第13回京遊会


平城遷都1300年祭で賑わう古都奈良散策
2010.11.17 〜11.18
岩下利明さんより写真を投稿頂きました


4年前、長谷川崇明さんにご案内頂いた時のホームページ
第9回京遊会、猿沢の池・興福寺・ならまち散策もご覧ください!




 11月17日(水)〜18日(木)、第13回京遊会が寺田尚明さんのお世話で、古都・奈良を舞台に開催されました。特に、今年の奈良は平城遷都1300年を記念して沢山のイベントが繰り広げられ、平城宮跡には350万人を超える観光客が訪れた。11月7日には華やかに開かれたイベントも幕を閉じ、我々が訪れた時は本来の奈良らしい雰囲気を取り戻しつつある時だった。

 11月8日のasahi.comによると、「奈良県で開かれている平城遷都1300年祭の主会場、平城宮跡会場(奈良市)で7日、フィナーレを飾るイベントがあり、同会場が閉幕した。4月24日の開幕以降、当初予想の250万人を大幅に上回る363万人が来場し、復元された大極殿(だいごくでん)や古代儀式の再現などを楽しんだ」という。

 11月17日午前11時40分、集合時間よりも20分も早くJR奈良駅改札口に参加者9名全員が集まった。互いに元気な姿に手を取り合って再会を喜び合い、今回4年ぶりにお願いした、奈良観光ボランティアのベテランガイド・長谷川崇明さんの案内で、古都奈良の魅力を十分に味会うことが出来ました。
 今回の参加者は、岩下、上田、菊谷、田中、寺田、冨田、長谷川、三木、村田の皆さんでした。

 次回は、来年11月頃、三木・冨田両君の担当で、近江長浜(未定)周辺散策を予定しております。また、元気でお会いしましょう。
早速、お世話いただいた寺田さんよりメールを頂戴しました。

幸い天気に恵まれ、旧友長谷川君の名ガイドにも恵まれ、また皆さんのご協力を得て、今年度の世話役を無事果たすことが出来ました。
 ありがとうございました。

 4年ぶりの奈良での京遊会でしたが、訪れる度に古都の魅力が増していく感じです。反面,翌18日の平城宮跡は中国風の朱塗りの朱雀門、大極殿等、見方によってはNHK大河ドラマのオープンセットの様で違和感も有りましたが、とにかく、皆さんそれぞれに歴史ロマンを感じる2日間だったと思います。

 来年度は、新に*長谷川崇明君の加入を得て、平成23年11月16〜18日頃に開催予定です。 次年度幹事役の冨田君、三木君宜しくお願いします。
残念ながら参加できなかったお二人からもメールを頂戴しました。

大変楽しげな京遊会であったようで、良かったですね。
HPへのアップを楽しみにしています。

平城遷都巡りの京遊会、楽しいご報告ありがとう。長谷川さんの名案内、さぞ良かっただろうと拝察されます。また、機会を見て、訪れたいとおもいます。いつもご案内、ご報告ありがとう。楽しみに拝見しています。
新装リニューアルされた奈良駅


H15.11.7より仮駅舎 関西線H20.6.29高架切替え
桜井線H22.3.13高架切替え
 旧駅舎は観光案内所としてH21.7.25オープン
 自由通路H22.11.3使用開始


旧駅舎は観光案内所としてH21.7.25オープン

建築家や市民らが「JR奈良駅舎を生かす会」を発足、
駅舎の保存・活用を要望する1万3千人分の署名を集めた。

 県やJRは01年、現在地からずらして保存を決めた。
ただし、「現役」駅舎としては引退。

04年、コンコースだった本体部分(約486平方メートル)が曳家(ひきや)と
呼ばれる工法で、コロの上に載せて北へ18メートル移された。


春日神社への参道を示す灯籠も設置されている

奈良駅で再会を喜び合う

メンバーの紹介
(後列)長谷川、菊谷、三木、村田、岩下
(前列)田中、上田、冨田、寺田の皆さん

龍野組は大阪駅で乗り換え

早速、駅前のすし屋で乾杯!

