここからの眺望は交野一でしょうか?

春にはらんまんの桜が咲き乱れる松宝寺池の堤の上からは、
きれいに整地された棚田の奥に、天田の宮と一条通りを見渡すことができ、
緑色の京阪電車と桜のコントラストがすばらしい風景が広がります。
 ときには、この風景を撮影するアマチュアカメラマンの姿が群れをなします。

昭和48年頃、手前が百重ヶ原橋〜一条通付近

昭和30年頃の風景 一両だけの京阪電車
月秀山の夜半の月松宝寺
 百重ヶ原橋を東へ行くと、目の前に高くて立派な石垣が積み上げられた松宝寺に行き着きます。
 春にはらんまんの桜が咲き乱れる松宝寺池の堤の上からは、きれいに整地された棚田の奥に、天田の宮と一条通りを見渡すことができ、緑色の京阪電車と桜のコントラストがすばらしい風景が広がります。
 ときには、この風景を撮影するアマチュアカメラマンの姿が、群れをなします。
 この付近は眺望もひらけ、昔から月見に最適といわれたため、月秀山の号をもち、もとは獅子窟寺の十二院の塔中の一つ、松宝院であったと思われます。
坂口の三又堰
 松宝寺の台地の下一帯、現在は水田になっている。条里制の一条通りの南側にあたり、松宝寺から山間に池が点在し、池の名も、池堂、池谷、潰池などが付けられていたが、今は埋められてしまい松宝寺池だけが残っている。

  この谷は、水の出の良い所であるので、谷をせき止めてため池を造っている。その池の水の管理若しくは用水の流れを方向別に分ける分水地の役目をしていたものである。

 そのことを示すのに、天田宮幼稚園と道を隔てた南側に「三又の堰(せき)」がある。ここから松宝寺、中通り、佃筋の三方に水を配分したのである。水の管理には十分気を配ったのである。
 小久保川は普段は殆ど水はないが、一度大雨が降ると水が溢れ山砂がどっと流されてくる。


この奥に三又の堰がある

上代水利組合(かみんだいすいりくみあい)の番水板
番水 私市番  6月、7月、9月 奇数月 午前6時より
天 田 神 社
天田の宮は田の神まつる
創建
 年代不詳だが、交野で稲作が始まった弥生時代頃に田の神をお祭りするするために創建された神社。
 裏山に物部氏のものと見られる古墳群があり、物部氏の祖先を田の神様として祭っていた。

 ご祭神
 住吉明神(四神)表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)、
 底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
 物部氏との関わり。
 私市・森の村社であり、元は寺村の住吉神社も合祀していた。
 このあたりは土地が広く、水がよく行きわたり、稲作には申し分のない良田でした。3世紀終わりから4世紀にかけて、開墾が進んだと思われます。昭和35年(1960年)、社務所付近から土師器や須恵器の土器が多数出土し、弥生時代の後期ごろから人々が水田を作っていたことが裏付けられました。

 奈良時代、郡津に郡衙(役所)が置かれたころ、天野川周辺は稲作の一等地として条里制が敷かれ、私市を一条通りとして北へ枚方市まで十条通りと区画整地されました。神社の西にある鳥居をくぐって左に100メートルも行くと、東西に伸びる道が現れますが、それが一条通りです。

石清水八幡宮三宅山荘園佃之跡石碑
私市3〜4丁目付近旧佃地区
 つい最近まで、天田神社より佃筋を西へ、小久保川から分流している幅70cm用水路の上の田んぼのあぜ道に、佃筋の仏さんがまつられていましたが、付近の宅地化により現在、西念寺に大切に祀られています。
 思わずひざをついて手を合わせたくなるような小さな阿弥陀さんは、田んぼの水を守り、村人の悩みを静かに聞いてくださったのでしょうか。

 千手寺に寄進された田の管理者の直営田を「佃」といいます。佃はこの一帯にあったので、「佃通り」という地名がついたと言われています。

最近、西念寺さんへ移座された、佃筋の地蔵さん

石清水八幡宮三宅山荘園佃之跡石碑

西念寺の墾田地蔵
 山号は天通山、浄土真宗西本願寺末寺、本尊は阿弥陀仏。嘉永元年(1624)、無量光寺4世知了が私市村門徒のために開いた草庵。享保4年(1719)に西念寺と称した。
墾田地蔵
 交野の子どもの歌に、「さいたかさいたか西念寺 ういたかういたか雲林寺 松のたからは松宝寺」と歌われている西念寺は、天田神社鳥居前から続く天野川条里制の一条通より北の小川沿いに建っています。

