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 交野歴史健康ウォーク

2002.9.14、森地区・地名を訪ねる 第36回

森の地名の由来

池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。
 それによると延久年間(1069〜1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。
 なお、森には小字名が実に多い。しかも、山地の方も細かに分かれている。これは江戸時代、森を領有していたのは、初めは大阪町奉行であった旗本島田越前守直時、次いで淀城主永井尚政、旗本淀城尚春(尚政の子)、弟の永井尚庸などの領地となり、最後は小田原大久保家の領地となって幕末に至る。この永井家のとき過酷な年貢の取り立てを行ったので、村人が自衛策として、わざと字名を多くし、細かい田に分散させ、段別が少ないように見せかけたためであると言われている。

   交野ドーム→船戸→地蔵筋→城戸→大量権→油田→JR河内磐船駅→権田→
加賀田→中川辺→高堤→大松→森新池→蛙石→北城戸→須彌寺→交野ドーム

森地区小字図面・歴史健康ウォーク行程図

大量権(だいりょうごん)の田圃の向こうに
河内磐船駅前のマンションが建ち並ぶ
大量権(だいりょうごん)の地名が
記載されている駐車場、城戸付近
油田(あぶらでん)前で
図面を見ながら散策
磐船村役場跡石標
JA磐船前に設置されている
JR学研都市線南側の地蔵
河内屋通り阿弥陀仏
河内磐船駅北側・権田(ごんでん)
付近で地名、森遺跡の話を聞く
ゆうゆうセンター駐車場付近から
 中川辺西川辺付近の
田園風景を望む
ゆうゆうセンター駐車場より西側を
国道168号線の高堤を望む
右奥に見えるのは第4中学校舎