昼食もそこそこにドンドン話がはずむ
奈良駅前から市内循環バスに乗車、「破石町(わりいしちょう)」にて下車
宿泊先の「万葉荘」に荷物を預けて

歓迎 京遊会様の文字が掲示されている
先ず、最初に案内してもらった場所は、頭塔!
頭 塔(ずとう)

奈良時代の東大寺僧・実忠和尚(じっちゅうかしょう)が
築いたとされる、まちなかの土塔

ならまちの東方のまちなかにあり、「謎のピラミッド」と話題になった
頭塔(ずとう)と呼ばれる階段状の土塔は、一辺32m、高さ10mのピラミッド形をしており、
あたかも立体の曼荼羅のように多数の浮彫石仏(重文)が配されている。

古くより奈良時代の僧玄ム(?〜746)の頭を埋めた墓との伝説があり、
その名の由来とされてきましたが、本来の土塔(どとう)がなまって頭塔(ずとう)と
呼ばれえるようになったものと思われます。(頭塔のパンフレットより)

「玄ムの首が落ちたところが頭塔、腕の落ちたところが肘塚町(かいなづか)
眉の落ちたところが大豆山町(マユ→マメ)、胴の落ちたところが高畑町の胴塚」と
のいい伝えがある。

新薬師寺へ
新薬師寺があるあたりは高畑と言われ、古き奈良市街の面影を残す地区で山の手の雰囲気が漂う。 崩れた土塀や通りに面した格子も懐かしい。
このあたりは春日大社の社家が集まる。柳生街道の入り口にも当たる。
天平の新薬師寺金堂跡出土
2008年、奈良教育大学の校舎改築に伴う発掘調査があり、
現在の新薬師寺の西約150メートルから金堂跡とみられる
正面54メートル、奥行27メートルという遺構が出土しています。
現在の東大寺大仏殿(正面57m、奥行50m)
新薬師寺七仏薬師堂(金堂)跡が、長い忘却を破って古代の地層から現れた。

 現新薬師寺の西側に広壮な伽藍をもつ創建時の寺があったことは、「東大寺山堺四支図」に描かれた7間の新薬師寺堂から明らかである。また周辺には本薬師とか塔之内といった小字名が残り、奈良時代の瓦が出てきている。

雨落ち溝には瓦が堆積して、創建瓦と見られる複弁八弁蓮華紋軒丸瓦や均整唐草紋軒平瓦も見つかった。奈良三彩の破片や10世紀ごろの須恵器片も出土している。

 基壇の東南隅と建物の西南隅が検出され、桁行きと梁行きの長さも分かったことで、基壇と建物の平面規模が推測できる。母屋が7間×2間、廂を入れて9間×4間、さらに裳階が付いて11間×6間となり、およそ東西54m、南北27mの規模だという。

西側から見た金堂跡全景。
手前の石は礎石据え付け穴の地固め石

調査を指揮した奈良教育大学
の金原正明准教授

礎石据え付け穴の地固め石。
建物南西隅にあたる

基壇南東隅の延石


上)創建軒平瓦

左)創建軒丸瓦
2009年の調査では、八角柱が発見されている。
2本の柱が建物の中軸線を真ん中にしてまたいでいることから、金堂正面に向かって南北にのびる橋の橋脚か、八角形を意識しているのであれば特別な建築物の一部ではないかと推測され、遺構と金堂との間に奈良時代では例のない園庭があったことも考えられている。

