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よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
バックナンバー
平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  

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瓦版 2008年 7月号 バックナンバー
178 7/31 =野茂とイチロー選手=
177 7/30 =守られた金印(その2)=
176 7/29 =守られた金印=
175 7/28 =今日の一言集より=「そうはいってもやっぱりやる気の問題だろう」
174 7/26 =名も知れぬ在野の神々から・三宝荒神さん=
173 7/25 =市指定文化財紹介=星田:薬師寺 木造薬師如来立像
172 7/24 =市指定文化財紹介=星田:薬師寺 木造千体仏
171 7/23 =「漢委奴國王」金印=
170 7/22 =神産巣日神(かみむすびのかみ)=
169 7/19 =高御産巣日神(たかみむすびのかみ)=
168 7/18 =天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)=
167 7/17 =住吉さん=
166 7/11 =庚申信仰とは=
165 7/9 =今日の一言より=
164 7/8 =哮が峰=
163 7/7 =七夕伝説(その5)=七夕祭にこめられた先人の祈りとは
162 7/5 =七夕伝説(その4)=機織る乙女━タナバタのこと
161 7/4 =七夕伝説(その3)= 中国の神話 織女星
160 7/3 七夕伝説(その2) =織女と牽牛=
159 7/2 =七夕伝説(その1)
158 7/1 =快慶あての書状=


2008.7.31 発行(178)

 =野茂とイチロー選手= 

  
    
野茂投手引退 
 日本人選手の米大リーグ進出の先駆けとなり、日米通算201勝をあげた野茂英雄投手が現役引退を表明した。マイナーリーグ、ベネズエラと渡り歩いた野球人生に「ご苦労さま」と、ねぎらいの言葉をおくりたい。
 背番号が見えるほど体を大きくひねるダイナミックな投げ方、いわゆるトルネード(竜巻)投法から繰り出される速球とフォークボールは圧巻だった。
 1995年、ドジャースのユニホームを着ると、いきなり13勝6敗、236奪三振をマーク、奪三振王に輝く。このタイトルは米国で高く評価されており、新人王にも選ばれた。同投手の活躍は、前年の選手会によるストライキの影響で球場から遠ざかっていたファンを呼び戻し、「ノモマニア」という言葉が生まれ、当時のクリントン米大統領からは「日本からの最高の輸出品」と称賛された。
 このあとも2度のノーヒットノーラン、2001年には再び奪三振王となり、メジャー通算123勝109敗の記録は不滅の金字塔といってもいいだろう。
 実績を残すことで、日本球界のレベルの高さが見直され、イチロー(鈴木一朗)、松井秀喜選手らが後を追うことができた。いまや、大リーグでプレーした経験を持つ日本人選手は30人を超えるほどに達する。

イチロー日米通算3000本安打達成! 
 シアトル・マリナーズのイチロー外野手は29日、敵地でのテキサス・レンジャーズ戦に「1番・右翼」で先発出場。第1打席で初球をレフトへ運び、あと1本まで迫っていた日米通算3000本安打を達成するなど、5打数2安打、1打点だった。

 アメリカの野球専門誌「ベースボール・アメリカ」に掲載された大リーグ30球団の監督による『Best Tools』投票で、イチローは2003年にベスト・ヒッター、ベスト・バンター、ベスト・ベースランナー、最速ベースランナー、守備部門ベスト外野手、ベスト強肩外野手、最もエキサイティングな選手の7部門でトップに輝いた[18]。2006年の投票では、最もエキサイティングな選手、最もバントが上手い選手で1位、最高の打者、最高の走者で2位、最も俊足のベースランナーで3位に選出された[19]。更に2007年の投票でも、ベスト・ヒッター、ベスト・バンター、ベスト・ベースランナー、最もエキサイティングな選手、守備部門ベスト外野手、ベスト強肩外野手で1位に、最速ベースランナーで2位に選ばれるなど、メジャーリーグの監督から高い評価を受けている[20]。2008年のメジャーリーグスカウトによる投票でも、ベスト・ヒッター、ベスト・バットコントロール、守備部門ベスト外野手、ベスト強肩外野手、ベスト・ベースランナーの5部門で1位に、ベスト・バンター、最速ランナー、ベストスティーラーにも2位に選ばれるなど高評価を受けている[21]。 「スポーツ・イラストレイテッド」誌では「イチローを首位打者候補に予想しないのは、タイガー・ウッズを優勝候補から外すのと同じ」と評した。

 またニューヨーク・ヤンキースの捕手・ホルヘ・ポサダはイチローをメジャーリーグでもトップ5に入る選手だと語り、同チームの王建民は試合開始前にイチローのサインを3つもお願いしている。同僚のジャロッド・ワッシュバーンは『(イチローは)何でも出来るから、もう何をやっても驚かない』『けど(手の内を)全部見たと思っても、また違う何かをやってみせる』と寸評している[6]。
=編集後記=
野茂選手にはご苦労さまでした。イチロー選手にはおめでとう。
日本国民から贈る言葉でしょう。                     =了=



2008.7.30 発行(177)

 =守られた金印(その2)=
国宝でもある金印の来歴が様々に語られてきたのは、謎が多く、今も輪郭が判然としないからだ。「漢委奴國王」の読み方もその一つ。「かんのわのなのこくおう」として「奴国」の王が授かったとみるのが教科書通りの通説だが、「委奴」を「いと」と読む「伊都国」説も、藤貞幹が提唱して以来、根強い。
「後漢書」に従うと、金印がもたらされたのは、西歴にして57年。西日本に大規模環濠集落が点在した弥生時代中期だ。そこに暮らした人々が競って大陸との交易を求めたなかで、代表的存在として中国に認められたのは奴国か、伊都国か。ともに3世紀まで九州北部で勢力を維持した「国」。奴国は今の須玖岡本遺跡(福岡県春日市)が中心で、志賀島を圏域に含む。伊都国は三雲南小路、井原鑓溝両遺跡(前原市)が王墓とされる。島のどこで出土したかも特定できないため、決着はまだつかない。真偽論争にしても、終止符が打たれたのは1980年代に入ってからのことだ。中国雲南省の石寨山6号墓で56年、金印が見つかった。

   
      