 2002.9.14(土)、第36回の参加者は、7名。 午前9時過ぎ、森地区を目指して交野ドームをスタート。
府道久御山線を渡り交野高校の前を西に行くと、ガソリンスタンドがある交差点に出会う。この辺りを「船戸」という。この交差点を南へ行くと岩船小学校に行く。この下に大知川(おちがわ)が流れている。
 「船戸」は、川や海岸での渡し場を意味するのと、ほかに船戸の神、すなわち道祖神のことをいうことがある。森の船戸は地形的には古くは天の川の渡し場であって、また道祖神のことであろう。森墓地の迎え地蔵、一石三地蔵尊
 この南北の筋は地蔵筋に当たっている。村から出る旅人の安全を祈願した。また、村に残った家族の者が旅立った人が無事に帰ってきますようにと、あるいは日ごろの無病息災、家内安全を祈ったであろう。大知川という川があるところから、特に盆の供養や精霊流しをここでしたものと考えられる。
 遠い昔の、ほのぼのとした習わしを思い起こさせる地名である。
地蔵筋は、昔、岩船小学校付近に地蔵があって、村人の信仰を集めていた。このことから付けられた地名である。現在、須彌寺のお堂には、森の村から集められたお地蔵さんが沢山安置されているが、この地蔵筋からも集められたものだろう。
 地蔵信仰は平安時代中期ごろから始まったと言われる。一般民衆は村外れに地蔵様を立てて、それを毎日拝むことで来世への往生をお願いしたのである。
 森の人々も村の西外れに地蔵様を立て、日の沈みゆく西の方を拝みながら往生を求めていたものと思われる。
 森の村に入ると、あちこちに小さな池がある。小路の西側に「元森小学校の跡地」という石碑が立っている。
 森小学校及び交野小学校の変遷を見ると、以下のようである。
 明治7年(1874)10月 森村に百四十番小学校創立、
 明治8年(1875)森小学校と改称
 明治18年(1885)交南小学校が天野川堤に建ち、森は第二分校となる。
 (星田、寝屋、打上、灯油、茄子作、山ノ上、村野、倉治、私部、森の10校を廃して、交南小学校を本校とし、第一分校星田、第二分校森、第三分校倉治、第四分校山ノ上、第五分校灯油、第一分教場を村野に設ける。)
 明治25年(1892)交野、磐船、星田、川越、水本、5ケ村組合で交南高等小学校創設。
 明治28年(1895)交野、磐船両村組合尋常小学校できる。
 昭和22年(1947)3月 教育基本法、学校教育法によって、六・三制義務教育となり、交野小学校、星田小学校、交野中学校できる。
 森から京阪河内森駅に通じる道がかぎ型に合流する地点付近を城戸(きど)と言い、この直ぐ東側の角地に大きな石灯籠があり、そのすぐ西隣に「蛙石」がある。由松とお種の伝説が残る。
 城戸から東へ進むと、小字名の大量権、油田の田園風景が磐船駅に向かって広がる。大量権は、大規模に開拓された田であり、油田は油が出たのではなく、石清水八幡宮の燈明の油代として、この田の米を上げていたという。森新池の南側に当たる。Y氏が「大量権」と書かれた駐車場の案内板を見つけた。今も村の人々は字名を大事に守っておられる。こんなことも、地名を探して歩いてこそ、見つかるものだと一同、歓声を挙げる。JA磐船支店の前で、磐船村役場跡石碑を見つけ、右折して河内磐船駅に向かい、河内屋通りの阿弥陀さんに参拝。 
 現在、河内磐船駅の周辺は、新しい街づくりでマンション、スーパーなどの商店舗、住宅などが建ち並び、新しいビルなどが建築中である。駅前で、平田さんより森遺跡の発掘された状況など説明を受ける。この森遺跡は数年前から発掘され、古墳時代から7〜8世紀頃の遺跡・遺物が見つかり、また駅北側に建設されたマンションの土地から、森遺跡・三宅山荘園の跡(4世紀から5世紀中葉の水田の水路群や、5世紀後半〜6世紀前半の鍛冶炉跡、また、10〜13世紀の三宅山荘園跡と考えられる建物跡・遺物など)が確認された。
 駅前開発の進んでいる森地区の権田、加賀田、平田、付田など小字名(旧地名)の説明を受け、京阪電車の高架下を東に進みゆうゆうセンター玄関前広場に到着。駐車場前に広がる田園風景は、中川辺、西川辺の南半分の地域で、北側は天野が原の住宅街となっている。西側には168号線(磐船街道)の高堤がある。この地域は、奈良時代の条里制の跡をうかがわせるように規則的に並んでいたが、最近の開発でその面影もなくなりつつある。高堤には、蝋の原料にもなる櫨(はぜ)の木が植えられていたが、車の通行量の増大に伴い次々と切られて今は2本ばかりを残すだけになっている。
 JR学研都市線のガードをくぐり、私市の大松の信号を左折した所(私市の旧道の入口)に珍しい六角形の道標が常夜灯とともに保存されている。ここは、磐船街道と「かいがけの道」の分岐点である。
 これより、南側に東川原、中川原、西川原の地名が残されている。天の川が山地から出たところで、広い扇状地を形成していた。
 帰りは、再び森の城戸・北城戸を通り、須弥寺に立ち寄り交野ドームで解散した。

 森・私市の町にも昔の歴史がしっかりと残され、今も息づいていることを確認できた、健康ウォークでした。
平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
  次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
 


 歴史健康ウォーク「地名を歩く」より  今日の話はなんでっか?2002.9.16(No35)
 
 地名を歩いてみました。地名地図を見ながら現地を訪れは゛背景が良く分かる。地名は、人間とかかわりが出来たから出来た。この「出来たから出来た」ことを調べていったら、いろいろなことがわかる。
まず、私達の住んでいる地域の地名から調べ歩いて行くことにしました。
森地区の大量権(だいりょうごん)は小字地図には「大量橋」となっているが、村人は「大量権」と言っている。
今回のウォークでどちらが本当なのかを確認することが出来ました。
現在「大量権」の一部が駐車場となっており、そこには「大量権駐車場」の看板が掲げられていました。 「大量権駐車場」の看板
やっぱり歩いてみなければわかりまへんなぁ! 
 「大量権」(だいりょうごん)が正しい地名でしょう。
「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。
南側(天田の宮北側)を流れる小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇夾部の砂質の所の開墾が行われたところと思われる。
また、この辺りを城戸(きど)という。
森の西の出入り口の所を城戸、東の出入口を北城戸と言っている。「城戸」は「木戸」であろう。
森を通過して山麓沿いに走る山根街道がある。この道路の東西の出入口に木戸を設け、村に出入りする人々を見張ったり、村への乱入者を取締ったりしたところであろう。夜間は木戸を閉めて村を防備したのか?。
城戸のすぐ南に天田の宮が、北城戸を出た所に須弥寺があって、どちらも村人の信仰の場所である。
その場所に立って当時を偲べば、昔の人々の生活が手に取るように分かるのも「地名」を歩いてこそ
           「あなたの足下に地名がある」
     2002.09.14「第36回歴史健康ウォーク」より 

