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よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
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平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  
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瓦版 2008年 9月号 バックナンバー
225 9/30 =宝筐印塔(ほうきょういんとう)=
224 9/29 =層 塔(そうとう)=
223 9/27 =地名シリーズ:船戸(ふなと)=
222 9/26 =里の秋(初秋編)=
221 9/24 =お彼岸=
220 9/22 =伝説:郡津=
219 9/20 =イチロー8年連続200安打=
218 9/19 =北京08 パラリンピック閉幕=
217 9/18 =古事記作成における阿礼の役割=
216 9/17 =他にあって、交野にないもの:銅鐸(どうたく)=
215 9/16 =他にあって、交野にないもの:土偶(どぐう)=
214 9/13 =交野の風景から= 第二京阪国道建設用地より交野山を望む
213 9/12 =交野の風景から= 一本の木
212 9/11 =清水谷古墳は地下横穴式壙?=
211 9/10 =横穴式石室=
210 9/9 =宝筐印塔(ほうきょういんとう)=
209 9/8 =放生会(その2)=
208 9/6 =放生会(その1)=
207 9/5 =愛宕信仰=
206 9/4 =名字の種類はどれくらいあるの?=
205 9/3 =今日の一言より=
204 9/2 =せん仏(せんぶつ)=
203 9/1 =シンポジューム「交野の戦跡を語る」(補足編)=


2008.9.30 発行(225)

=宝筐印塔(ほうきょういんとう)=
 宝筐印塔は唐の沙門不空三蔵(中国の密教を大成させた僧)の訳による「一切如来心秘密全身舎利宝筐印陀羅尼経」の教えの中から出た名称で、同経の説くところによると「若し人この経を書写して塔中に置かば、この塔は一切如来の金剛蔵の卒塔婆となり、また一切如来陀羅尼秘密加持の卒塔婆とならん」、そして「この塔に一香一華を供え礼拝供養すれば八十億劫生死重罪が一時に消滅し、生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれかわる・・・」といった功徳が説かれている。
宝筐印塔はこのような趣旨から造られたものであり、わが国にもたらされたのは、釈道喜の「宝筐印経記」によると、応和元年(961)に九州に赴いたとき一基の銅塔を示された、それは中国の呉越王銭弘俶がインドの阿育王が作った舎利塔の故事にならって塔内に宝筐印陀羅尼経を納め、八万四千個の金銅塔を諸国に頒布させたものであり、弘俶の行為に感嘆し、塔中の経の正本を苦心して求め、その功徳を広めた、と記されている。
名称の起こりも宝筐印陀羅尼経によることは明らかであるが、実際に石造物の塔が造られる鎌倉時代までは、銅塔・金泥塔・籾(もみ)塔などと呼ばれ、宝筐印塔の名は鎌倉時代以後のことである。
なお籾塔とは木製の小型(九寸くらい)の塔で、内部に宝筐印陀羅尼の摺本をもって一粒の籾をくるんで入れたことにちなんでいる。
平安時代の日記「兵範記」には、「仁平(ニンヒョウ)三年(1153)閏十二月十八日に五寸の塔婆を作って、その中に羅尼経各一巻を納めた」と見え、初期のものは経典供養の目的をもった本来的な宝筐印塔として作られていたようである。
構造的には基礎・塔身・笠・相輪の四つの部分から成り、平面的には相輪を除いてすべて四角である。基礎部分は関東型と関西型で異なる特色を示している。関東型は関西型より遅れて発生する。

 

=編集後記=
 市内石造物の再調査もしなければなりません。
中々出来ない・・・まだまだ調査項目、箇所は沢山あります。いろんな人が石造物の調査に加わって下さって、次々教えていただいています。ありがたいことです。   =了=



2008.9.29 発行(224)

=層 塔(そうとう)=

木造建築の五重塔は有名であるが、この種の石造物を層塔と呼んでいる。

石造物の中でも起源が古く、奈良・平安より鎌倉・南北朝時代、さらに江戸期を経て今日に至るまで造られている。


古いものは地域的に西日本に集中しており、東日本には鎌倉市を除き概して少ない。塔は元来、伽藍配置の中心として造立されるものであるが、わが国では石造の層塔でその役割りを果たしたものは見られず、むしろ供養塔として、伽藍配置とは別なところに建てられてきた。


屋根(笠)の層数により、三重・五重・七重・九重・十三重塔と呼ばれ、すべて無限にひろがる意味を持つ奇数の層で形づくられている。

平面は四角が一般的で、基礎は表面で低いものを古式とする。また鎌倉中期ごろから格狭間(こうざま)を表すものが生じる。塔身には主尊を意味する四方仏を、容像または種子で表す。

