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交野古文化同好会
 2002年1/2(水) 
 
新春恒例「初歩き」 
総勢15名、真冬の粉雪が舞い寒風すさぶ中
私市駅から磐船神社まで往復11km、途中、石堰、戦時中の洞穴、
水車跡、哮ヶ峰、鮎返しの滝、梅ノ木などを尋ねて、
天野川沿い
を楽しく歩いてきました

私市駅前で初歩き記念撮影


 「神の天の川」 と題して、故奥野平次氏は、
「ふるさと交野を歩く(神の巻)」で、次のように書いておられる。(一部を抜粋させて頂きました)

 私の小学生のころの思い出やからもう60年以上になる。天の川は美しい川で水は冷たかった。沢山の魚がいた。かなっこ、鮎、鮒、鯉、うなぎ、どんごろ、はす、赤ばす、もろこ、いしくい等。流れの中に立っていると、きびすの方から足の裏の砂がくずれていった。そのすき間にはいった「はす」が足の裏をくすぐった。
 田植えが始まるころともなればホタルがたくさん飛んでいた。子供たちは「蛍こい」の唄をうたった。
   ♪♪  ほたるこい 田の虫来い あんどのひかりで笠きて来い あっちの水はにがいぞ こっちの水は甘いぞ 天の川の水飲まそ ♪♪
 七夕さんになると、機物神社の織姫さんと廃中山寺の彦星が「逢々橋」で夏の短い一夜を過ごすという。
 9月の名月になると天の川の水で眼を洗った。月の光で針に糸を通したら眼がようなると信じていた。巨石がご神体の磐船神社、初詣の人々で賑わう
 正月の2日になると私部から磐船さんにお詣りした。山道は緑で一杯やった。私の足もとは藁草履、母や、母と気の合った人達の数人でお詣りした。磐船さんの大きな岩に何をお願いしていたんやろか。水車に流し込む木のとゆから白い長いつららが下がっていたのが今も目に浮かぶ。

 年をとり、色々と教えて貰ったり、本で読んだり、自分で考えたりして、天の川は交野の母やなと分かってきた。

 いつか妙見山の社殿の北側に立って天の川の流域をながめて考えた。交野を開拓していただいた神々の中に黒潮に乗っておいで下さった神々、又新しい他の神々のお力添えのあったことなど、思いおこすべきだろう。そんな所に現在の交野市が育ったと思う。

交野の名所、磐船神社のホームページへどうぞ!!!
すばらしい岩窟拝観ができます。どうぞお参り下さい。

(とき)平成14年1月2日(水)はれ
私市駅→石堰→加賀田用水→私市洞穴→水車跡→哮ヶ峰→
磐船鮎返しの滝→磐船神社→ほしだ園地ハイキングコース→私市駅



石堰
尺治川と土生川が
合流して天野川に注ぐ
加賀田用水路
石堰を越して流れる
用水路を渡る
私市の洞穴
第3号洞窟
私市の洞穴
もう一つの洞窟
168号線を歩く
バス停「梅の木」附近
ここは、歩道が完備しているが
車が多く歩きづらい
いかるが橋
遊水池からトンネルダムを
通って天の川は流れている

 1/2(水)天候くもり時々晴れ、参加者15人。太陽は時々顔を出してはいたが、あいにく寒風すさぶ天候であった。
 案内役は平田さん。「明けましておめでとうございます。」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします。」と、口々に挨拶を済ませて、全員揃った所で記念撮影。この写真は、「石鏃」の次号の表紙を飾ることになる。

 私市駅前を10:15過ぎ出発。駅前広場を抜け、168号線を渡って大阪市大植物園方向に進み、天野川の手前で田圃道を左折して、最初に案内されたのは、「石堰・加賀田用水」であった。落差10mはあろうか、天の川を石組みで堰き止め左手に加賀田用水路への取り口が造られていた。加賀田用水は、私市から森、私部と広く田圃の灌漑用水として今も利用され続けている。天の川の水を上手く取入た先人たちの汗の結晶である。
 ※ 私市の水利組合としては次の5つの組合がある。
1.加賀田水利組合 2.上代水利組合 3.開水利組合 4.潰れ池水利組合 5.持久水利組合

