318m。 北から交野山、旗振山、竜王山と並んで おり馬の背のようにずんぐりとしています。 寺村から「かいがけの道」を登ると、 竜王社への上り口がある。鳥居をくぐり 登りついた所がお祭り広場である。 その上一段高くなった広場に竜王石 があり、その北側のとんがった岩が 雨乞い岩。
海抜が345bです。
旗振山と呼ばれているのは何故?
江戸時代中頃から、商都大阪で全国から集まった蔵米を大坂堂島で米市がたった。
「堂島の米市場」という。ここで決まった米の値段を知らす方法は飛脚であったが それよりも早い通信方法が「旗振通信」であった。
どんな方法で
近い所は白旗、遠い所は黒旗で知らせ、約三里ごとに中継点を設け、次々と送っていた。
大坂の方が一望できる立地の良さがあり、東の山城、大和へも。次の中継地点が
独立した山であれば、信号を送るのにふさわしい場所である。 いつ頃まで行われていたのか?
明治の初めまで、電信が利用されるようになると姿を消した。
面積は23アール、寺村の一等水田への用水 として貴重な働きをした池であったが、昭和60年 には埋め立てられゴミの廃棄場とかわりました。 寺村の池めぐりはこちらへ
枚方(ひらかた)市の市街地を流れ、淀川に注ぐ河道延長16.2km、流域面積51.3ku の一級河川です。 源流は、生駒山の北、竜間のちょうど東側阪奈道路あたりになり、そこから南田原に出てくる。 もう一つの流れは、宛ノ木から出ている。南田原の岩井坂の南に住吉神社があり、この神社の 境内は杉やヒノキの森になって水の湧き出る泉がある。この泉は天野川の水源にして、往古、 隕石降りしをもって、星の森の泉と名付くと言われている。この二つの川が南田原で合流して 北へ磐船街道に沿って流れている。 古くは、上流部の風化花崗岩を流すほどの流量を誇り、その白砂によって川原は白く覆われ、 天上の銀河を想わせるところから天野川と名づけられたといわれています。 また、太古には交野ヶ原と呼ばれた枚方・交野一帯に、今も「星田」「星が丘」 「中宮(北極星の意)」など、天空にちなんだ地名が数多く残っています。 さらに、天野川に架かる橋にも、「逢合橋(あいあいばし)」や「鵲橋(かささぎばし)」 「天津橋(あまつばし)」(天の港の意)といった七夕にまつわる名称が多く、まさに伝説の川に ふさわしいロマンチックな雰囲気を今に伝えています。
ので、こちらを参考にしてください。他にも、沢山あると思いますので、また情報をお寄せ下さい。 |