[ホームページ] へ戻る


「天の川」その名の通り美しい川です

七夕伝説の川、天野川をたずねて、
「人と水の物語」
交野市と枚方市を流れる天野川が特集で紹介されました

ビワズ通信・天野川特集
琵琶湖・淀川の上流から下流の水のかけはし情報誌
 『せとぎわの自然−カワセミスト−リ−天野川の住人たち』

市の南東から北西へと斜めに横切って流れる天野川。
天野川は生駒を水源とし、磐船の渓谷を流れ交野平野を潤し、淀川に注いでいます。そして、その支流とともに土地に潤いを与えながら、はるか昔から人々に愛されてきました。

肩野物部氏(かたのもののべし)の一族が、この天野川の流域で米作りを始め、やがてこの一帯は「甘い(おいしい)米のとれる野」甘野、甘野川と呼ばれ、それが後に天野川といわれるようになったと伝えられています。

天野川かるた
「て」 伝説 豊かな 天野川
「交野郷土史かるた」より

大昔、饒速日命(にぎは交野ヶ原を流れる天野川やひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという話、

また、平安時代に入って、むかしの甘野川は
天野川 となり、天上の天野川にあてはめた七夕の話等いろんな伝説に富んでいます。
これらは天野川流域の農耕文化の発展を意味していると思われます。




桓武天皇が延暦四年(785)交野の柏原の野に郊祀壇を築かれた。郊祀壇とは、星祭りをする土壇で、柏原の野は片鉾の西南辺りらしい。中国では天子は天命の命によって、この地上を治めていると信じられて、中国の皇帝は毎年都城の南郊に設けられた天壇において北辰星(北極星)をまつる儀式が行われていた。桓武天皇は、この中国の慣例にならって交野の柏原の地に天壇を築いて、天帝を祀る儀式を行われた。このようなことは、日本ではこれまでの天皇にはなかったことである。

逢合橋 一方、桓武天皇と百済王一族とは深い関係があり、百済から亡命してきた百済王一族が古里を懐かしみながら、七夕祭をしていたと推察される。牽牛・織姫の伝説は、中国の詩経(中国最古の詩集、紀元前10〜6世紀の歌と推定される)に出ており、その古伝説が日本古来の神の衣を織る織女伝説と合してできたのが、七夕伝説であるという。

枚方の香里団地の中山観音寺跡に牛石と呼ばれる石があり、倉治の機物神社は織女星を祭り、牽牛・織女の伝説となっている。私部に逢合橋(あいあいばし)枚方市禁野に鵲橋(かささぎばし)がある。鵲はカラス科の鳥でカラスより小さく、棲息地は中国、朝鮮半島に多く日本では北九州の佐賀平野に限られ、天然記念物に指定されている。七夕の日に雨が降って橋が渡れない時は、沢山の鵲が翼をひろげて二人の再会を助けるのである。年に一度の逢瀬を楽しむロマンあふれる橋である。

中山観音寺跡地 万葉集の中に、交野郡では石船(いわふね)と片足羽川(舟橋川)とが詠まれている。

伊勢物語に、 「狩り暮らし たちばなつめに 宿からむ
        天の河原に 我は帰にけり」と 在原業平(825〜880)が歌っている。 天野川の歌ではこれが最古である。このことから、 天野川の名称はその由来を平安の初めに求めてもよいのではと推察される。


天野川の天女の説話が『河内名所図会』や『伝説の河内』に紹介されている。
「天野川、むかし、一人の仙女あり。此渓水に浴し逍遥する所、少年の戯れに其衣をかくす。故に帰る事能わず。遂に夫婦と成りて後三年を経て飛び去る。故に天川と号す。」

天女の説話は通常羽衣説話といわれて、沖縄から青森に至る各地に広く分布している。このような説話が生まれている場所は、いづれも風光明媚なところに限られている。私たちが愛してやまぬ 天野川に、このような説話が生まれたのは、往時における交野が原の天野川の風光が、きわめて清幽佳麗であったからであろう。磐船神社川の上流、磐船神社から田原に出る所に羽衣橋がある。

更に生駒市南田原の住吉神社は、星が森を背景とし、龍が渕(池)を廻らす広域の地に鎮座し、この湧き出る清水は枯れることなく、天野川源流の一つになっている。


鎌倉時代、交野に遊吟に訪れた藤原為家(1198〜1275)は、堤防も橋もなく、流れるままの天野川が増水して川幅が一段と広くなり、渡るのが困難であった様子を次のように歌っている。