 加賀田用水:大正12年10月の大雨で諸川が氾濫し加賀田用水堰が崩壊したため、美田50町あまりが荒野になり村民は悲嘆に暮れた。西村忠逸氏が深くこのことを悲しみ、同志たちと水利組合を組織して復興にあたることにした。同年12月に起工し、昭和10年5月に完成した。上流の堰を復旧しただけでなく、下流に一つ堰を設けて、新たな水路をつくった。かが田の「かが」は利益・利得の意味で、収穫の多い田と言う意味であろう。

石堰の下の溜まり場、ここは戦前の子供達の格好の水遊び場であった この石堰の下が戦前の子供たちの水遊びの場であったそうだ。平田さんたちが子供の頃、学校から帰ると急いで集まり水遊びをしたと言われる、私市の天の川石堰。水の綺麗な川を覗き込むと、元気な子供たちの喚声が聞こえてきそうであった。よき時代の思い出の場所である。
 この附近は一昨年来、私市橋から日の出橋の南にかけて天野川の護岸工事がすすめられ、石垣が綺麗に組まれ整備されていた。

 最近はめっきり車の往来が激しくなった168号線(磐船街道)を生駒に向かって、私市小学校を過ぎカーブを大きく曲かったら、生コン会杜が見えてくる。その左側の山肌に3本の洞穴がある。その内の1本は奥行き45m、高さは2m位で大人が立った状態で中に進むことができる。5m間隔で左右にも堀った跡がある。洞穴中は、真っ暗闇で湿っぽく、奥に入るに従って洞窟の天井附近にたくさんの黄色い蛾がへばり付いていた。
 ここは、旧陸軍造兵廠・香里製造所の移転計画地跡である。
 大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所(香里製造所)を昭和20年の終戦前に交野市の私市に洞窟を掘り移転する計画があった。
 枚方製造所は、100万uを超える広大な敷地に9つの工場が建ち、1万人の工員が砲弾の製造をしていた。香里製造所は日本有数の火薬製造所で枚方製造所で造った砲弾に火薬がつめられ戦争地へ向かった。
その輸送には、片町線の星田駅からの引込み線が使用された。(星田に残る、「陸軍用地」の石標)
 移転計画地の面積は2610uでその内完成したのが652u、長さ138m、洞窟5ヵ所、坑木による簡単なもの。立木は終戦時に撤去して現在は3ヵ所の洞窟が残っている。
 今回、3号隋道(奥行き45.3m、総延長73.5m、床面積約147u)及び、他2ヵ所の洞窟も確認した。
なお、
市内に残る戦跡は星田に「陸軍用地」の石標と「中村少尉の鎮魂碑」の戦争の貴重な遣産がある。

 再び、168号線を南に進むに従って、道路沿いの溝、空き地などに無数の空き缶、ごみなどが捨てられ無残。大阪のドライバーのモラルが問われる。
 かって、この天の川には4っの水車があったそうである。現在の磐船橋と背並橋の間の旧道の袂と鮎返しの滝の下にあった。米や麦つきや漬物に使用する黄粉や染料をはたいたり、エボナイトを生産していた。現在は、府民の森の森林鉄道風歩道橋の袂に、1台復元されている。
 天孫降臨伝説の「哮ヶ峰」の下、クライミングウォールの広場で昼食を摂る。鮎返しの滝、7mの一枚岩から水が流れ落ち滝となる
 名勝磐船峡の標石の手前を右折し天の川を渡り、平田さんのお知り合いの民家の裏手の「鮎返しの滝」へと向かった。大きな岩(7mほどの一枚岩)の上から水が滝となって流れ落ち、滝壷は深く、ゴロゴロと転がった沢山の大きな石の間を川下へと流れていく。当日は水量は少なく迫力は今ひとつだったが・・・。素晴らしい眺めである。平田さんから詳しくご説明を受ける。
 昔、この滝つぼに獅子窟寺賓頭盧尊(びんずる)さん吊るして雨乞いをしたという。
 また一転して、天の川の上流で大雨が降ったときには、滝つぼから水があふれて川一杯に洪水となり、直ぐ下手の民家は床下浸水したり、磐船街道が崩れて通行不通になることが度々あった。その為、磐船神社の南側で天野川を堰止めして遊水池とダムトンネル工事が進められ昨年完成した。
 今は、残念ながら名勝磐船峡には、入る事が出来ない。昔あった、鮎返しの滝の上を通っていた磐船街道も崩れ落ち通行出来ない。
 毎年、交野市古文化同好会の方々は、この滝の下に流れ着いた沢山のゴミを掃除されているそうである。相当なゴミの量で大変な作業だと聞く。
 鮎が引き返したと言う、この名勝を是非とも昔の面影が窺えるように蘇らせて欲しいものである。

