私部城跡
なぜ私部に城が造られたのか、東高野街道、岩船街道、かいがけの道、この三つの道をおさえる城が私部城で監視所的な役目を果たしていた。また、この城は列郭式(れっかくしき)と呼ばれ、畿内ではここだけである。これは屋敷(くるは)がつながって出来ていた平城(ひらじろ)である。
本郭は、東西50m・南北60m ニ郭は、東西25m・南北100mで北方は道路によって分断されている。 三郭は、東西30m・南北60m 大阪府下で457ヶ所の城館跡が確認されているが、その殆どは俗に山城と呼ばれているものである。中世城郭イコール山城といわれている。山城にたいして、平野部に構築される城を平城という。 私部城跡は平城で畿内においても有数の残存状態である。 旧北河内における中世城館跡は現在33城跡が確認されているが、その内訳は山城が24城、平城9城となっており、平城で遺構が確認できるのは、交野城跡だけである。
安見氏は若狭国保見荘より起こる。 安見清賢は南朝方に属して、護良親王に従って吉野山で足利方と戦い討死にした。安見清儀はやはり南朝方で楠正儀に属し活躍する。安見氏代々の居城・私部城は、清儀の頃に築城されたという。 清時は畠山義就の重臣で、小山城(現、大阪府藤井寺市津堂)に配せられる。以後、小山城は安見氏数代の居城となる。 直政は清儀より九代後という。主家・畠山氏を追放して自ら河内守護と称し高屋城を居城としたが、三好長慶に攻められ飯盛山城に籠城。ついには大和に逃亡した。しかし、織田信長の河内統一後は畠山氏に帰参し私部城を回復したという。 なお、安見氏は直政の死後、筒井順慶に居城・私部城を攻められ滅亡する。
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