     天野川   遠き渡りに   なりにけり
                  かた野の御野の     五月雨のころ

元禄2年(1689)2月に当地方を訪れた当時六十才の貝原益軒がその紀行文「南遊紀行」に当時の天野川の情景を次のように記している。

天野川の源は、生駒山の下の北より流れ出で田原と言う谷を過ぎ、岩舟に落ち、私市村の南を経、枚方町の北へ出て淀川に入る。

 獅子窟山より天野川を見下ろせばその川、東西に直に流れ、砂川に水少なく、その川原白く、ひろく、長くして、恰も(あたかも)天上の川の形の如しさてこそ、この川を天野川とは、只天野川の流れの末ばかりを渡りて、古人の天野川と名付けし意を知らず。おおよそ諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天野川と名付けしこと、むべなり。

天野川 岩船より入って、おくの谷中七十八町東に行けば谷の内やや広し。その中に天野川ながる。其の里を田原と云、川の東を東田原と云、大和国也。川の西を西田原と云、河内国也。一潤の中にて両国わかれ、川を境とし名を同じくす。この谷水南より北に流れ、西に転じて、岩船に出、ひきき所に流れ、天川となる。(中略)

この谷の奥に、星の森有り。星の社(現在の星田妙見宮)あり。其の神は牽牛織女也。これ二神をいわれり。」

六十才の翁は、春浅い天野川の情景に心をときめかし、綴った。
この天野川の情景こそが、またこの自然風土があってこそ、交野の当地に素晴らしい伝承文化が生き続けてきたのである。交野山を仰ぎ見て、天野川のせせらぎに耳を澄まし、古代の人々はこの郷土の中で何を感じたのであろうか。

(星田妙見宮・ちらしを参照)

明治初年の堺県星田村絵図に、天野川のことを「天之河」と「銀河」と二つの名前で記されてる。

天野川の河川敷を利用した緑地公園 岩船小学校付近の小字名「船戸」は、かって天野川の船着場であったと言われるところから、古い天野川の増水時の川幅は、広い所で1キロ以上はあったのだろうか。

現在の逢合橋の長さが34.7メートルで、江戸時代寛延2年(1749)の記録では 天野川川幅平均70間(126メートル)で、現在の川幅の3.7倍も広かったが明確である。

私市から枚方まで 天野川流域はに、昔の川原の広大であったことを裏付ける小字名が多数記録として残っており、一例を挙げると、府道久御山線に架かる交野橋の東、即ち 天野川の右岸の小字名に東川辺、中川辺、西川辺があり、現在は天野が原1丁目〜5丁目となって宅地化されている。


春には、枝垂桜とユキヤナギが咲き乱れ、散歩する市民で賑わっている 昭和24年の記録によると、JR学研都市線の南にある 天野川橋から逢合橋までの1300メートルの間で、 天野川左岸の河川敷を48ヶ所に区画して、星田の29人が借地として耕作していた。その最大幅は25bとなっている。

沿岸のこれらの土地は、最小必要川幅に整理され、農地又は宅地に、或いは緑地化され、川は枚方から上流に向って川底の浚渫と堤防の護岸工事が進捗し、私市橋まで進み、更に「星の里いわふね」の整備された川辺では夏ともなれば、水と戯れる元気な子供たちの歓声でいっぱいである。

「星の里いわふね」の整備された川辺では夏ともなれば、水と戯れる元気な子供たちの歓声でいっぱい 天野川緑地は、昭和50年に総面積4ヘクタールの緑地として都市計画が決定され、私市橋から星田中川合流点までの左岸1.1キロが 天野川の河川敷を利用した緑地公園として整備された。春には、枝垂桜とユキヤナギが咲き乱れ、散歩する市民で賑わっている。

交野の古代文化は、弥生時代に渡来した 天野川流域を中心とする稲作と、山麓地帯に広がるこれも渡来人による機織集団の二つの系統の文化に分けられるが、牽牛・織女の伝説はとりもなおさずこれらの文化の融和、合流といえるのではないか。

交野の川は多いが、有名人の古歌に歌われる川は殆どと言って良いほど 天野川で、 天野川は実に交野の台地の母なる川であることを、改めて思い知らされるのである。


星田歴史風土記を参照