八角柱は法隆寺の八角円堂(739年)、栄山寺(719年)の八角堂、興福寺北円堂(721年)に見られる。



発掘調査された奈良教育大学構内


奈良市写真美術館
奈良・大和路の風景や仏像、祭りを撮り続けた
写真家・入江泰吉(ちきち)の作品を収蔵展示している写真美術館


此の写真では、分かりにくいが、
高円山の大文字


奈良の大文字送り火は戦没者慰霊と世界平和を祈る火の祭典です。
奈良市東部にある高円山に灯される「大」の雄大な一文字は、
市街地はもちろんのこと、平城宮跡のある西大寺駅周辺や、
薬師寺のある西の京駅周辺からでも見る事ができます。

鏡神社へと歩く

鏡神社 本殿
軒丸瓦には、鏡と彫られている
新薬師寺

新薬師寺本堂(食堂だったという説もある)
奈良時代建立の国宝、正面7間、屋根の傾斜はゆるやかで、軽快な印象。
十二神将は、昭和の補作である正面右から3番目の宮毘羅像
(寺伝では波夷羅像)を除き、国宝である。


新薬師寺は、天平十九年(七四七)三月、
聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后によって創建されたという。

新薬師寺の「新」は「あたらしい」ではなく、
「あらたかな」薬師寺という意味であります。


天平の十二神将で名高い新薬師寺は、現本堂を中心にした境内は狭いが、
創建の奈良時代には高畑の一帯を占地して七堂伽藍がそびえていた。

『東大寺要録』巻一・本願章に収録された『延暦僧録』逸文には
「仁聖皇后また香薬寺九間仏殿を造る。七仏浄土七躯を造る。
請いて殿中に在り。塔二区を造る。東西相対す。
一鐘口を鋳る。住僧百余。僧房。田薗」と、光明皇后が創建した
香薬寺=新薬師寺の伽藍を記述する。

 正面九間の金堂に七体の薬師如来(七仏浄土七躯)が安置され、
東西左右に仏塔が建つ。梵鐘が備わり、僧房には
百人を越す僧侶が住まい、寺の菜園もったという。
円壇の上には、ご本尊を取り巻くような形で、十二神将が、外にむかって立っているのは、一大パノラマを見る思いがする。塑像の十二神将は、ガラスの眼をはめ、念怒の形相すさまじく、激しい動きをとらえた写真的で、均整のとれた武将の姿は、鎌倉時代の作のような印象を受けるが、天平と墨書きされた像もあり、日本にある十二神将のうちで、最も古い像だと言われている。
 ほの暗い本堂に足を踏み入れると、一種異様な雰囲気にちょっと、前に進むのを躊躇する。
 中央の円形の土壇の上に、天平仏の十二神将が本尊薬師如来を囲むように外向きに立っている。十二神将は、甲冑に身を固めた武将の姿をし、ほとんどが鉾、槍、剣などの武器を持ち、力強い面相で、激しい動きを表している。さほど大きくない12体の像がひとつになって、圧倒的な力で迫ってくる。その中で、口を開いて大喝し、怒髪天を衝いているのが、伐折羅(ばさら)大将です。

 この像に魅かれるのは、激しい怒りの表現に根源的な人間の怒りを感じるからです。こんな怒りは、現代の平和と飽食の中に浸った我々が忘れ去ってしまったように思えるのです。この像は、怒りの大切さを思い出させてくれます。

 薬師如来は、病苦の人々を救う、現世の利益をもたらしてくれる仏。十二神将は、その薬師如来を護持し、薬師如来に帰依する人々を守る大将だそうです。つまり、この怒りは、衆生とでもいうのでしょうか、他社、庶民を救うためのものです。それを妨害するものは許さないぞという直情的な怒り。

 この十二神将は、塑像です。心木を組み、わらすさ入りの粗土をかぶせて、山土でメリハリをつけ、その上から白土を塗り、最後に彩色を施している。いとも簡単に壊れやすいものが、1250年もの間、形を保って今にあるのです。
 (左の写真と文章は「おとなの奈良」講談社を参照)