 門を入った南側に墾田地蔵さんが、8体の阿弥陀さんと一緒に東を向いて立っています。住職の話では、もともとこの石仏は、寺の北側の小久保川を越した北の墾田筋に立っていましたが、「西念寺に行きたい行きたいと夢告げされたので、ここにおいでいただいた」ということです。造立年代は室町中期と言われています。

 ゆっくりとお地蔵さんの前で拝んでいると、いつの間にか悩みも消えて晴れ晴れとした気分になるようです。
つい最近、佃筋の地蔵さんがここに移られて8体となっています。
    (一番前面に祀られている色の黒い地蔵さん)
古代天野川地方条里区画一条通遺跡
 奈良時代、郡津に郡衙(役所)が置かれたころ、天野川周辺は稲作の一等地として条里制が敷かれ、私市を一条通りとして北へ枚方市まで十条通りと区画整地されました。神社の西にある鳥居をくぐって左に100メートルも行くと、東西に伸びる道が現れますが、それが一条通りです。
 市内には私市・天田神社から天野川に向かって一条通りが列し、京阪交野駅の北側に四条通りが、そして郡津に五条通りが列している。
 条里制の行われた土地は、ちょうど碁盤の目のように、あぜ道をもって田を美しく整頓区画されている。

条里区画 六町(一町の長さ約100b・600m)の間隔で、縦横に直線の大道がつけられる。
こうして出来た六町四面の田を里という。この里を東西に並べた列を条といって、一条、二条と列名がつけられ、その大道を一条・二条通りといい、郡津は五条通りにあたる。

参照:交野地方の条里田(交野市史)
天野川地方条里制・一条通り

現在では、私市・天田の宮付近に一条通り、佃通りの地名が残っている。
また、京阪電車からも数年前までは、条里線が確認されたそうだが、今では家が建ち並び分からない。
私部には、町通り(ちょうどおり)−四条通り、枚方市の山の上が(古い名で南条村)−なな(七)じょう村などと残っている。

大化改新令の班田法(はんでんほう)

奈良時代前期(七世紀)に、おこなわれた大化改新令により班田収授法が施行された。

七世紀の初め頃、聖徳太子は、天皇の全国の統治者として「天下の土地人民の主は天皇だけだ。外の豪族たちの勝手な徴税や人民使役はいけない。」(天にふたつの日なく、国に二つの王なし。この故に天下を兼ねあわせて、万民を使いたまうべきは、ただ、天皇あるのみ。)といって、全統治者天皇と全人民を直結しようとする大理想を抱かれた。しかし、それは当時、鼻息の荒い曽我馬子のために実現できず、法隆寺斑鳩の宮で亡くなった。

この聖徳太子の理想を受け継いで、ついにそれを実現したのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)で、それを制度化したのが大化改新令である。

班田とは田を国民に分配することで、死ねばこれを国に収め、子供が生まれて六歳になると授けるというので収授といい、その田を口分田(くぶんでん)といった。

こうした口分田(くぶんでん)を各人に公平に分配できるようにと、全国の河や湖に近くて、稲作に便利な所に、条里制の区画を設けることになり、交野地方でも天の川付近やその他にこの区画ができた。


古代天野川地方条里区画一条通遺跡の碑

天田神社へと続く一条通
地名 「院田」 「井手」の由来
 鎌倉時代、亀山上皇が獅子窟寺の薬師如来に病気の回復を祈願し、回復を喜んだ上皇が、滞在した場所に観音寺(現在の廃千手寺)や、この寺を管理するための田を寄進しました。現在、この地域にある「院田」という地名は、この名残と考えられています。

 また、井手(いで)ともいう。「井手」というと水の集まるところ、水路の意味がある。天田、中通り、池ノ尻が東から西への扇状地の斜面に沿って付けられている。井手ノ内は、これらの水を全部もらい受ける形となる。この付近の地形は、東西方向、南北方向の接点の部分に当たり水がすべて集まる場所である。


 
もとは、「院田(いんでん)」と言い、それが「いで」「いでのうち」になって、漢字は「井手」を遣うようになった。

院田・井手地区を歩く


私市3丁目(どぼ池付近より)西念寺、雲林寺、松宝寺方面を望む

「どぼいけ」は西念寺から西へ中道の方へ行く途中の辺り。
水がついて、どぼどぼになるところから名づけられたようでうす。

         ♪さいたか さいたか 西念寺、  ういたか ういたか 雲林寺、
                   まつのたからの 松宝寺(まりつきの唄)