 紀元前109年、前漢の武帝がてん王(てんおう)に下賜した「てん王之印」。
志賀島と同じく鈕は蛇形だった。漢王朝は朝貢し、臣属した周辺諸国に対し地位によって異なる印章を与えた。蛇鈕は南や東方の民族が対象だった。
そして1981年、光武帝が子の廣陵王に贈った金印も江蘇省甘泉2号墓で出土した。
亀の鈕を持つ「廣陵王璽」。形や字体、彫り方が志賀島の印と酷似し、ほぼ同時期に同じ工房で作られたと判断された。
いくつもの時代を経て、最初に鑑定した南冥の眼力が認められたのだ。
一流の儒学者にして、鉄火肌の南冥は「儒侠」という異名がある。藩士以外にも門戸を開く型破りの運営で、西学問所に多くの門下生を集めた。

東学問所反感を買っての転落か、「寛政異学の禁」に触れたのか。真相は不明だが、寛政4年(1792)、職を解かれ、終身禁足を命じられた。6年後、西学問所は焼失し、自らも後年、火災で落命する。いつしか『金印弁』も埋もれた。
 2006.1.30 よみうり新聞「歴史のかたち」より

=編集後記=
真偽論争は200年近くに及び、決着したのは戦後。中国雲南省で「てん王之印」、江蘇省でも「廣陵王璽」が出土し、似通う形状によって、やっと「真印」と実証されたのだ。
                              =了=


2008.7.29 発行(176)

 =守られた金印=
「漢委奴国王」と刻まれて古代の日本を映す金印は、発掘当初、さほど歓迎されなかったらしい。むしろ、消失の危機にさえ、さらされていたという。
天明4年(1784)の2月23日。玄界灘に浮かぶ志賀島で、農作業中の農民が見つけて郡役所に届けた。地中の巨石の下に埋もれていたとされている。


    玄界灘に浮かぶ志賀島・・・金印は西側(右)の海岸線から見つかった

発見者の名は「甚兵衛」。口上書が作成されて福岡藩の公式記録として残るが、実在の人物かどうか定かではない。筑前のひなびた島に埋蔵された経緯も不明だが、市井の噂となって広まったのは確かだろう。江戸時代の国学勃興期。「蛇鈕」と呼ばれるつまみの形はともかく、印面の「奴」の字が国粋主義の色彩を強める藩士らを激怒させた。
「我が国を侮辱している」「鋳つぶして武具の飾りにしてしまえ」。そんな反発が渦巻いていたのだという。暴走を押しとどめたのが亀井南冥だ。儒学の私塾も開く町医者だったが、その月初めに創設された二つの藩校のうち、西学問所(甘棠館)祭酒(校長)を任された。
博多の豪商を通じて依頼を受けた金印の鑑定は、初の大仕事と言っていい。
中国の史書に通暁していたのは疑いない。「後漢書」をひもとき、光武帝が「倭奴国」の王に授けた「印綬」といち早く読み解いた。
藩士による損壊を防ぐため、私財を投じて100両で買い取ると申し出たのだ。熱意に押されたか、金印は藩庫に納められ、難を逃れた。それでも藩は、評価に迷ったに違いない。
学者らに研究論文の提出を命じた。南冥は直ちに「金印弁」を書き上げて論陣を張った。
『金印己ニ千六百年余ノ古物ニテ、異国ノ文字本朝ニ渡リタルハ、此印ヲ以テ最初トスヘケレハ、希代ノ珍宝ト謂ツヘシ』
日本にとって、最古の文字記録。まさに現代に通用する

  
 ←亀井南冥の肖像

識見ではないか。反論を想定して門答集も添えた。絶対に守り抜くという気概がうかがえる。西学問所と同時開校した東学問所「修猷館」の教授らも対抗して「金印議」という論文をまとめた。
「安徳天皇が壇之浦で入水した際、海に没し流れ着いた」との珍説。根拠もない。4月に京都の藤貞幹、翌5年には大坂の上田秋成と藩外の学者も次々と論じたが、考証の深さにおいて南冥に及ばなかった。
             
  2006.1.30 よみうり新聞「歴史のかたち」より

=編集後記=
福岡市教委専門調査員の塩屋勝利さんが言う。「実は南冥がどこかの神社から持ってきて、研究を尽くしてから世に出したという説まである」優位は明白だったが、やがて松浦道輔の偽作説が登場し、真偽論争が過熱していく。続く     =了=



2008.7.28 発行(175)

 =今日の一言集より=
「そうはいってもやっぱりやる気の問題だろう」との声は多い。
しかし百歩譲って「やる気の問題」としても、やる気が出ないのにも理由や原因はあるはずだ。

わたしも、面倒くさくなると、「おまえのやる気の問題だな」っていう言葉で済ませてしまうことがある。
考えてみれば、「他人のやる気」のせいにして、逃げているのかもしれない。その証拠に、相手にやる気がなくても、逃げずに立ち向かうこともあるから。結局、やる気の問題かもしれないけど、それは、他人のやる気でなくて、自分のやる気の問題だったりするのだ。そして、面白いことに、自分のやる気の問題の場合には、決して「やる気の問題だな」と言うことはない。
そんなことを言う前に、さっさとやめているか、根本の原因とか理由を探している。
逆に言えば、すべてがやる気の問題かもしれない。だから、言ってもしょうがない。
そのために、すぐに行動するか、何もしないかを決めるか、決めないかの違いだけ。

  
        ハスの花と交野山

=編集後記=
 毎日暑い日が続いております。暑いでんなぁ〜という言葉しか出てきません。でも、暑い暑いと言ったところで、どうにもなりません。「気」を持って暑さと戦っている今日この頃です。この写真の場所は先日、お亡くなりになりました、平田忠三郎(古文化同好会会員)さんが畑をされていた場所から撮りました。ご冥福をお祈りいたします。     =了=

 
2008.7.26 発行(174)

