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交野歴史健康ウォーク  162回
倉治の仏たちを訪ねて



案内人:平田 政信氏(交野古文化同好会)

 日時 : 2016年12月7日(水) 午前10時 交野ドーム集合  参加者 22名(会員18名)

 行程 :いきいきランド10時〜第二京阪国道〜冷や水地蔵〜腰痛地蔵〜バイパス地蔵〜
      倉治の村中へ〜賽ノ神〜仁平の洗濯場〜善通寺の仏塔〜高い塀の家〜四軒垣内〜
      環濠水路〜結了町集会所・八紘一宇の碑〜交野市歴史民俗資料室見学
 12時解散
 2016年12月7日(水)、天候 晴れ。交野ドーム(いきいきランド)に集合、午前10時出発。
 高尾事業部長の司会で始まり、本日の案内人平田さんよりウォークの行程について概略説明を受けたあと、いきいきランドを元気に出発。
 第二京阪国道〜青山の仏たち〜免除川〜倉治の賽ノ神〜仁平川の洗濯場〜環濠水路〜四軒垣内〜村中迷路〜交野市歴史民俗資料室見学
まで、周辺の仏たち・史跡・遺跡など大変詳しく案内頂きました。
 
 平田政信氏より、今年5月の勉強会で「交野の仏たち」をテーマに、交野の歴史・風土記・仏たちなどをお話しいただき、6月から12月まで、6回シリーズ歴史健康ウォークで「各地の仏たち」を詳しく案内頂きました。

 「交野の仏たち」シリーズ歴史健康ウォーク
   @6月9日(木)   石仏の道を訪ねて 
   A7月20日(水)  かいがけの道の仏たち
   B9月21日(水)  妙見山麓の仏たち
   C10月13日(木) 私市の仏・弘安地蔵
   D11月15日(火) 山の根の仏たち
   E12月7日(水)  倉治の仏たちを訪ねて

 今回の「交野の仏たちシリーズ」、沢山の参加者の皆さんから一様に、参加して良かったと感動の声を頂きました。
 「交野の夫々の町の歴史、遺跡の解説、各地に祀られている仏さん、石仏など詳しく案内頂きよく理解できたように思います。平田さんのお話はとてもお上手で、地名や史跡についても大変興味深く聞かせて頂き、足元の普段あまり気に掛けないものにも色々な歴史があることが分かりました。大変勉強になりました。」と好評をいただきました。


※HPの掲載に当たり、講師の平田さん作成のレジメを中心に、交野市史、ふるさと交野を歩くなど
各種書籍・文献書類など、参考にさせていただきました。記して感謝申し上げます。

当日のウォークマップ

交野市歴史民俗資料室前にて記念撮影
=倉治の仏たちを訪ねて=  レジメ
いきいきランド交野をスタート


高尾事業部長の挨拶に続いて、平田さんよりウォークの行程などを説明を受けたあと、
倉治の仏たちを訪ねて、元気にスタートしました。
「野に坐する仏たち」

交野は何の故郷かと聞かれたなら「地蔵の故郷だという」(広義ではこの地域では石の仏を地蔵と呼ぶ)、何故こんなところに、どんなご利益が、創る人・祀る人、拝む人たちがそこにいる。
冷や水地蔵
 最初に案内されたのは、久御山線をわたり私部墓地へと続く昔の野辺送りの道・南後(南郷)を通って、青山の田圃道にひっそりと祀られている「冷や水地蔵」だった。こんなところにも地藏さんが居られると、皆さん感心しきり。また、この近くに祀られていたが、第二京阪国道の工事中にどこかえ消えてしまった、「沈黙地蔵」について、当時の状況など詳しく説明を受ける。
南後(南郷)の地名の由来
 寺から流れ出る北川から交野小学校のグランド辺りを中心にした東西に細長い地域である。「南後」と書いているが「南郷(なんごう)」ではないか。私部からの出郷があったものと考えられる。北川沿いの自然堤防上に数戸の家が出てきて、その付近を開墾していったものであろう。
 もう一つは、向井田から石ヶ坪辺りを中心として、天野川筋とは別に条里制が行われた場所である。石ヶ坪は「一の坪」からきているが、「南後」の所は七の坪か七条かに当たり、この七の坪に集落が造られ集落名を「七郷(ななごう)」と呼んだ。これがだんだん訛っていって「なんご」になったという考え方である。