種子は薬研彫りで彫られ、スペースいっぱいに彫られているものほど古い型を示している。


塔身に表す仏の配置は、東方のウーン(阿しゅく)からはじまり、西方タラーク(宝生)、南方キリ―ク(弥陀)、北方アク(不空成就)を置く、金剛界四仏が一般的である。




  
 
=編集後記=
 石造仏から像容を見ることは困難である。
東の薬師、西の阿弥陀、南の釈迦、北の弥勒を配置するのもある。
素晴らしい層塔ですね。長宝寺跡から、ここ明遍寺に移されたとある。
                                 =了=




2008.9.27 発行(223)

=地名シリーズ:船戸(ふなと)=


「古事記の最初の方に、イザナギが黄泉(よみ)の国から逃げ帰ってくるクダリがある」イザナミに追っかけられて。で、黄泉の国の穢れを落とそうと、禊(みそぎ)をする。そのとき、イザナギは持っていた杖をほうり投げる。

その杖がツキタツフナド神になったんだろう。それそれ・・・。
<ふなど>が、一番古い男性器の呼称じゃないかと。
頭にツキタツがあるから、勃起したCHINKOか。静脈の浮上がった。
<ふなど>は、やがて、【くなど】にもなる。
それで、どう解釈すりゃいいんだ。<と>は、性器を表している。
ふなは塞ぐとするのが一般的だ。
確かにCHINKOは穴を塞ぐもんな。
それじゃ、くなは?
古語のくなはつなぐ意味がある。

もう一つは、<来るな>、つまり悪霊は来るなってことになり、道祖神信仰と結びついていく。集落の入口にぶっ立てて、悪霊の侵入を塞ぐ。
ここ、森の船戸の通りを地蔵筋とも言う。ここにあった地蔵さんは現在、須弥寺の地蔵堂におられる。

   



2008.9.26 発行(222)

 =里の秋(初秋編)=
 山田の中の一本足の「かかし」じゃなしに里のかかし、一本足に変わりがないが最近のファションもイキなもの。朝の散歩で出会いました。
 
 

 

      
       「彼岸花」私部官田・後方に交野第一中学校やドームが

=編集後記=
 「かかし」も民俗博物館に行かなければ見られなくなるかも知れません。
時代とともに姿・形が変わってきました。そして自然に咲く彼岸花の場所もだんだん姿を消していっています。
初秋から晩秋かけての「交野の里」を追って行きたい。今のうちに残しておきたい。
                               =了=



2008.9.24 発行(221)

=お彼岸=
 彼岸というのは普通「川向こうの岸」、苦しみと迷いの此岸(しがん)に対する理想の、さとりの世界ということです。
最も日の短い(昼間の長い)時に日の沈む位置が、共に西だとするなら西とはなんと横幅のあるものだろうと妙な感心をしなければなりません。
と同時に西の北限(最も日の長い日に太陽が沈む位置)と南限は毎年同じ位置であることも分かります。
その恰度中心に日の沈む日は、だから昼間と夜とが同じであり、ここがまん中、真西であるわけです。
かたよらない日、まん中の日、過不足のない日、それが一年に二度あります。

 

古文に出てくる二仲です。
日本の浄土宗でも宗祖法然上人とあわせ、高祖と呼んでいる中国の善導大師(613−681)が有名な「観無量寿経疏」の定善義(じょうぜんぎ)の中で「・・・衆生をして境を織りて心を住せしめんと欲し、方を指すこと在ることあり。冬夏の両時を取らず、唯だ春秋二際のみを取る。その日正東より出でて直に西に没すればなり。阿弥の仏国は日に没する処に当たり、直に西に十万億刹を超過す・・・」と述べておられます。
春秋の二際、正東より出て直に西に没する日、その真西こそ阿弥陀如来の仏国、極楽浄土の存するところと観想させた善導大師の教えは日本の浄土教にそのまま入っているはずです。東の薬師、西の阿弥陀という、東西両仏の信仰がこの日を強く意識しない筈がない。
本来彼岸ということばは、迷いの世界から出発して悟りの世界、理想の境地へ、生死の苦海を越えた悟りの岸という意味の言葉である。
あの善導大師は、西の救済主である阿弥陀の浄土に向かうには煩悩の渦巻く河を、ひたすら観想し念仏してまっすぐに進み渡ることを教えました。
「めざす向こう岸」それこそが彼岸であるのです。
従って、彼岸へ達するということは、人間の最終目標だということです。
彼岸へ到達できれば、だからそれはもう立派な如来なのです。
人々はこの日を中心に前三日、後三日、計七日間も今も「お彼岸」と呼んで、この間に祖先供養やお墓まいりをし、それを受けて寺院でも「彼岸会」と称する法会をするのです。
この時に、出発点の後にある無限の、絶対の過去世の教主、娑婆の苦悩を克服して進むための薬を用意して与え、遺送してくれる東の薬師如来に感謝し、薬の授与を願い、一方はるかな極楽浄土で常に説法しながら、この国を心から求め憧れて精進し、祈願する衆生をその楽土の岸へ迎え入れてくれる西の教主阿弥陀如来に来迎を祈る法会をするのです。
なんと! 理にかなった法会であり、行事であることかと感じ入るばかりです。