=名も知れぬ在野の神々から・三宝荒神さん=
  伊勢神宮には天照大神が、出雲には大国主命が祀られ、毎年10月になると、全国各地の主が出雲に顔をそろえる。
神々による大会合がおこなわれるのである。だからこそ、各地から神々が姿を消す10月は「神無月(かんなづき)」と呼ばれている。逆に、神々があつまる出雲では「神在月(かみありづき)」と呼ばれている。
しかし、日本には出雲に招かれない神々もいる。それらは名のない神々であり、私たちの日常生活のそばにいる神々である。
それらは民間の神々とも呼ばれている。
山の神や田の神、水の神、海の神、竈神(かまがみ)、屋敷神、道祖神(どうそしん)などがそうである。
今回は「竈神」についてお話します。
地方によっては「荒神(こうじん)」「三宝荒神」「釜神」などとも呼ばれている。
火は人々との生活には欠かせないが、そこから生まれたのが火の神である。
家のなかでも竈のあるところ、つまり台所は重要な場所だった。
食べ物の煮炊きをするから当然である。
そこから、竈や火への信仰が生まれ、竈神、火の神が大切にされるようになった。
いまでも、台所に竈神のお札を掲げる家庭が少なくない。
その後、竈神は火の神としてだけでなく家庭の守り神としての役割も果たすようになっている。
もともと、火にまつわる神々はヒノカグツチノカミ(火之加具土神)やホムスビノカミ(火産霊神)とされているが、家庭での竈神はこれらの名のある神々とは違っている。
それぞれの地方で信仰されてきたさまざまな形の火の神だったとされている。
 
  
  
=編集後記=
ちゃぶ台がテーブルに、竈(かまど)がリビングルームに、三宝荒神さんは何処に  
                                =了= 


2008.7.25 発行(173)

 =市指定文化財紹介=
星田:薬師寺 木造薬師如来立像
所在地・・・ 星田1−21−12 
時代・・・ 室町時代
構造等・・・像高 158a、   ヒノキ材、寄木造
指定年月日・平成2年6月1日
 当寺は瑠璃光山薬師寺といい、宗派宗旨は、もとは佐太来迎寺末の大念仏宗でしたが、現在は浄土宗知恩院の末寺です。創建時代は不明ですが、享和3年(1803)の「星田村明細帳」には寛延2年(1749)より50年前ほどに一念という僧が再建したとあります。
この像は、等身大の仏像で玉眼が嵌め込まれています。両足を揃えて台座に立ち、左手は軽く臂を曲げて薬壺をとり、右手は屈臂して掌を前に五指を伸べる。
 
         
             木造薬師如来立像
=編集後記=
 薬師寺の通用門をくぐると庭には十数体の石仏が並んでいる。
古式地蔵や珍しい早来迎・宝瓶三茎蓮・層塔などが境内ところ狭しとまた、縁側に座りひと時を過ごせば、心を癒し和ましてくれます。
一般公開日には一度お出かけください。
詳細は広報にて掲載あり・・・問い合わせは交野市文化財事業団まで
                   =了=
 
2008.7.24 発行(172)

 =市指定文化財紹介=
星田:薬師寺 木造千体仏
所在地・・・ 星田1−21−12  
時代・・・室町時代
構造等・・・薬師如来立像 472体 地蔵菩薩坐像 192体 地蔵菩薩5体
      菩薩形立像 2体 
指定年月日・・・平成2年6月1日
 薬師寺にある千体仏は、星田の有力者が願主となって、一千体の薬師如来像と何百体かの地蔵菩薩像が作られたと考えられます。追善供養の三十五日は地蔵菩薩、四十九日は薬師如来を本尊として供養する日にあたり、亡者の冥福を祈っての造立かもと考えられます。半数近い仏像が残っており、当時の交野地方有力農民の信仰を物語る貴重な文化遺産です。菩薩形立像や地蔵菩薩立像という全く作風の相異するものが混じっているのは何らかの理由で後日ここへ奉納されたもと思われる。

  

=編集後記=
市内の文化財、知って・学んで・守ろう文化財!          =了=



2008.7.23 発行(171)

 =「漢委奴國王」金印=
田圃から出てきた金印
1784年(天明4)2月23日、この日、筑前国志賀島(福岡県)の農民である甚兵衛は、田圃の水の流れが悪いので、側溝を削っていた。
すると石がゴロゴロと出てきて、やがて二人がかりで持ち上げなければならないほどの大きな石に突き当たってしまった。
仕方がないので、甚兵衛は金梃子でこれを取り除こうとしたが、このとき、石の隙間に光る物体が見えた。それを拾って水ですすいで眺めてみると、なんと、黄金の印鑑のような形状をしているのではないか。
  
  
         「金印」福岡県博物館所蔵 昭和29年国宝指定

 そこで、兄の喜兵衛がむかし奉公していた城下町福岡の豪商米屋才蔵に鑑定してもらったところ、大変重要な品物だといわれたので、そのまま保存しておくことにした。


しかし、金印発見の噂はすぐに広まりだしてしまい、甚兵衛は庄屋(名主)から呼び出され、すぐに御役所へそれを提出せよと厳命された。
このため甚兵衛は、あわてて金印を郡奉行の津田源次郎に差し出し、金印は郡役所にいったん保管されることになった。
金印には「漢委奴國王」という五文字が刻まれていた。
郡役所に保管された金印は、まもなく福岡藩の儒学者で藩校甘棠館(かんとうかん)の館主(校長)であった亀井南冥により鑑定が行われた。
南冥は、「後漢書」東夷伝に「建武中元二年、倭奴国(わのなこく)、奉貢朝賀(ほうこうちょうが)す。使人みずから大夫と称す。倭国の極南界也。光武賜るに印綬を以てす」という記述に出てくる印が、まさに発見された金印であり、この金印は漢の光武帝が「委奴(ヤマト)」国に与えたものだと断定したのである。
これにより福岡藩は、この金印を貴重なものと認定、藩主黒田家の宝庫に保管することを決定した。これが、いわゆる志賀島の金印発見の経緯である。

=編集後記=
南冥の説を継承したのが、日本考古学会を興した明治時代の三宅米吉博士であった。博士は、金印に記された五文字は「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読むべきで「委」は「倭(日本)」を意味し、「奴」は「ナ」と読み、「委奴(ヤマト)」国ではなく日本のなかの「奴国」という意味だとした。そして「日本書紀」に登場する「儺の大津(博多湾)」の周辺一帯を奴国だと解釈し、この説はやがて通説となり、そのまま現在の教
科書にも記載されているが・・・・                            =了=


2008.7.22 発行(170)