青山の田んぼの畔にひっそりと祀られている


「沈黙地蔵」(第二京阪国道)、今はその姿を確認することはできません。


平成13年(2001年)11月の第21回の健康歴史ウォークの時に、
平田さんが「沈黙地蔵」と名付けて小さな案内板を建てられた。
腰痛地蔵(青山地域・行方不明)
府道久御山線を北へと歩き、青山から神宮寺方面へと通じていた道路が写っている場所で、
「のどかな風景写真(青山)」を手に、「腰痛地蔵」のお話を詳しく聞きました。
                        腰痛地蔵(青山地域・行方不明)
 昔、灌漑用のはね木の重りにするために、土地の百姓が石仏を二つに割って手頃な目方にしたところ激しい腰痛が起こったという。早速もとに戻してお祀り、以来誰がいうとな<「腰痛地蔵」と呼ばれるようになった。腰痛を起こした人たちがお参りすると、よ<利いて下さつたという。


 上の写真には、5体の石仏と右に二つの石仏らしき石が写っていますが、5体のうち左から3番目の割れた阿弥陀様が「腰痛地蔵」である。

 こんな風情のある風景も近年住宅開発が進むにつれて見ることが出来なくなっている。
大変貴重な写真です。
免 除 川(めんじょがわ)

 この川の源流は交野山の頂上のすぐ北の谷をせき止めてつくった白旗池である。
白旗池は流入する川はなく、谷の湧水を貯えている。池を出た水は、谷をうがって、
源氏の滝となって流れ落ちる。この滝をでて、平野部を流れ下って、郡津の松塚団地から天野川に注いでいる。

 免除川の名前は、この川は元々は機物神社の北側を流れ下っていた。しばしば倉治地区で洪水を起す。
被害をなくす為、川の付け替えを計画し、倉治、私部、郡津領の田畑に新しく川を通した。
その代わり川沿いの田畑については、年貢を免除した。時期は室町時代のことだといわれている。
 春は、川沿いの桜並木が素晴らしい。

免除川

この辺りから見える交野連峰が美しい!
交野警察署
2012年(平成24年)7月2日に開署されました。
2011年(平成23年)10月22日 - 警察署名を当初の計画だった枚方第二警察署から交野警察署にすることを決定。
2012年(平成24年)7月2日 - 大阪府警察65番目の警察署として開署。大阪府警察では1994年(平成6年)の関西空港警察署以来18年ぶりの新設警察署となる。同日に、枚方警察署から交野市と枚方市東部の管轄を移管。
<バイパス地蔵>《浜の池地蔵》
  機物神社の西南で、府道交野久御山線と交野中央線が交差する。そこからバイパス沿いに南へ50m行くと路肩より一段低い東側に、仏高30cmの阿弥陀さま(浜の池地蔵)がおられる。石自体は小さいが顔はよく残されており素朴で力強い。背後には倉治小学校、さらには交野山の頂きが見える。久御山バイパスの交通安全と子供たちを見守って下さる有り難い仏様である。

バイパス地蔵の向こうには、倉治小学校が見えます。


バイパス地蔵さん
 府道久御山線沿いの浜の池地蔵(バイパス地蔵)にお参りする。交野山を背に良いお顔をしておられる。ホッとする風景であるが、普段の生活の中では中々目に止まらない地蔵さんである。
 普段あまり歩くことのない倉治の集落への入り口付近に、「賽ノ神」が祀られている。北へ行ったところに「仁平川の洗濯場」。
 ここの四辻に立って見える風景はいい。小川が流れ、石垣に板壁、白壁の家と昔懐かしい家並みである。少し歩くと、へっついさん(台所)の煙出しを備えた大屋根の家、茅葺の家、どっしりとした門構えなど、素晴らしい家々が並ぶ。

 「光明院」付近の四辻からは、前が見通せない。昔、ここに泥棒が入ったが、村から出るに出られず捕まったとか。
 
地名・倉治とは?