森の小字名と言い伝え
そのほかの小字名についてはこちらを参照ください

 加賀田(かがた) :河内磐船駅の北で、京阪交野線の東側の地域をいう。
   草地のような平坦地で、江戸時代中期以降、私市領の池堂のため池の水を貰って、加賀田へ引いていた。この用水をとくに加賀田用水と言う。

 権田(ごんでん) :加賀田の南側、河内磐船の南北の地を言う。ごんでんとは、墾田のことで、三宅山に属する佃の開墾の拡張によって開けた土地である。
  言い伝えによると、権田の野道に地蔵さんがあり、「権田お春」とよんで村人が親しんでいた。今は、私市の西念寺の境内に残っている。

 地蔵筋(じぞうすじ) :昔、村はずれのあたり(岩船小学校付近)に地蔵が立っていて、村人の信仰を集めていた。そのことから付けられた地名。
  
 茶長(ちゃおさ) :昔から茶の栽培が行われていた。昔、この茶畑の責任者の畑が多くあったので付けられたか、あるいは屋敷があったために付けられたのではないかと言う。

 油田(あぶらでん) :森は石清水八幡宮の神人(じにん)として昔から仕えてきているので、油田は八幡宮の燈明の油代として、この田の米を上げていたという説をとってある。
 しかし、村の長老たちの中には、それもあったであろうが、天田宮の油代としてこの田の米を換金していたという両方の説がある。今はどちらが正しいのか詳しくする根拠がないのであるが、どちらも間違いではないだろうし、時代の違いから後世になるにしたがい、八幡宮よりも地元の氏神を大切にするようになり、天田宮の賄い用の田となったと考えるのが妥当のように思える。

 大量権(だいりょうごん) :。「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇央部の砂質の所の開墾が行われたものと思われる。


城戸、北城戸の由来

 城戸(きど)・北城戸(きたきど) :森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。
 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。
 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。



蛙石の言い伝え  ふるさと交野を歩くひろい話(二)より

 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。蛙石の伝説
この夫婦は僅かな田畑を耕作して生計を建てていた。ところが、ある日庄屋さんがきて「由松さんよ、郡代からの命令だが、大和の国の郡山城の普請に出てくれんか。各村からも数名の呼び出しがあるので、明日是非郡代の処に出頭してほしい。」こんな命令があった。
 由松は親類や近所の人達にお種のことをお願いして郡代のところに行った。お種も由松さんを見送るために郡代のところに行ったところ、多くの人々が来ていた。郡代から大阪城に入ってそれから郡山へ出向いてくれとのことであった。 
時々夫から無事を知らせる便りが来た。「郡山城では石垣の石を各地から運搬している。もう3ヶ月もしたら工事も完了する。」と知らせてきた。
 その後、夫由松からの音信のない日が続いた。夫は元気で働いていてくれているとは信じているものの、音信がないのでさびしかった。3ヶ月も過ぎたのに夫は帰って来ない。他の村の人々は一人、二人と帰ってきたのに夫由松は帰って来ない。
 帰ってきた人達に由松の様子を尋ねたが誰も知らなかった。ところがある人の話に、城の石垣が崩れて数名の死傷者がでたということであった。
 お種さんは庄屋に行って由松の安否を聞くが、庄屋は郡山に問い合わせるとの返事だけであった。
 お種さんのことを村の人々が囁くようになった。お種さんは夫の帰るのを今か今かと待ったが夫の姿は見えなかった。村の人々が、淋しく夫の帰りを待つお種さんの気持ちを慰めては見ても、いよいよお種さんの悲しみは日増しにおおきくなり、涙のかわくことはなかった。
 そのうち、お種さんの行方はわからなくなった。関係先をも探したが不明であった。
 村の人達はお種さんの行方を探しているうちに、何時もお種さんが立っていた所に、大和から帰ってくる方の道を見るように蛙のような石があるのに気がついた。お種さんは由松さんの帰るのを待ちきれず石になったのではないか、誰が言うとはなしに世間の口に上った。


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