=神産巣日神(かみむすびのかみ)=
万物生成の霊妙な働きを象徴
カミムスビ神は、アメノミナカヌシ神、タカミムスビ神に次いで高天原に現われた神である。タカミムスビ神と同様に生産・生成を意味する「産霊(むすび)」の名をもつことからも分かるように、万物生成の霊妙な働きを象徴する神さまである。
この神は、大地母神的な性格を強くもっていて、神話のなかの活動にもそれが表われている。大地母神というのは、簡単にいえば穀物を育てる力を大地に与えるエネルギーである。
そういう性格の一端を示しているのが、「古事記」の穀物起源神話といわれる次のような話である。
アマテラス大神によって高天原を追放されたスサノオ尊が、出雲に降る途中でオオゲツヒメ神に食べ物を求めた。そこでオオゲツヒメ神は、口、鼻、尻からご馳走を取り出してスサノオ尊の前に並べた。それを見たスサノオ尊はそんな汚いものを食わせるのかと怒り、オオゲツヒメ神を殺してしまった。するとその死体の頭から蚕、両目から稲種、両耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆などが生じた。
そこにカミムスビ神が登場し、それらをとって種としたという。

オオクニヌシ命の住む出雲大社を造営
もう一つの大きな特徴は、カミムスビ神の活動が出雲と深く関係しているところだ。
「出雲国風土記」では御祖命と呼ばれ、出雲の神々の母なる神(祖神)として崇拝されているし、「古事記」ではオオクニヌシ命が活躍するところの出雲を舞台にした神話にしばしば登場する。
オオクニヌシ命が兄弟の八十神(やそがみ)に謀殺されたとき、キサガイ(赤貝)とウムガイ(蛤貝)という貝の女神を天上から遣わして蘇生させる。
その後、自分の子であるスクナヒコナ命をオオクニヌシ命のパートナーにして、自らが命じた国づくりの事業をサポートさせている。
さらに、国譲りのあとにオオクニヌシ命が住んだ杵築大社(出雲大社)の造営にもかかわっている。「日本書紀」には、カミムスビ神が指示して出雲郡杵築郷に立派な宮殿をつくったとあり、「出雲国風土記」はもっとも積極的に自ら出雲の神々を招集し、自分が住む天上の宮殿をモデルに新宮殿の建築を進めたと伝えている。
このように、神話伝承のなかでのカミムスビ神は、出雲と深く関係していることから、もともと出雲の土着神ではなかったともいわれる。しかし、この神がタカミムスビ神とともに、古くから皇室の守護神である宮中八神殿の筆頭格として大嘗祭や祈年祭などの祭祀で祀られる重要な神霊だったこと、さらに本質的にタカミムスビ神と同一神と考えられることから、もともと皇室に関係の深い神だったという説が有力である。

=編集後記=
古くから宮廷祭祀の重要な神とされているカミムスビ神であるが、民間では祭神として祀る神社は限られていて、あまりポピュラーな神さまではない。祭神とされる場合は、だいたいがタカミムスビ神と一緒に祀られることが多い。
神徳・・・豊作・縁結び・厄除け・開運招福などである。     =了=



2008.7.19 発行(169)

 =高御産巣日神(たかみむすびのかみ)=
ものを産み成す生成力を象徴
別称…高皇産霊命(たかみむすびのみこと)、高天彦神(たかまひこのかみ)
神格…天神地祇の祖神、生成力の本源神、高天原の最高司令神
天地の初めのとき、アメノミナカヌシ神の次に高天原に現れたのがタカミムスビ神であり
つづいて現れたカミムスビ神を含めて、造化三神と呼ばれている。
今回は二番目のタカミムスビ神をご紹介します。
タカミムスビ神は、世界にあまねく満ちている「ものを生み成す生成力」の神格化で、名前の「産霊(むすび)」は生産・生成を意味する。古くから皇室の祭祀において重視された神で、豊穣を感謝する秋の大嘗祭(だいじょうさい)のときに神聖な稲穂を収穫す斎田(いつきだ)のかたわらに祀られたり、豊作を祈願する春の祈年祭(としごいまつり)に祀られたりしている。こうした信仰の形態からして、タカミムスビ神の基本的な性格を表わす「産霊」が、具体的には農耕・生産に深く関係するものであることが分かる。
また、「日本書紀」の顕宗天皇(けんぞうてんのう)の条に、タカミムスビ神の事績として「天地を鎔造(ようぞう)した功あり」と記されている。鎔造とは、金属を溶かして型にはめてものを形づくることである。古代には、この神が天地を形づくった創造神的な偉大な神霊であると考えられていたことが伺える。
なお、タカミムスビ神(男性神的性格)と一対の男女の産霊の神とされているが、もともとは同一の神格だったらしい。
アマテラスと並ぶ高天原の最高司令神
「古事記」「日本書紀」のなかでのタカミムスビ神は、高木神とも呼ばれ「天孫降臨」「国譲り」「神武東征」などの場面に、しばしば登場する。
そこに描かれているタカミムスビ神の姿は、アマテラス大神と並ぶ高天原の最高司令神として、祭事・政治・軍事関係の種々の命令を発動する実力者である。
とくに「日本書紀」の天孫降臨神話では、アマテラス大神の名がまったく登場せず、タカミムスビ神が高天原の最高司令神として描かれています。
その活動ぶりを一言でいえば、長老的な政治手腕に長けているところにある。
いってみれば、巧みな根回しの術を駆使している。たとえば、娘のヨロヅハタトヨアキツヒメ命をアマテラス大神の御子のアメノオシホミミ命と結婚させ、二人の間に皇室の祖先となるニニギ尊(天孫)を出生させている。
また、天孫降臨に先立って、ニニギ尊が地上に降ってからも安全に活動できるように、あらかじめ葦原中津国(あしはらなかつくに・地上の国土)の平定を画策。
アマテラス大神とともに、高天原から使者を派遣して、地上の王であるオオクニヌシ命に統治権を譲らせる(国譲り神話)。
さらに、神武東征の場面では、熊野に進攻した神武天皇が敵の反抗に苦しんでいたときに、霊剣フツノミタマを下したり、道案内の八咫烏(やたがらす)を派遣して援助したりする。
以上のように神話でも活躍し、皇室の祭祀に非常に重要な役割を果たしている神であるが、「ものを生み成す生成力」の神格化という抽象的な性格からか、民間では祀る神社も少なく、名前もポピュラーとはいえない。神社にはカミムスビ神と一緒に祀られていることが多い。
神徳は……所願成就・開運招福・厄除け・縁結びなど。