<広報かたの6月号・地名に歴史ありを参照>
 倉治の名前の由来には、さまざまな説があります。「クラ」は岩や断崖、または倉庫や山の鞍部を指します。崖の下の扇状地に村があることや、蔵が立ち並ぶ地であったことから倉治とついたとも言われています。

 倉治では古墳時代後期の古墳群や山中に造られた寺院跡などが発見されており、また集落は現在でも江戸時代の古い町並みの面影を濃く残し、複雑に入り組む道は迷路のようです。


当日の倉治の村中ウォークマップ
地名・東浦

 旧倉治の集落一帯を東浦と呼びます。「浦」という字には畑という意味があります。「浦」は表裏の「裏」の意味も持っており、集落の東の裏手にある畑を指しています。
 他にも、この地名からは倉治が防衛機能を備えた環濠集落であった可能性が考えられます。環濠集落には「浦」「代」「口」のつく地名が多くみられ、倉治にも東浦を中心に「北代」「西口」などの地名が残されています。集落は北にがらと川、南は中川に挟まれており、中を通る道は狭く、カギの手に折れ曲がっていて、防衛に配慮した造りになっています。

村の入り口には、村の外から災いを入れないための「賽ノ神」が祀られています。
《仁平川の洗濯場》
 賽ノ神から北へ行き、少し右へと曲がり左へ真っすぐ行くと石橋があり、その東側に「仁平川の洗濯場」がある。この洗濯場の西側にある家の屋号が「仁平」といい、流れる小川が仁平川という。
 「この洗濯場は、村の人々の語らいの場であり、コミュニケーションの場であった。家で親夫婦、年寄りが昼寝をしている間にそっと洗濯にくるのが仁平川の洗濯場だった」と平田さんは説明された。

 ウォーク当日は大物ごみの収集日で集積場となって沢山の物が集められていた。
普段は下記の写真の通りです。

恵方棚
正月さんが出から降りてきて門松でお休みになつて、門□のしめ縄の下を通り、
お迎えする棚を恵方棚という。
棚の中央に鏡餅、こんな神の場が新庄さん宅に今も健在!

善通寺裏の仏頭
善通寺さんの裏手に祀られていた仏頭は今はここになく、光明院へと移されました。
少し西進して立派な土塀の見える辻にでる。小兵衛さんの屋敷の土塀である。
 
倉治の子守唄 
『こんや来るなら 高い塀をこして 千両椿をおらんように』 
歌詞の意味は少し複雑に聞こえるが、なんとなく哀愁を覚える。
倉治の村に、今に伝わる「唄」
  @私部の子守唄に北田はんの歌が残っている。
     「いたら見てこい北田の屋敷 四角四面の良い屋敷」
      この歌が歌われたのは大正の初めのころだろう。 屋敷は約四反(1.200坪)ある。
  A春日との喧嘩唄
     「かすがべい けんかしよ 破れた傘で受けたるわ!」
       逆にかすがの子はくらじべい・・・とやり返したと思われる。
  B倉治の子守唄 
     「こんや来るなら 高い塀をこして 千両椿をおらんように」
       何で子守唄やのに高い塀を越えなあかんのか? 
《倉治の迷路・光明院付近
 
光明院の境内には、沢山の石仏が祀られている。交野にたくさんある石仏の中でも美しい阿弥陀様の坐像がある。室町時代の作だという。
 交野の古い村々の中で、倉治の光明院付近の道が特に分かりにくい。
 古い道は、T字型に結ばれていて、遠見遮断(辻から辻が曲がっていて見えない)になっているうえ、くねりが細かい。道かと思って飛び込んだら家で閉ざされた袋小路であったりする。


 倉治の集落は、北のがらと川と南の倉治中川とに囲まれて密集した形態をしており、環濠集落ではないかという。道路も狭く、カギの手にいくつも分かれた防御的配慮がなされている。村から出る道は、北は津田道、春日道、西は郡津道、南は私部道、東は機物神社への参道である。(交野市史より)

四軒垣内付近の風景
倉治の静かな町並み

板塀や白壁の昔を偲ばせる建物があちこちに建っており、
道路は遠見遮断で一度通っても、同じ道を通るのは難しい。

金沢邸

環濠水路?
結了町集会所の前に、「八紘一宇」の碑があります。
交野では、郡津神社境内に一つ、併せて二つあります。
八紘一宇 (はっこういちう)とは?