 凄い形相をした十二神将に圧倒されながらも、我々庶民の味方、大いに身近な仏に思えた。新薬師寺の「新」は「霊験)あらたか」から付けられた名前だそうで、心も癒されまことに嬉しい限りである。
 
十二神将立像
伐折羅(ばさら)
大将(国宝)


観音堂(重文)

本堂以外の主要建物は、鎌倉時代に入寺した
華厳宗中興の祖明恵によって復興されたもので、
重要文化財に指定されています。

ナンテン(難を転ずる)の実が大事にされていた


紅葉もきれいな鐘楼
鐘楼にまつわる伝説 (紅葉の後ろに見える)
昔、元興寺の鐘楼に夜な夜な鬼が現れて人々を困らせていた。当時元興寺には雷の申し子と言われる程の怪力の小僧がいたので、鬼を退治しようと、ある夜鐘楼に登って待っていた。その夜も鬼が出てきたので、小僧と大格闘になったが、どちらも強力なので、なかなか勝負がつかない。釣鐘の周囲をまわること数十周、鬼がとてもかなわないと思って逃げ出した時は夜明も近かった。北の方へどんどん逃げて行く鬼を小僧が追っかけて行くと、鬼の姿がふと見えなくなってしまった。それが不審なので、その辺りは今も不審ヶ辻町と呼ばれている。

   宿泊した、万葉荘の近くに、不審ヶ辻町の立て札あり。

 その元興寺の鐘が、鎌倉時代に新薬師寺の鐘楼に移されたという。それで、この鐘には、鬼の爪痕だという、無数のすり疵がついていると云う。重要文化財のこの鐘は、大晦日には、東大寺の国宝の鐘と共に、除夜の鐘として、奈良の町に天平の余韻を響かせている。

新薬師寺 東門


朽ちた土塀が古都の風情を醸し出している
不空院・不空羂索観音
不空院の御本尊は、鎌倉時代の作の「不空羂索観音坐像(重文)」です。像高は103,9cmで、不空羂索観音像らしい三目八臂のお姿でした。全国的に見ても、不空羂索観音の作例は少なく、不空院のお方は、東大寺・法華堂、興福寺・南円堂の御本尊とともに「三不空羂索観音」とされるのだそうです。


歴史的風土特別保存地区の紅葉も真っ盛り
杉幸園(さんこうえん)
女性に人気のスイート店
奥さんと同伴された時には是非、ご利用を!
今回は、志賀直哉の旧宅見学はパス!
春日神社へ


下の禰宜道(ねぎみち)

通称「ささやきの小道」と言われ、勝手、「高畑の社家町から
春日の禰宜(神官)たちが春日大社へ通った道で、
上高畑町から二の鳥居、車舎へ通じる。

神木 梛の木
葉っぱの筋目が縦に入っている

春日大社 二の鳥居

ご祭神 武甕槌命 経津主命 天児屋根 命 比売神
藤原氏の守護神である武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって藤原氏の氏神とされ、春日神と総称される。神紋は下がり藤。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされる。


春日大社の社殿や施設を大規模に修復する「式年造替」は
奈良時代から20年毎に繰り返され
次回2015年の60回目にむけて準備が進められております。

鬱蒼とした参道
ひっそりと 万葉歌碑


萩の花 をばな葛花 なでしこの花 
               をみなへしまた 藤袴あさがほの花
                     
(万葉集巻八 1538 山上憶良)



秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り 
          かき数ふれば 七種の花


 (万葉集巻八 1537 山上憶良 「詠秋野花歌」)
鴎外の門
東大寺前の交差点南西角の奈良公園内に建つ。
銅板屋根を載せた観音開きの板戸がついた棟門である。
鴎外は大正6 年(1917)12月に帝室博物館総長に任命され、大正11年7月に亡くなるまでその職にありました。帝室博物館総長は、東京・京都・奈良の帝室博物館を統括する要職でした。