 168号線に出ると、左手に梅ノ木と燈篭がある。9月15日の石清水八幡宮の放生会に必ず持っていく梅の枝である。すぐ、右に「名勝 磐船峡」の石標がある。
 右に急カーブして磐船トンネルを抜け、皚酵橋(いかるがばし)を渡り、磐船神社へと向かう。
 旧磐船街道から鳥居をくぐり境内に入ると、右手にご神体の巨石があり、その東側に、南面した大岩に四社明神が彫られている。よく見ると、四社明神の彫られた大岩には、半円形に溝が彫られており、川の中の下の大岩には柱の跡らしい掘り込みが見える。昔、四社明神からこの大石まで屋形が突き出ていて、ここからご神体の巨石と四社明神を拝んだものだという。
 西側の大石に、幅90cm、低部奥行き55cmの切り込みの面があり、そこに仏高1m23cmの不動明王が刻まれている。戦国時代(450年前)に彫られたもので、今は全身緑色に苔むして鎮座されている。
 磐船神社で初詣を済ませ、焚火の前で再び全員で記念撮影。おじいさんの古時計
 おじいさんの古時計で、ホットコーヒーを飲みながら、大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話がある、この磐船の地を訪れ古代の人々の暮らしに思いを馳せ、次から次へと話が弾み、新年早々から「ふるさとの歴史」を訪ねる幸せを味わった。
 帰りは、哮ヶ峰からほしだ園地ハイキングコースを一路私市駅まで、午後3時ごろ解散。
 平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

 ※ 鮎返しの滝と賓頭盧尊(びんずる)さん賓頭盧尊(びんずる)さん
 磐船神杜から北に下った所に鮎返しの瀧がある。昔は、若鮎がここから引き返したという。雨乞いの時は、獅子窟寺の賓頭盧尊さんの顔に白粉を塗って、この滝の滝つぼに吊り下けたといわれている。いつも赤い顔をしている賓頭盧尊が、百姓たちから顔におしろいを塗られて、日照り続きで水のない滝つぼへ下ろされる。
 こうしておけば、賓頭盧尊さんは、「わしは元来いつも赤い顔をしている事をお釈迦さんに許されている。それがこんな白い顔になって恥ずかしくてたまらない。といって、この顔の白粉を洗い落とそうとしても滝の水は日照りのために落ちていない。よし!一つ大雨を降らして滝に水を落として顔の白い粉を洗い落としてやろう」と考えるにちがいない、と思いついたのである。
 昔の百姓は、水を得るためにはどんなことでもしかねなかったので、雨が降るとなると仏様でも滝つぼへ吊り下げたのかもしれない。

 磐船神社
交野の名所、磐船神社のホームページへどうぞ!!!
すばらしい岩窟拝観ができます。どうぞお参り下さい。

 磐船神社のご神体は巨石である。
大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話がある。大昔の人はこの舟の舳先のように見える巨石にどれだけの神秘さを感じたことだろう。
この巨石の東側の岩に「四社明神」が彫られている。幅2.20m、高さ1.05mの彫り込み内に、線刻の光背を背にして、右から地蔵菩薩・阿弥陀如来・十一面観音・勢至菩薩が並んで蓮華の座に座している。これらの石仏は鎌倉時代の末の作と言われている。
 四社明神の南(川の中)の大石に柱の跡が見られる。昔、四社明神からこの大石まで屋形が突き出ていて、ここからご神体の巨石と四社明神を拝んだものと思われる。今は対岸に高い石垣ができて、川の中には降りられない。

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