=編集後記=
次号では、アメノミナカヌシ神、タカミムスビ神に次いで高天原に現れた神産巣日神をご紹介します。                          =了=


2008.7.18 発行(168)

 =天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)=
神々のピラミッドの頂点に位置する神
別称…天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
神格…宇宙の根源神
アメノミナカヌシ神は、高天原に一番最初に現れた神で、「古事記」には造化三神の一柱で、別天神(ことあまつかみ)五神の第一神と書かれている。
天は宇宙、御中は真ん中、主は支配するといった意味で、文字通り宇宙の中心にあって、時間的にも空間的にも無限な宇宙そのものを体現する、宇宙の根源神という性格をもっている。いうなれば、無と有の境目に現れた神さまである。
ただし、「古事記」「日本書紀」にはこの神について詳しいことは一切書かれていない。
それだけに非常に抽象的で人間界と隔絶した感じがする神さまでもある。だから、後世になっていろいろと解釈がなされていて、通説では中国の道教思想の影響を受けて生み出された神格とされている。また、神社信仰や神道を体系的にとらえようとする神道流派では
アメノミナカヌシ神を神々の体系の中心的な神格として位置づけ、神聖な創造力と全知全能の力を備えた至高神とする考え方で共通している。
北極星を祀る妙見信仰と習合
神話に登場する日本の神さまは、時代によってその表情を変化させる場合が多い。
アメノミナカヌシ神の場合も同様で、近世以降、仏教と習合して妙見さん(妙見菩薩)と呼ばれ広く庶民に親しまれるようになった。
「天の中心の至高神」という性格が、中国の道教の影響を受けた北極星信仰と結びつき、それが室町時代以降、日蓮宗において盛んになった妙見信仰と習合したのである。
妙見信仰は、北極星や北斗七星を崇めるもので、北極星を最高神として神格化し、それが仏教の菩薩の称号を与えられて妙見菩薩と呼ばれるようになった。
妙見菩薩のもつ全知全能の徳によって、衆生の苦しみが救われるというのが妙見信仰である。妙見さんとしてこの神を祀るのが妙見社(宮)で各地に三十数社を数え、星祭りの信仰がある。妙見さんのご利益は長寿・息災・招福とされている。
また、水晶のような澄みきった目で物事の真相を見極める能力に優れていることから、眼病の神としても信仰が篤い。
=編集後記=
星田妙見宮の祭神は神道=天之御中主神 仏教=妙見大菩薩 道教=太上神仙鎮宅霊符神が祀られている。               =了=

 
2008.7.17 発行(167)

 =住吉さん=  「日本の神様」がよくわかる本 戸部民夫著より
別称…住吉神・墨江之三前大神(すみのえのみまえのおおかみ)・筒男三神・住吉大神
神格…海の神・航海の神・和歌の神

イザナギ命の禊(みそぎ)で生まれた海の神。
住吉さんと呼ばれて親しまれている住吉三神は、大阪の住吉大社をはじめとして全国に広く分布する住吉神社の祭神である。住吉神社に参詣すると、社殿に船主や漁業者、魚屋や海産物業者などが奉納した絵馬が掛かっているのが目につくように、この神の基本的な性格は海の神である。「古事記」では、住吉三神は黄泉の国からこの世に戻ったイザナギ命が、日向の橘の小戸(おど)の安波岐原(あわきはら)で、穢れをすすぎ清める禊をしたときに生まれた神で水底ですすぐと底筒男命(そこつつおのみこと)・中ほどですすぐと中筒男命(なかつつおのみこと)・上(水面)ですすぐと上筒男命(うわつつおのみこと)が生まれたという。この神が禊祓(みそぎはらえ)の神としての一面をもつとされるのは、こうした出生の事情と海(潮=塩)に備わる浄化の力からきたものである。

遣唐船の航海の安全を守る
古来、住吉三神は航海の神として霊力を発揮してきた。その活躍ぶりを伝えるのが、有名な神功皇后の新羅遠征の伝説である。
神功皇后に神懸りした住吉三神は「西方に金銀財宝の豊かな国があるので、それを服属させて与えよう」と天つ神の意志を託宣し、朝鮮半島への遠征をうながした。それに従って神功皇后は、軍船を率いて朝鮮半島に出征。その海路、軍船は住吉三神の守護により無事に朝鮮に渡り、新羅国を征討して服属させた。凱旋した神功皇后は、住吉三神の働きに感謝して摂津国(大阪府)の住吉の地に社を建てて祀ったという。
伝説にもあるように住吉三神は、神功皇后とその息子で建国の英雄といわれる応神天皇(ホンダワケ命)とかかわりが深い神である。
神功皇后と応神天皇が活躍するのは、歴史上では古墳時代(三世紀末から七世紀)にあたる。この時代は大和政権による国内統一が促進され、四世紀後半頃に盛んに行われるようになった日本と朝鮮半島の交流により、大陸の先進的な文化を受けて、日本という国が大きく発展した時期だった。そんな時代の精神的な支柱として、住吉三神は大和政権と結びつき、その強力な神威をアピールしたと考えられる。  

=編集後記=
国際化時代にあって大陸との交通安全を保証し、先進的な文化の流入を促進する神さまであったであろう。天野川沿岸の神社はすべて住吉神社である。磐船・若宮・天田・寺・私部・郡津(交野市内)村野・意賀美(枚方市)。      =了=


2008.7.11 発行(166)

 =庚申信仰とは=
 中国の道教に端を発した信仰行事です。
道教においては、人間の体内に三匹の虫(三尸・さんしちゆう)が棲んでいると考えられていました。この三尸虫が庚申の夜、人が眠るのを見すまして天に昇り、天帝にその人が犯した罪を報告します。すると天帝は、その報告にもとづいて、罪を犯した人を早死にさせるのです。
庚申の夜というのは、十干十二支の「かのえさる」の日の夜です。

   
 
