平安初期の真言密教の開祖空海が京と高野山に本拠を置いて以来、民間の大師信仰、高野聖の活動と相俟って、多くの信仰者の往来を見るに至った。
京都の東寺は、弘仁14年(823)に空海に下賜されて、真言宗の根本道場となった。
この東寺と高野山(816年建立)を直結するのが、東高野街道である。
東高野街道は鳥羽から分れて、淀・八幡・洞が峠の順序で河内に入ると、交野市の郡津・星田を通って、四条畷・柏原・富田林と南へ進み、河内長野へ西高野街道と合して高野山に達する。
この街道筋の所々には、弘法さんの井戸と言って、道端に美しい水を湛えた井戸が古くから設けられている。それには、弘法大師の法力で湧き出したなどの伝説をともなっていることが多い。
また、京都と高野山を結ぶものに淀川水路があった。この水路コースは、京都から陸路で鳥羽、山崎に至り、そこから淀川を下って渡辺の津に上陸する。渡辺は今の大阪市天満橋と天神橋の間の南側に当たる。大阪から天王寺・住吉と歩いて堺に出て、それから紀見峠へ向かう道を西高野街道という。
また、四天王寺から平野を通って真っ直ぐ南に紀見峠へ向かう道を中高野街道といった。
西高野街道と中高野街道は河内長野市で合流、やがて南下してきた東高野街道と一本になり、紀見峠を越えて高野山に向かう。
枚方市樟葉に駅が設置されたことは、続日本紀和銅4年(711年)に見え、この道は、樟葉から枚方、交野郡の郡衙地の郡津を経て、星田から南へ行ったのであろう。
郡津神社の西の地は、「くらやま」といわれ、古代律令時代に栄えた
交野郡衙(かたのぐんが)の跡地と推定されている。
(右の交野郡衙(かたのぐんが)跡地推定略図を参照下さい。)
郡衙(ぐんが)とは、大化の新制により、
これまであった旧制の地方支配者の臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやっこ)・国造(くにのみやっこ)・村首(むらのおびと)等を廃し、
これにかわり国には国司(こくし)・郡には郡司(ぐんじ)をおいて、天皇のもとに集中する権力機構の支配系統が樹立した。
河内では南に国府ができて、その下に多くの郡が設けられたが、
北部には茨田(まった)(淀川付近)、讃良(さら)(四条畷方面)、
交野(交野丘陵)=交野郡衙の三郡が置かれ、それぞれ要衝には郡衙ができた。
国司は中央から派遣されたが、郡司はその地方の有力豪族が支配することが多かった。
郡司がその地方の民を統率し、年貢米を徴収した。
その中心地が郡衙であり、役所があって、米蔵が林立した。
明遍寺(みょうへんじ)は、浄土宗の宗祖法然の弟子明遍がもとを開いた。
藤原時代の終わり、平家の没落に近い治承年間(1177〜1180) 高野山にいた僧明遍(みょうへん)は、
浄土宗の祖法然が京都比叡山延暦寺で法を説いているのを聞き、
大いにこれに帰依し、度々、この東高野街道を往復した。
途中、休憩所をこの東高野街道の郡津の茶屋付近に設けた。
ここで、休むごとに、集まる農民に法然直伝の念仏往生の教えを伝えた。
その後、休憩所であった小庵が明遍寺となって、現在に続いている。
石清水八幡宮が、貞観元年(859年)勧進されると、八幡信仰の道として、河内から京への道は八幡を通るようになった。
この時期になると、八幡、洞が峠、高野道、出屋敷、四辻、郡津、星田、大谷、打上、四条畷、中・南河内を経て、高野山へのコースとなる。
貝原益軒は、元禄二年(1689年)、京より高野山へ行こうとして洞ヶ峠から河内に入った。この旅行記「南遊紀行」には、この街道を「大道}とか「山の根道」「山根の大道」「山の根すじの大道」などと呼び、「京より紀州へ行く大道なり」と書いている。
この名は、よほど古い名で、高野街道という名称以前の大昔からあるものであろう。
『河内誌』は官道として現在でいう京街道、東高野街道、暗峠越奈良街道、長尾街道、竹内街道の五街道をあげている。官道といっても幕府管轄の道ではなく、重要道路という意味であろう。
明治になって、大阪府は東高野街道を一等縦貫線として、国道29号線、能勢街道とともに三本の一つにあげている。起点は城河国界の招堤村、終点は長野村で、この延長13里2町25間、大阪府管内縦貫線中、最長の長さを持ち、他に街道を併せるもの少なからずとされている。(大阪府全誌)
上ん山(うえんやま)
天野川ににかかっている逢合橋を西に越えると、左前にある薮のある小さい丘が目に付く、この丘を「上人松」とか、「お野立所」とか「上ん山」と呼んでいる。
(現在では、建物が建ち並び見えない。府道20号線を「逢合橋西」より50b南に下がると見える)
ここへは、逢合橋を渡ってまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、30bほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある。それに続いて玉垣の中に大きい地蔵様がおいでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳年(1845)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。
ここ「上人松」にこんな伝説がある。
後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗
に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように。」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。
両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。
以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。そこから薮の坂道を左にとると、すぐ山根街道と交わる。
左が東高野街道、右が山根街道の分岐点(うえん山の辻) ↓
この分岐点の辻に、上ん山地蔵がおられる。 地蔵様の光背には「私部村地蔵講中 享保十乙巳年(1725年)3月24日とある。また「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」の大きな道標があり、その南側の小さい道標に「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。
元弘の乱(1337)で北条方が楠正成の下赤坂攻めにこの道を急ぎ、近畿平定には織田信長もここを通って岩倉開元寺を焼かせ、足利義昭の反抗の時には秀吉が義昭をつれて急いだと言うこの道は、なるほど権力の道だ。
真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。
道を隔てた東には、「閲武駐蹕記念碑」がある。大正3年(1914年)大正天皇がここで陸軍大演習を統監されたことを記念して建てられたものである。
ここで、「東高野街道」と「山根街道」が一つになって星田に伸びている。
星田歴史風土記を参照
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