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 第11回 交野歴史健康ウォーク

2001.2.10  私市駅から星田妙見さんを尋ねる
行  程
 私市駅→大阪市立大学付属植物園前(日之出橋)→天野川→私市橋→
妙見坂住宅地→家康のひそみ藪→星田妙見さん→鎌倉墓→
妙見口地蔵→藤が尾住宅街→私市の大松→私市の石灯篭(解散)


天野川沿いの
加賀田用水路
日之出橋から下流を写す
天野川
綺麗に整備され
沢山の野鳥が見られる
徳川家康ひそみの藪
妙見坂小学校の
南側の藪の中に
案内板がある
妙見さんの鳥居
妙見東3丁目に建つ

足利義晴の墓
鎌倉墓に安置されている
鎌倉墓
妙見さんの南の
竹薮の中にある

妙見口交差点の地蔵さん
昔、トンネルのあった
堤防に祀られていた
妙見口交差点
ここに、昔、上が妙見川で
下が星田から私市へ
行く道路のトンネルがあった
加賀田用水の造成記念碑
藤が尾と私市を結ぶ
天野川橋の袂に立つ

 2001.2.10、参加者は、10名。 午前9時10分、星田妙見さんを目指して、京阪私市駅前をスタート。
 駅前を北へ右折して、住宅街を抜け竹薮道を下っていくと右手に、沢山水が湧き出す湧水の滝「ちんちん水」がある。冷たくて綺麗に澄んだ水と言う意味だそうだ。
 この道を西へ行く道は葬式道(そうれんみち)と言った。昔、旧磐船街道との突き当たりに地蔵さんが居られたようで、墓にお参りする時いつも花を供えたものだとご老人が言っていたそうだ。
 私市駅から大阪市立付属植物園に行く、168号線の交差点の東側に綺麗に掃除され、お花が飾られた立派な地蔵さんが祀られている。いつもどなたかがお世話をされているのだろう。

 平田会長より、植物園の前の日之出橋の上で、天野川沿いに造られている加賀田用水について詳しく説明をうける。天野川の上流に石組みして、土地の高い水田へ水を供給する用水路を建設された、昔の人々の知恵と労力に感動を覚えた。
 天野川は、一日一日と綺麗に整備され野鳥の宝庫として蘇っているようだ。この日も、数羽の野鳥を見つけ、一同歓声を上げた。
 私市橋を渡り、妙見坂の住宅地を南下する。このあたりは住宅地として開発される前は、淋しい所でよく狐にだまされたと言う。また東の植物園側には墓場があったそうです。そんな話もして頂いた。

 妙見坂小学校の南側、妙見宮の参道前の竹薮が、徳川家康のひそみの藪である。
 家康は二度、星田へ来ている。
 一度目は、天正10年(1582)家康41歳の時、、織田信長が京都本能寺にて家臣明智光秀の謀反により自害したと聞き、堺から逃げ帰る途次、一時この星田の藪にひそんだと言い伝えられている。
 2度目は、元和元年(1615)家康74歳の時、大阪夏の陣に東軍16万人のうち、手兵1万5千人を引き連れて星田の平井家に一泊している

 妙見さんの、鳥居をまっすぐに進むと、奥に水の枯れた滝がある。昔はこの滝も水が豊富であったそうである。今は、「登龍之瀧」と表示され水が上から流されている。手前の道を行くと手水があり、そこより121段の石段を登りきると、社務所があり、北摂の山々や、そして交野が原が眼下に見下ろせる。実に素晴らしい眺めである。この場所に佇んでいると、太古の昔が偲ばれる。ご神体は、大きな二つの岩、影向石(ようごうせき)である発掘当時の妙見古墳
 拝殿前の自然石が積み上げられた大きな石灯篭にはいつも圧倒される。また、拝殿の北に石の柱を横に張り出してその上に「篭堂(こもどう)」が建てられているが、よくもこんなふうに建てられたものだと感心する。

 石の階段を下り裏手に回り少し下った高台で、平田会長から「妙見東の住宅街の高台あたりが「妙見山古墳」があったところで、その姿は今はない」と説明を受ける。
 大きな鳥居をくぐり、少し行くと右手に「鎌倉墓」がある。明治時代にこの地を入手した人が開墾して果樹園にしようとしたところ、約200基の墓石類が出土して現在、「延命地蔵尊」として祀られている。鎌倉時代のものと言われている。
 交野八景の一つで有名な、妙見川原の桜並木(最初は明治42年に400本の桜が移植された)を通り抜けると、妙見口の交差点に出る。かってこの交差点に私市から星田へ抜けるトンネルがあったことを知る人は少ないようだ。天井川であった妙見川とトンネル風景(昭和30年代?)
 昔、このあたりは星田の禿げ山から流れ出た沢山の土砂で一面妙見川原となり、流れる妙見川も大雨のたびに土砂で川底が埋まり、雨が止むと村人は総出で川底をさらえて、その土砂で両側の堤を一層高く、厚く盛り上げた。それを繰り返していると妙見川は高い堤の天井川となり、その下を通行に便利なようにトンネルが掘られた。トンネルの上にあった、地蔵さんは今は、妙見口の交差点の東南角に祀られている。

 昭和41年の妙見川改修大工事でトンネルはなくなり、旧川の跡は道路と住宅になり、妙見川原からこのトンネル跡までの350mは桜並木が延長され、下流の藤が尾地区には、府営と供給公社の団地が建ち、現在は一大住宅街となっている。

 藤が尾の住宅街を通り抜け、168号線の西川原交差点を越し、少し北に進み京阪河内森駅方面への道路を東へ行くと、双葉食品の前に「私市の大松(二世)」が植えられている。旧磐船街道への入り口に大きな灯篭と磐船街道の道標が建っている
 今回のウォークはここで解散。約2時間30分のウォークでした。皆さんお疲れ様でした。
 
 平田会長の軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!


交野歴史健康ウォーク行程図

  妙見山古墳 
 4世紀中期頃の古墳で、天野川と磐船街道を支配する交野物部氏の一族の首長を葬ったとものと考えられている。
 妙見宮の東方尾根標高162mの妙見山に所在した古墳で,東に天野川と磐船街道を眼下に見下ろし北は交野が原を一望に収め、遠く淀川、北摂の山々を眺める展望抜群の地である。
 西に巨石を祀る妙見宮の森が20m程の下に見えていた。近くには北北東2kmに森古墳群、北北東2.5kmに車塚古墳群、藤田山古墳は北北西4.3kmに、南南西4kmに忍ヶ丘古墳があり、前期・中期古墳がとりまいている。
 昭和43年四条畷高校生が発見、宅地造成などで消滅寸前の古墳を発掘調査した結果、粘土槨を備えた前期の古墳であることが判明した。

2001.2.10 

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