  60日に1回めぐってきます。三尸虫は、60日ごとに天帝に報告に行くわけです。
では、三尸虫に、報告に行かせなければよいのです。
それには、どうすればよいか……?眠らせなければよいのです。三尸虫は、人が眠るのを見すまして、天帝のところに行きます。
人が眠らなければ、三尸虫は人体を離れるわけにはいきません。
だから庚申の夜は、人びとは眠らずに身を慎んだのです。
それを守庚申といいます。日本では、平安時代のころから、貴族社会において守庚申が行われるようになりました。そして、室町時代になると、これが仏教的な色彩をおびてくると同時に、民間にもひろまりました。
村落社会において、仲間たちとともに徹夜で庚申の行事をする「庚申待」と呼ばれる習俗ができあがったのです。また、庚申信仰を象徴したものに、三猿像があります。
悪を……見ざる・聞かざる・言わざる と訴えているわけです。
本当は三猿像でなくて、四猿像であるべきなのです。
四猿目の猿は、自分のセックスを両手でおさえています。(せざる)
=編集後記=
江戸川柳に、おもしろい句があります。庚申は、せざるを入れて四猿なり。
江戸の庶民は、「見ざる・聞かざる・言わざる・せざる(やらざる)」を入れていた。
                             =了=

 
2008.7.9 発行(165)

=今日の一言より=
  無理だからあきらめるんじゃなくて
         あきらめるから無理になるんだよ。

やれるところまでやらないうちに、あきらめる。
それでも、途中までやろうとしたことは、まだマシな方。
何もやらない前から、あきらめるっていうのは、よく見る姿かもしれない。
「やってみればいいのに…」やってみた方は思う。
「そうカンタンに言うのよ。人の気も知らないで…」
足踏みしている方は思う。
この人の気も知らないで、っていうのが、ポイントかもしれない。
あきらめさせないためには、ちょっとは、人の気なんか知らない方がいい。
人の気を知りすぎれば、それこそ無理させたくなくなる。
ホントは、そんなに無理なことでもないのに…
一人くらい、人の気も知らない友達がいた方がいいんだろうなぁ。

  
         
=編集後記=
 7月からスポーツジムに通っています。@自転車でAウォークでBランニングで通える樟葉を選びました。今日はウォークで140分、自転車では60分、ランニングでは?  =了=



2008.7.8 発行(164)

=哮が峰=
饒速日の尊が天下りした場所について、『先代旧事本紀』は、つぎのように記す。
「饒速日の尊は、天神のご命令で、天の磐船に乗り、河内の国の河上の哮峰(たけるがみね)に天下った。さらに、大倭の国の鳥見の白庭山(または、白山)にうつった。」
『日本書紀』は、神武天皇紀で、つぎのように記す。
「饒速日の命は、天の磐船に乗り、大虚を翔けり行き、このくにを見て天下った。」哮峰とか、白庭山とかは、どこを指すのであろうか。

まず、哮峰については、二つの説がある。
その1つ目の説は、交野市私市にある磐船神社の「磐船」の地である。
「磐船」の下を天の川(現在は、天野川と書く)の上流が流れる。
天野の川は、淀川を下流にもつ。生駒山脈の北部である。
大和の生駒川の川上にもなる。

下の図は物部氏の祖、饒速日の命の天下った哮峰と磐船神社。
    
磐船の地の山中のところどころに、巨巌がある。それを磐船という。
なかでも、私市の南2qの田原にいたる山中に、天磐船といわれるものがある。
貝原益軒は、元禄二年(1689)に、京都から南遊し、『南遊紀行』をあらわす(正徳三年〔1713〕刊)。そのなかで、つぎのように記す。
「岩船は、大きな岩で、方18メートル(十間)もあるであろう。船の形に似ている。谷に横たわっている。そのほか、家のような橋のようなのや、あるいは横たわり、あるいはそば立っている石が多い。6月の晦日には、ここを参詣する人が多いという。岩船の下を、天の川が流れ通っている。奇境である。

大石は、いずれのところにも多いけれども、このように、大石が、一カ所に集まっているところを、いまだ見ない。」

  
          磐船神社のご神体(天の磐船)
=編集後記=
哮が峰には南河内の平石説と交野市の磐船説とがある。次号では二つの説を見てみることに。                       =了=
  
   哮が峰(饒速日の尊が天下りした場所:昭和50年頃)

  
    


2008.7.7 発行(163)

 =七夕伝説(その5)=七夕祭にこめられた先人の祈りとは
 宮廷で祝う七夕は、「乞巧奠(きっこうでん)」とよばれた。
それは、巧を乞う祭りを意味する。織女星をまつって、機織りだけでなく針仕事、歌舞、詩歌などのさまざまな芸の上達を祈ったものだ。また、平安時代になると乞巧奠に虫干しがおこなわれるようになった。
諸芸の道具を織女星に供える風習が、あらゆるものを外にだすものにかわったのだ。
旧暦七月七日のころの晴天つづきの気候が、虫干しに適していたからだ。
しかし、宮廷の乞巧奠の習俗は、ほとんど庶民に受けつがれなかった。
むしろ、盆のはじまる日としての七月七日の行事が、今日の七夕のもとになっている。
地方によっては、七夕を七日盆といったり、単に「お盆」といったりする。
七夕の竹を二本立てる地方や、七夕に若竹で棚をつくる地方も多い。
二本立てるところでは、二本の竹に横竹をわたして、素麺やささげ豆(小豆に似た豆)、ほおずきを下げる。また、七夕の竹の棚は七夕棚とよばれ、お盆のはじまりのお供えをするものとされていた。その他に、七夕の日に机をだして、茄子・胡瓜・西瓜などの初物を供えるところもある。この日に、仏具のみがきものや、年に一度の井戸さらいをおこなっていた例も多い。さらに、いまでも七夕飾りの竹は、その夜のうちにはずして川や海に流すものとされている。
これらは、盆のはじまりの夜に、その日のお飾りを捨てた習俗からきたものだ。
もともと、七月七日は盆という大切な行事がはじまるさいに、それまでの穢れをすべて清めておく日であった。七日のお供えは、穢れを祓ってもらう代価であった。
だから、人々の穢れを付された七夕の飾りはすみやかに海に流された。
仏具や井戸の汚れも、そのついでに清められたのである。このような七月の行事と、寺子屋から広まった習字上達を願う星祭りがあわさって「たなばた」になった。
それははじめ、「棚幡」と書かれた。お盆の入りのお供えの棚と、笹の葉につける幡(短冊)とを用いる行事という意味である。
しかし、「棚幡」の字は、むずかしくなじみにくかった。そこで、七が重なる夕方をあらわす「七夕」の字が「たなばた」にあてられるようになった。