大正7年から10年まで、秋になると、鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち会うため奈良を訪れ、滞在中の宿舎は奈良国立博物館の東北隅、この場所にありました。公務の合間には奈良の古社寺や旧跡を精力的に訪ね、「寧楽訪古録」や「奈良五十首」を残しています。
東大寺門前 
「夢風ひろば」でティータイム


登大路を「とうだいじ」と読む?
正しくは、のぼりおおじ。
奈良県庁 展望台へ

県庁前では「せんとくん」がお出迎え


せんとくんと記念写真
展望台で、南から東、北、西へと眺める

奈良公園と興福寺の五重塔

奈良公園

東大寺と若草山

目の前に若草山

東大寺も目の前に


三笠の山の上に、中天の月が・・・見えた

〔阿倍仲麻呂望郷の歌はどこから見た月を思ってのものか?その場所がわかった〕

 阿倍仲麻呂:(701〜770)奈良時代の学者。716年遣唐留学生となり翌年入唐。玄宗皇帝に仕え、733年帰国の際、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と歌ったが、不運にも乗船が遭難し安南まで流れ着き、再び唐に戻って一生を終えた。 ― 百科事典より

 この余りにも有名な望郷の歌は、一体何処から見た月を思い出して詠んだのであろうかと検証され、此処から見た月に相違ないといわれる場所が見つかったそうです。暇な人がいるもんだなぁーと思う一方、実にロマンに溢れた話ではないですか。私もそこへ行って、山影から出たばかりの大きな月を見ながらこの歌をじっくりと鑑賞してみたい、そんな衝動を覚えました。
(4年前の文を引用)

中央に、NHKの建物

遠くに見えるのは、奈良ドリームランド跡
手前は、NHKの電波塔

遠くに生駒山

市街地の向こうに平城宮跡が見えるのだが・・・
果て、大極殿は?右奥に見える!

県庁 展望台は旗の先端が見えているところ
興福寺 国宝館へ

五重塔と東金堂
               興福寺(法相宗大本山)の略歴 
 南都(奈良)七大寺に数えられる興福寺は、京都山科、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)私邸に建立されたやま山階(やましな)寺に始まり、飛鳥を経て平城遷都(せんと)に伴い現在地に移り興福寺と号した。
 藤原氏の氏寺として隆盛し、平安時代には大和国(奈良県)を支配し、僧兵を擁し、比叡山延暦寺とともに、なんと南都北嶺(ほくれい)と呼ばれおそ畏れられた。
 東大寺
と同様、治承四年(1180)に平重盛の南都焼き討ちで大半の堂塔を焼失したが鎌倉時代に復興。
 その後も、堂塔は焼失と再建を繰り返したが、寺勢は徐々に衰え、明治廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で崩壊寸前に追い込まれたが、それでも東金堂(国宝)五重塔(国宝)、北円堂(国宝)三重塔(国宝)南円堂(国宝)などが残り、昭和33年(1958)に「国宝館」が出来て各国宝の建物より、数多くの国宝・重文が移され此処で展示されている。

興福寺  国宝館前 沢山の見学者で大賑わい!
興福寺国宝館がリニューアル 阿修羅像が間近に
1日にリニューアルオープンする興福寺国宝館。阿修羅像などがこれまでのガラス越しからより身近に拝観できるようになった=28日、奈良市(飯田英男撮影)
リニューアルオープンする興福寺国宝館
阿修羅像などがこれまでのガラス越しからより身近に
拝観できるようになった=28日、奈良市(飯田英男撮影)

産経ニュースWeb 2010.2.28より
興福寺のホームページにて
展示されている国宝・文化財などをご覧ください!