=編集後記=
 観音岩と交野ドームと沈む夕日が一直線(真西)夕方より登り、撮影に挑戦、それは
感動の一瞬であった。
街に明かりが灯り、わが町の百万ドルの夜景に酔いしれた。
気がつけば、当然あたりは真っ黒、急な坂道を手探りの状態で下った。
以前、川に転落、第一腰椎の圧迫骨折にあい、家族や回りの人に心配かけたのに。携帯電話も持たず(忘れて出た)下山後、麓の公衆電話より連絡、一件落着。
次ページで夜景を紹介しています。                    =了=


2008.9.22 発行(220)

 =伝説:郡津=

ものきき
 
北川の出鼻橋から南に高野道を進むと左に「しぶり山」(交野女子学院)があり、しばらく行くと右に「ささの山」左前に北尾の集落の建つ梅塚の台地に達する。

この梅塚の台地に上がるために道は切り通し状になっていて、道の両側が崖になっている。
昔はこの崖や崖上に大きな松が茂っていて薄暗くなっていた。

郡津の人々が何か心配ごとや悩みごとが起こったら、朝早くこの松の木に潜み高野街道を、朝一番に通る旅人の会話の中から解決する言葉を聞き取ったという。そのようなことから、このがけ道を「ものきき」と呼んでいる。




茶屋の清水

 昔、ある日のこと、茶屋に見すぼらしい旅の僧が来て水を一杯ほしいと所望したが、誰も水をすすめる者がなかった。ところが上茶屋で水を汲んで差し出す人がいた。
その僧は弘法大師で、そのお礼に清水の湧き出る場所を教えたという。

                            
蚊封じの池

 上茶屋から南に下ると、明遍寺の北から郡津駅に通じる道と交差する。
この交差点を北から南に越した東側が「蚊封じの池」だという。
昔、弘法大師がここでお休みなった時「蚊が地面から三尺のところまで来るな」とお祈りをされた。以来ここには蚊が来なくなったという。

丸山古墳

 平尾兵吾著「北河内史蹟史話」に、「大字郡津字福田に梅塚、本塚二つの塚がある、(中略)又字大塚にも同名の古墳が廣さ三十坪ばかりある、里人、弘文天皇の御陵などとして
今は極楽寺の所有に属している」とある。
東村野から西方を見ると、北川の南の藪の下の水田、さらに南に藪をひかえて郡津の台地がある。西の山崎、その東に大塚、高野道を越して梅塚があったというが、墳丘が健康であったころの眺めは雄大であったであろう。
                            交野市史「民俗編」より

 

 =編集後記=
 引き続き各地の伝説、楽しい地名などをご案内いたします。    =了=


2008.9.20 発行(219)

=イチロー8年連続200安打=
 
 
  
 

=編集後記=
 米大リーグ、マリナーズのイチロー(本名・鈴木一朗)外野手(34)は17日、カンザスシティーで行われたロイヤルズ戦の8回にこの試合3安打目となる遊撃への内野安打を放ち、8年連続200安打を達成した。イチローは2004年には262安打をマーク大リーグの年間最多安打記録を84年ぶりに更新している。これで日米通算3070安打となった。   
    2008.9.18よみうり(夕)掲載より        =了=



2008.9.19 発行(218)

 =北京08 パラリンピック閉幕=
 史上最多の147の国・地域から約6500人の選手、役員が参加した北京パラリンピックは17日夜、閉会式が行われ、12日間の熱戦に幕を下ろした。
今大会、日本勢のメダルは金5個、銀14個、銅8個の計27個。アテネの52個から半減した。

 
   
閉会式のパフォーマンスのテーマは「未来への手紙」。約2000人のダンサーが紅葉や収穫をイメージして踊った後、閉会式に続いて中国障害者芸術団、盲目の団員が笛を独奏し、パラリンピック旗が北京市長からロンドン市長に渡された。
芸術団の千手観音を演じる中、式典はフィナーレに。
聖火が消えると、無数の花火が打ち上げられ、夜空を焦がした。
             よみうり新聞 2008.9.18(朝)掲載文より