 「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。第2次世界大戦中に日本の中国、東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。
 『日本書紀』のなかにみえる大和橿原に都を定めたときの神武天皇の詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」 (六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き,八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす) とあることを根拠に,田中智学が日本的な世界統一の原理として 1903年に造語したもの。

 (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より)
《大仏坂・どうの前》
 倉治の教育文化会館前の道を南にとるとすぐ四辻に出る。下を倉治中川が流れている。この角を「どう前」と呼んでいる。ここを過ぎて、なお南へ行くと信号のついた四辻に出る。ここに京阪バスの「大仏町」のバス停がある。この交差点を南へ渡るとだらだらと下り坂になっている。この下り坂を「大仏坂」と呼んでいる。

 この地は、奈良の大仏建立に関わる歴史を伝えているのではないかと、故奥野平次氏は「ふるさと交野を歩く・ひろい話」の中で次のように書かれている。
 大仏様の大体の形が出来て、鋳型に銅を流し込もうとしたが、どうも上手くいかない。東大寺では困って、宇佐八幡宮の付近にいる技術者(渡来人)に来てもらった。その技術者のターミナルとなった所が、枚方市、中宮の百済寺と、私市の獅子窟寺である。
 どちらからも、交野市の傍示に上り、生駒市の傍示に通じる「大仏の道」を通って、東大寺に急いだのでした。奈良で大仏の仕事を終えた技術者がここの地区で鋳型に銅を流し込んだ仏様を作ったのでは、または、その技術者が住み着いたので大仏の地名がついたのではないかと。 

国の登録有形文化財の交野市立教育文化会館


国の登録有形文化財の交野市立教育文化会館
交野市立歴史民俗資料展示室(交野市立教育文化会館)
所在地 交野市倉治6丁目9番21号 電話(072)810−6667
交通機関 JR学研都市線「津田駅」下車 徒歩10分
京阪バス京阪交野市駅行き、 南倉治下車1分、又は香里園行き大仏町下車徒歩5分
開室日時 毎月水曜日〜日曜日 10時〜17時。ただし入室は16時30分まで。

       
  教育文化会館・・・交野無尽(近畿大阪銀行の前身)の昭和初期の建物

          
 昭和4年(1929)に建てられる
        昭和17年 交野町へ庁舎として寄贈される
        昭和45年(1970) 庁舎移動に伴い、交野市立教育文化会館
                   と改名し文化的な活動施設として利用される
        昭和16年(2004) 交野市歴史民俗資料展示室を開設する
        昭和19年(2007) 国・登録有形文化財に登録される


   

  金澤泰治・加地高貞・新庄武治郎・奥西源五郎と共に交野金融合資会社を大正三年八月に金沢泰治氏(当時27歳)の邸内に創立。同十二年一月株式組織に改め交野無盡金融株式会社と称し、金澤氏が取締役社長に推され、昭和十五年三月大阪産業無盡を合併し又府下枢要の地に八支店を設置し、一意庶民金融の使命達成に邁進す。
 創業以来、総契約高実に1億6千2百余萬円に社礎愈々強固内容益々充実今や全国無盡業界屈指の地位を占むるに至る。蓋し社長が30年に亘り終始一貫天賦の才略と不屈の信念とを以って日夜経営し而も徹底せる大家族主義に依り明朗、親和、渾然一体の活動を為せしに因る。
  今や時局下社長自ら率先府下優良四社と謀りて合併を敢行し光栄ある当社は茲に発展的解散を遂ぐ、乃ち、社長の発意に依り昭和17年11月3日、明治の佳節とし本店土地建物全部を其の発祥の地交野町に、金品を各種公共団体に寄付す、願う所は地方自治の向上と発展と銃後・士気の鼓舞に在り以て天業翼賛の微衷を表するのみ。解散に当り其沿革を略記す。  (南の端の碑文より)


                                創業者・金沢泰治氏の銅像 



交野無尽 創業者・金沢泰治氏の銅像 ↑
予定通り午前11時半、交野市歴史民俗資料室に到着して、
常設展と特別展(交野の鬼瓦)について、高尾さんより詳しく説明頂きました。
平田さん、大変詳しくご案内頂き有難うございました。


 今回は、故奥野平次氏が著された、「ふるさと交野を歩く(里の巻)(ひろい話)」の倉治編、倉治の石仏編などをじっくりと味わうことが出来た楽しい歴史ウォークでした。 

 次回は、平成29年1月2日(月)、恒例の初歩きで、「獅子窟寺の初詣・国宝薬師如来坐像」、集合は京阪電車・河内森駅前、午前10時です。皆さん、奮って参加下さい。
 
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
最後までご覧いただき有難うございました

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