阿修羅像(国宝・乾漆造 彩色 奈良時代像高 153.4cm)

拝観券、ポケットの中で折れてしまいました

今回のリニューアルの最大の特徴は、これまでガラスケース内での展示だった、阿修羅像を含む「八部衆」や「十大弟子などの仏像がオープン展示となり、わずか1mほどの至近距離から直接拝見できるようになったことです。

また、東京と九州で開催されて、約190万人もの来場者を記録した「阿修羅展」、興福寺の仮金堂で開催され約25万人を動員した「お堂でみる阿修羅」などの好評を受けてのことですが、これまでの博物館的な面白みに欠ける展示方法が改められたのですから、これは期待に違わず素晴らしいものでした。

照明も一方向からだけではありませんので、細部までくっきりと見えました。阿修羅像の三面のお顔も、影になること無くしっかりと見えます。また仏像や光背のシルエットが背後の壁に映し出されて、それもまた美しかったです。館内の照明もやや抑えられ、よりお堂の雰囲気に近づいています。

有名な旧山田寺の「銅造仏頭」も、目線よりも高い位置にあることで、より本来の魅力を感じられるようになりました。

中央には、鎌倉時代作、像高520.5cmの「千手観音菩薩立像」がいらっしゃいます。大きいだけではなく、とても力強くて素晴らしい仏さまですが、左右と正面の三方向からじっくりと拝見できるのもいいですね。お堂での展示では、こんなに色んな角度から見ることは出来ないでしょう。

 (国宝展の見方 WEBより参照しました)


晩秋の太陽はつるべ落とし  夕陽が眩しい

東金堂

夕陽の映える五重塔

52段の階段

52段の階段
 猿沢池から一段高い興福寺境内への登り口の手前に六辻があります。此処は、仏教で言う「六道(ろくどう)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人(にん)・天(てん))」を意味していて、その中で極楽へ通じる一番よい道が興福寺へ登る石段へと繋がっています。いろいろと差し障りがあるとか言って、どの道が六道のどれに該当するかは公表されておりません。
 又、その石段は52段あり、仏道を極める修行の52の段階を意味しているといわれています。
 (前回の案内を参照しました)

猿沢の池
興福寺大乗院跡のガイダンス施設「名勝大乗院庭園文化館」があり、その西側には「楽人長屋の塀」と呼ばれる出入り口のついた塀が復原されています。
 これは、かつて大乗院に仕えた雅楽担当の楽人たちが住んだ長屋の塀であったといい、長屋の周囲に音が洩れないよう、外の音が入らないように設けたものであったらしいです。


新薬師寺の鐘楼(元 元興寺の鐘楼)の伝説(万葉荘付近)
二階の広間で 宴会の始まり

4年前と同じく、長谷川さん差し入れの
「長寿の酒」と評判の大安寺の笹酒で乾杯!

[長寿の酒、大安寺の笹酒で乾杯]大安寺の笹酒
 18:00より2F広間にて宴会開始。総勢11名、先ずは、長谷川さん差し入れの、「長寿の酒」と評判の大安寺の笹酒で乾杯。さっそく、長谷川さんの観光ガイドの始まりです。
 このお酒は、第50代桓武天皇(737〜806)の前帝、第49代光仁天皇(709〜781)が、竹筒に注いで温めた酒を飲むことで健康と長寿を保ったという故事にあやかり、大安寺では毎年1月23日に「光仁会(こうにんえ)癌封じ笹酒祭り」と題して、参拝客に笹酒(竹筒で燗をした酒)を振舞っています。このお酒が、癌封じ=長寿の酒として大変評判になっています。
 光仁天皇は享年73歳、当時としては随分長寿です。やっぱり笹酒の効能ではないでしょうか。  (この文章は、4年前のもの)


先ずは、食事前に記念写真

メイン料理は牛乳がたっぷりの万葉鍋
幹事部屋で二次会も大いに盛り上がる!

三木君、元気が何よりですね!
それぞれの部屋に帰ったのは、11時近くでした

万葉荘の手入れの行き届いた立派な庭

翌日の朝、出発前にコーヒータイム
11月18日、平城宮跡散策へ

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