 大正の初めごろ当時の男の子も女の子も夏の遊びは天野川の水遊びと決まっていた。
たれがさそうとはなく、女の児が美しい河原に集まった。白いおこしの子供たちが川に入る前に合掌した。「さいたか さいたか」で始めた唄につれて深みにはいりもって輪をつくった。最後の「「松の宝は松宝寺」と唄い終わった時、皆がいっしょに頭の上で手をひろげた。(ふるさと交野を歩く ひろい話より)

私市・森を流れる加賀田用水
加賀田用水 : 江戸時代中頃(1700年代)、私市の池堂から森の加賀田に用水を引き、草川を通して私部の官田まで水を流したのが始まりで、明治16年頃、天野川の井堰が完成。

 その後、大正12年10月の大雨で諸川が氾濫し加賀田用水堰が崩壊したため、美田50町あまりが荒野になり村民は悲嘆に暮れた。私市の田圃の持ち主であった西村忠逸氏(1872〜1941)が深くこのことを悲しみ、同志たちと水利組合を組織して復興にあたることにした。同年12月に起工し、昭和10年5月に完成した。上流の堰を復旧しただけでなく、下流に一つ堰を設けて、新たな水路をつくった。かが田の「かが」は利益・利得の意味で、収穫の多い田と言う意味であろう。

 加賀田用水路への取り口は、市大植物園に渡る日の出橋の上流300mの場所にあり、落差10mはあろうか、天の川を石組みで堰き止め左手に造られている。加賀田用水は、私市から森、私部へと広く田圃の灌漑用水として今も利用され続けている。天の川の水を上手く取入た先人たちの汗の結晶である。
 ※ 私市の水利組合としては次の6つの組合がある。
      1.加賀田水利組合 2.上代水利組合 3.開水利組合 
      4.潰れ池水利組合 5.持久水利組合 6.越水水利組合

 

私市4丁目の愛宕灯篭
私市仁左衛門の旧宅跡
 加賀田用水を辿り、私市の四辻(旧磐船街道)から西に向かって歩くと左手に私市仁左衛門の旧宅跡があり、今は駐車場となっている。元禄2年(1689)2月に当地方を訪れた当時六十才の貝原益軒が仁左衛門宅に一夜を借りた。

 貝原益軒は紀行文「南遊紀行」に当時の天野川の情景を次のように記している。

 「獅子窟山より天野川を見下ろせばその川、東西に直に流れ、砂川に水少なく、その川原白く、ひろく、長くして、恰も(あたかも)天上の川の形の如し、さてこそ、この川を天野川とは、只天野川の流れの末ばかりを渡りて、古人の天野川と名付けし意を知らず。おおよそ諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天野川と名付けしこと、むべなり。
貝原益軒(1630−1714)
 江戸時代の儒学者であり、博物学者、教育家でもある。福岡藩士の子として生まれ、名を篤信という。生涯を通じ、長崎、江戸、京都などに遊学をし、さまざまな学問を学んだ。
「南遊紀行」から、元緑二年(1689)二月十日朝、京都東洞院の宿を出た益軒は、淀から八幡へ、洞が峠へと東高野街道を田口から郡津へと向かっている。獅子窟と岩船をみるために私市への道をたどり、この日は私市農長・仁左衛門の家に泊まっている。


諸国をめぐり、交野を歩いた貝原益軒

現在は駐車場となっている

加賀田用水の私市橋付近の堰 (天野川の右岸)

天野川堤のの向こうに見えるのが私市富士
サツマイモの収穫に忙しいお母さんたち
私市水辺プラザ
所在地  交野市大字私市から交野市私市9丁目
完成年次  平成18年度(H19.6.1供用開始)

目的
一級河川天野川の当区間(日の出橋から八幡橋)約430mには、豊かな自然環境が残され、多種の動植物が生息しています。また、大阪市立大学理学部植物園や交野市立スポーツレクリェーションセンター、府民の森・ほしだ園地のほか歴史的価値の高い砂防えん堤など、訪れた人々にやすらぎを与えてくれる施設や歴史的価値のある施設が川に沿って数多くあります。天野川水辺プラザ整備事業は、こうした自然環境を保全するとともに、川沿いにある交流拠点と連携し、地域交流の拠点にふさわしい水辺空間を創造することを目的とします。

事業概要
事業延長 約430m  総事業費 約8億円 事業採択 平成8年度  施工内容 親水護岸工事

尺治川堰堤   1基(石造堰堤、堤長9.3m、高さ2.2m)