 

=編集後記=
 皆様の願が叶えますように。誰が名づけたか知りませんが「逢合橋」。いい名前です。
                                 =了= 



2008.7.05 発行(162)

=七夕伝説(その4)=
機織る乙女━タナバタのこと(牽牛と織女の出会い)

 神を向かえるためにこもった村の乙女たちのおもかげは、七月七日のタナバタにも残っている。七月七日の夜に、ふだんは天の川をへだてている牽牛と織女の男女の星が一年に一度出会うという伝説は、かなり古い時代に中国から日本にも移入されたようで、「万葉集」にも、多くの七夕の歌が詠まれている。
和歌森太郎の「年中行事」に引用されたグラネ著・内田智雄訳「支那古代の祭礼と歌謡」によると、天文学上の計算に従えば、約三千年前には七月七日の夕方、一等星琴座のアルファ星と、鷲座のアルファ星とが、天の川の上に南中して人々の注目をひいたという。
 平素、天の川を挟んで東西に位する鷲座・琴座の二大星が天空で相接するのは一年を通じてこの日だけであった。
そこで二星の接近を、相慕う男女のたまさかの接近に擬して鷲座のアルファ星を牽牛星、琴座のアルファ星を織女とし、当日この二星の近づくところに、翼を拡げて橋のような形で南中する白鳥座は「夫婦貞節の象徴」とされている鵲(くぐい・白鳥)になぞらえたということである。その中国に七月七日の行事として乞巧奠(きっこうでん)がある。乞巧とは裁縫の上達を願うという意味で、もともと七月七日とはか限らなくてもよかったが、奇数をもって陽の数とする中国の思想からこの日に定まったのであろう。


天の川と七夕・星伝説のまち
    交野の絵本 より

 日本でも、これにならって、タナバタに裁縫が上手になるように祈る習わしが生まれている。仙台や札幌、平塚、東京都内では阿佐谷のように商店街の中元大売出しと結びつけて、派手に飾り物をつくり、道の両側から吊り下げたりするようになったのは、ごく近年のことであるが、笹竹を立てて、五色の色紙や短冊を結びつけて星を祭るのも中世以後のことのようである。天明三年(1783)、信州(長野県)松本近くのタナバタを菅江真澄の描いたものが「いなのなかみち(伊那の中路)」の中に残っているが、庵の軒に紐をかけ渡して、ヒトガタのような素朴な人形をいくつもぶら下げ、供えものをしているのがみられる。
今も松本のタナバタ人形は松本城内の日本民俗資料館に行くと見ることができる。
ところが星祭りとはまったく関係のなさそうなことを、七月七日にするところはまだかなり各地にみられる。この日を七日盆という土地は和歌山県その他かなり広い範囲にわたっているが、奈良県の南部のようにボンハジメというところもあって、盆のはじめのように思っている人は、まだ多いのである。秋のはじめの満月の夜が、盆の魂祭りなのだから、その一週間前が重要な日であったことは、春のはじめの満月の夜の小正月に対して、七日にいろいろな行事のおこなわれのとねちょうど同じである。近畿地方のように盆祭の準備として仏具を拭き浄めたり、拭き掃除をするというのはよくわかるが、この日を「池替盆」などといって池をさらえたり、井戸がえ、つまり井戸さらえをするというところがあるのは、どうもお盆とは関係がなさそうである。
 またこの日、女が髪を洗うと汚れがよく落ちるとか、女の髪洗いの日だというところもあって、山梨県の河口湖畔の村などでは、この日の朝、女たちが総出で湖水で荒い物をし髪を洗う習わしがあった。この日「七遍親を拝み、七度海に浴びる」とか「七遍飯を食い七度海に浴びる」「七度ホウトウを食べ七度水泳ぎをすれば腹を病まぬ」などという地方もあって、どうやらこの日は女性がみそぎをする日でもあったらしい。
                      「神と祭りと日本人」牧田茂著より
=編集後記=
一年 一夜と思えど たなばたの 逢い見む
  秋の限りなき哉            拾遺和歌集 紀 貫之 
                 =機物神社にある歌碑より・・・了=



2008.7.04(161)

 =七夕伝説(その3)= 中国の神話 織女星 

 一等星「べガ」は、日本ではその名前より七夕伝説の「おりひめ星」の名前の方が良く知られているでしょう。この七夕伝説は、古代中国の伝説に出てくる織女と牽牛の物語です。 夏の夜空では、天の川が空を西と東に分けています。西側は天人の世界と呼ばれていて、天帝の娘だった織女(おりひめ)は、子どもの頃から外には出ずに機織りばかりしている仕事熱心な娘でした。
おりひめの織った布はそれはそれはとても美しく、皆が欲しがるのを見たおりひめはそれがうれしくて、またせっせと機を織り続けるのでした。
しかし、化粧もしないで一日中機織りばかりしているので、このまま嫁にも行けぬのではないかと心配した天帝は、天の川の対岸で牛の世話を一生懸命にしていた働き者の男・牽牛(けんぎゅう)と結婚させることにしました。
2人は結婚してからとても幸せな生活を送っていました。ところがおりひめは、女性としての自分に気づいたのか、牽牛との生活が楽しくてしかたなくなって、それまであれだけ熱心にしていた機織りをまったくしなくなってしまったのでした。
天帝のもとには、おりひめの紡いだ布を求めて遠くからもお客様がやってきます。しかし、おりひめの織った布はもうなくなってしまいました。
それを見かねた天帝は、たとえ2人が幸せな暮らしを続けていても、仕事ができないようではいけないと、2人を再び離すことにしてしまったのです。
しかし、一度引き合わせた2人を引き離すのはあまりにもかわいそうだと考えた天帝は、年に一度だけ、会う機会を与えることにしました。
その日は、7月7日と決められました。その日には、普段はわたることができない天の川に、かささぎが群れを成して橋をかけてくれて、その橋の上で2人はひととき会うことを許されたのです。
この七夕伝説は、日本に伝えられたあと、お話しがとても似ていた奄美地方に伝わる「天の羽衣」の伝説と一緒になって、現在まで多くの人々に語り継がれています。
この伝説に出てくる「牽牛」は、ベガと天の川をはさんで対岸にあるわし座のアルタイルです。天の羽衣伝説では「ひこぼし」と呼ばれています。
もし、いまあなたが愛する人と1年間会うことも話すこともできなかったとしたら、あなたはどうしますか・・・?(笑)。

  

=編集後記=
 今年も7月7日倉治・機物神社や私市・水辺プラザ一帯・星田妙見宮において七夕祭りのイベントが盛大に行われます。        =了=


2008.7.03(160)

 七夕伝説(その2) =織女と牽牛=
歴史民俗資料展示室

 むかしむかし、天帝という神様が星空を支配していたころ、天の川の西の岸に、織女(しょくじょ)という天帝の娘が住んでおりました。織女は機織り(はたおり)がたいへん上手で、彼女の織った布は雲錦と呼ばれ色も柄も美しく、丈夫で着心地も軽い、素晴らしいものでした。一方、天の川の東の岸には、牛飼いの青年、牽牛(けんぎゅう)が住んでおりました。牽牛は、毎日、天の川で牛を洗い、おいしい草を食べさせたりと、よく牛のめんどうをみる、働き者でした。天帝は、くる日もくる日も、働いてばかりいる娘を心配して、娘の結婚相手をさがすことにしました。
 そして、天の川の向こう岸に住む牽牛をみつけると、2人を引き合わせ…「おまえたち2人は、まじめによく働く。牽牛よ、わしの娘、織女と夫婦(めおと)にならぬか?」牽牛は恐縮したようすで「天帝様、私のような者には、夢のようなお話しでございます。ありがたくお受けさせていただきます」織女も、働き者の牽牛をたいへん気に入り、2人はめでたく夫婦となりました。

 ところが、一緒に暮らすようになると、2人は朝から晩まで天の川のほとりでおしゃべりばかりをしています。これを見た天帝は「おまえたち、そろそろ仕事をはじめたらどうだ?」といましめますが、 牽牛と織姫は「はい明日からやります」と答えるばかりで、いつになっても仕事をはじめるようすがありません。織女が布を織らなくなってしまったため、機織り機にはホコリがつもり、天界にはいつになっても新しい布が届きません。また、牽牛が世話をしていた牛たちも、やせ細って、次々に倒れてしまいました。
 業を煮やした天帝はとうとう、2人を引き離し、1年に1度、7月7日の夜だけ、天の川を渡って、会うことを許しました。今でも2人は、7月7日に会えるのを楽しみにして、天の川の両岸でまたたいているとのことです。
=編集後記=
 今年も子どもたちに願いを書いてもらいました。叶うといいですね。   =了=



2008.7.02 発行(159)

 =七夕伝説(その1)
 七夕伝説のおこりは中国です。もともとは、中国の牽牛、織女星の伝説と、裁縫の上達を願う乞巧奠(きこうでん)の行事とが混ざりあって伝わったものといわれています。
2人は夫婦なのですが仕事をせずに遊んでばかりいたので年に1回のデートの日以外は仕事、仕事の毎日を強制されるという儒教的思想の色濃いお話。昔の農民が七夕伝説という物語で「仕事、仕事」の毎日を哀れむために作られたのが最初なのではないかといわれています。
七夕伝説がはじめて文献に登場したのは、漢の時代に編纂された『文選』の中の「古詩十九編」で、その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』の中にも記述があり、このころになって、七夕伝説が完全な説話の形になったのだろうといわれています。

  

     交野市歴史民俗資料展示室にて公開中
                           吉光 作

 日本へは遣唐使などによってもたらされ、日本に従来からあった棚機津女(たなばたつめ)の信仰とが混ざってできたとされていますが、その他にも琉球地方には羽衣伝説などと混ざった形で七夕伝説が伝承されており、正確にいつ日本に伝わったかは定かでありません。
 江戸時代には、書道学問の上達を願う行事となり、また、おり姫星とひこ星を引き合わせるため、たらいに水を張り、そこに2つの星を反射させてわざとたらいをゆらし、2つの星があたかもくっついたようにすることも行なわれていたようです。

=編集後記=
この物語にまつわるお話はさまざまなものがあります。次号では織女牽牛伝説を物語風にアレンジしたお話を紹介します。           =了=



2008.7.01 発行(158)

 =快慶あての書状=
 阿弥陀如来立像 仏師:快慶作(交野市:傍示)桧の一木「割りはぎ寄せ木造り」の仏像内部から
約800年ぶりに取り出された経文や書状。







@ 快慶へあてた書状(表)
  書状の表の余白に左斜め向きの不動明王の上半身図。
  文面は「御仏迎え人に託し進上候。布三反、莚九枚・・・・
    白米一斗七升御菜三種進上仕候」などと書かれている。
     (仏像受取りの手みやげであろうか)
A 快慶へあてた書状(裏)
  書状の裏には、不動明王の頭部と左足及び蓮台の図と共に、陵王の頭部が
  描かれていて「安阿弥陀仏」の署名がある。
B 印仏
C 経文
  経文は般若心経と阿弥陀経など、11種類で、表に金銀切箔を散らした阿弥陀経
  1巻の末尾には「前権少僧都明遍自筆(さごんのしょうそうづみょうへんじひつ)」と
  墨書されている。
  経文類は白紙で中包みされていて、その表に「恵敏」の署名があった。
D 包紙(巻子状に包まれた外包みの紙)
  包んであった和紙は、縦30p、横40pの書状が使われていた。
  差出人は「僧賢印(けんいん)」(記録がなく不明)
  あて名は「安阿弥陀仏様」(快慶の法号)
E 像内胸部の墨書
  「金胎両部大日如来・阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩」を表す五つの梵字と
  作者快慶の銘を示す「阿弥陀仏」の墨書がある。
=編集後記=
 仏像の胎内から発見された収納品、特に快慶仏師の仏像線画や手紙の内容と写経など、貴重な歴史的遺物と評価され、阿弥陀如来立像と共に、国重要文化財指定となっています。   =了=

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