天野川から取られた加賀田用水路

上の写真の皆さんの足元を加賀田用水路が流れている。
天野川の近代土木遺産
国登録有形文化財 (明治時代)
 
天野川堰堤   1基(石造堰堤、堤長20m、高さ6m)
 尺治川堰堤   1基(石造堰堤、堤長9.3m、高さ2.2m)
 尺治川床固工  1基(石造堰堤、堤長9m、高さ1.8m)

   ※オランダ人技師デ・レーケの指導により砂防堰堤が築造された。

天野川堰堤   1基(石造堰堤、堤長20m、高さ6m)

尺治川堰堤   1基(石造堰堤、堤長9.3m、高さ2.2m)

尺治川床固工  1基(石造堰堤、堤長9m、高さ1.8m)
天野川からの加賀田用水の取水口
私市惣墓・弘安地蔵
 私市の水辺プラザより数分歩くと、「私市共同墓地」に弘安地蔵さんが安置されています。
 このお地蔵さんは、府内で最古の銘「弘安4年(1281年)」を持つお地蔵さんで、府指定文化財・重要美術品に指定されています。
 弘安地蔵さんは、右手に錫杖を持たない古い形式のもので、頭上とその左右には地蔵菩薩を示す梵字「カ」が彫られています。像の右側には「石作三郎」と石工の銘が確認できます。
 別名「杖あずけの地蔵さん」とも呼ばれ、安置されている地蔵堂の中には、帽子や杖などが置かれています。
 人が亡くなると、生前、身につけていたものを地蔵堂に預けることで、早く極楽に導いてもらいたいという願いからかもしれません。庶民の願いを聞いてくださるありがたい仏さまとして、今も大切にまつられています。
[弘安の役] 元は1279年南宋を滅亡させ、1281(弘安4)第2次日本遠征を決行した。元・高麗の東路軍4万2000は5月に合浦を出発し、対馬・壱岐を襲い、博多をめざしたが防塁と日本軍に阻まれ上陸できなかった。一方、旧南宋軍を主体とした江南軍10万は、遅れて中国の慶元を出発し、平戸付近で東路軍と合流。7月30日、平戸から鷹島へ移動していた元軍を大暴風雨が襲い、元軍は壊滅的な打撃を被った。その後、日本軍による残敵掃討戦が展開した。2回の蒙古襲来は失敗に終ったが、元は日本遠征の意志を撤回せず、日本側は異国警固番役を廃止することはできなかった。またこの蒙古襲来は、鎌倉時代の政治・社会・文化に大きな影響を与えた。  (岩波日本史辞典より引用)
この石仏には、左右に「右ハ為二浄林浄雲一石作三郎」「弘安四年四月十五日立之」という銘が刻まれており、ここから「弘安地蔵」と呼ばれている。
 大阪府下にある石仏の中では、年号のある一番古いもの
でさらに、像の頭上とその左右に地蔵の種子(カ)が見える。新仏ができると、仏が生前使用していた杖、帽子、履物などをこの石仏に届けると言う。昭和三十六年十月、大阪府指定文化財、重要美術品に指定されている。

サランラップで年号を写し取って見せて頂いた
そうれん道の綺麗な地蔵石のお話
 百重が原橋を渡り、わだんざか(和田の坂)を下り雲林寺へと向かう。「井出の内」付近にあった、そうれん道の休憩所のお話。
 この付近の田んぼの持主が何気なく持って帰った、握りこぶし大の綺麗な石。その晩、持って帰った御主人はひっくり返るほどの腹痛に襲われた。手当をすれど痛みは激しくなるばかり、「これは、持って帰った綺麗な石は、そうれん道の地蔵さんだったに違いない」と、翌朝早く奥さんが綺麗な石を元の場所へ返され、家に戻ってみると、御主人は元気に朝食を摂られていたそうで、今も、この綺麗な地蔵石は田んぼに大事に祀られているそうです。

私市の昔のそうせん道に祀られていた「新道しるべ仏」
昔懐かしい写真集 

京阪・河内森駅 昭和30年代

京阪電車の架線を潜って天田神社から若宮神社まで

獅子舞  天田神社

私市駅 昭和30年代

墾田地蔵 (昭和54年)

弘安地蔵 (昭和55年)
天田神社の秋祭り
本宮での「獅子舞」の勇壮な踊り


 次回は、第161回歴史ウォーク、11月15日(火)、「山の根の仏」を平田政信さんの案内で歩きます。集合は、京阪・河内森駅 10時です。
  お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただき有難うございました

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