 

 

 印象的な光景がある。昨年10月、取材に訪れた工場で、車イスに座って作業服姿の笹原広樹が黙々と機械部品を組み立てていた。前日の車いすマラソン大会で転倒、腕にケガをしていたが、何事もなかったように朝から作業に励んでいた。17日のマラソンで、先行する選手を抜き、トップを追う笹原の姿から感じたのは悲壮感ではなく、たくましさだ。
車いすバスケットボールの香西宏昭からは、幼いころに友達と特別ルールを作って、車いすで野球やサッカーをして遊んだという話を聞いた。
私たちは障害者には、できないことが多いと思いすぎていないだろうか。障害を抱えても工夫を重ねて限界に迫っていく選手たちの姿勢は、健常者に勝るとも劣らない。
視覚障害者の競泳で棒で頭をたたいてターンのタイミングを知らせるタッパー、ロープで手と手をつないでマラソンを一緒に走るガイドランナー、脳性まひなどの競技ボッチャで球を転がすのを助ける介助者・・・。パラリンピックの会場で健常者は欠かせないが、主役ではない。彼らを輝かせるために、会場の外でもタッパーとして手を差し伸べたいと思う。(近藤幹夫)
=編集後記=
この言葉に心を打たれました。「もうこれ以上できない、と思ったことが何度もあった。
でも今はこう思える。人生の悲劇とは、障害で自分の目標が達成できなくなることではない。悲劇は、目指す目標を持てなくなることなのだ」      =了=


2008.9.18 発行(217)

 =古事記作成における阿礼の役割=
 『古事記』作成にかかわった稗田阿礼の存在は、口承による文化の相伝が日本において広範に存在し、それが政治的にも重要な意味を一面でもっていたことと無縁でない。
阿礼が出た稗田氏は、朝廷での鎮魂の儀礼に楽舞を奉仕する女性の猿女(さるめ)を貢上した氏族である猿女君(公)氏の一族と考えられ、奈良県大和郡山市稗田が本貫地かともいわれている。

  

阿礼は『古事記』序文によれば、「人と為り聡明くて、目に度(わた)り口に誦(よ)み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す」と記される才能をもっており、天武天皇の抜擢によって『古事記』作成に加わったものとみられる。
ところが、『日本書紀』天武10年(681)三月丙戌(17日)条は、川嶋皇子・忍壁王子らの12人に「帝記及上古諸事を記し定めしめたまふ。(中臣連)大嶋・(平群首)子首、親(みずから)筆を執りて以て録す」とあり、稗田阿礼(ひえだあれい)の名が見えない。
阿礼の身分が低かったからとも解釈されているが、その果した役割は大きいものがあった。
そのことは、『古事記』作成の経緯を記した序文によってみると明瞭である。
すなわち、天武10年前後頃、天武天皇は緒家のもっている「帝記及本辞」が真実と異なり虚偽を加えているものが多く、このままでは何年もしないうちにその主旨が滅んでしまうと考えて、それらを比較検討し、正しい「帝皇日継及先代旧辞」を当時28歳の「舎人(とねり)」であった稗田阿礼に「誦習(よみならわ)」せたが、天武天皇が死去したため、この事業は中途で終わった。
その後、元明天皇が事業を引き継ぎ、和銅5年(712)正月28日に完成させたのである。
阿礼58歳のときである。
  
  
    
稗田環濠
昭和50年10月2日 市指定文化財(史跡)
 稗田環濠は全国的にも有名な環濠のひとつです。稗田の集落と環濠がいつごろつくられたのかははっきりしていません。稗田集落の存在を示す最も古い資料は「経覚私要抄」の文安元年(1444)の記事で古市胤仙が稗田の陣を敷いたという記事です。
この後、「大乗院雑事記」の文明11年(1479)、文明14年の記事には稗田が筒井氏の攻撃によって焼かれたことがでています。戦国時代には城砦的な役割をはたしていたと考えられています。その後、現在にいたるまで環濠や集落内の道や敷地割りが残されてきました。集落内には、稗田阿礼を祭る式内社である売太神社があります。
                   平成5年10月 大和郡山市

=編集後記=
「古事記」編纂者、稗田阿礼が語り伝えた「帝記」、「旧辞」を、太安万侶がまとめる。
712年全3巻 、収録は天地開闢(てんちかいびゃく)〜推古天皇  =了=


2008.9.17 発行(216)

 =他にあって、交野にないもの:銅鐸(どうたく)=
青銅器は祭りのための道具として発達したのか?
祭りのための道具、あるいは、支配者や強い権力をもつ人が、力を誇示するための道具は、いつの世にもある。それは弥生時代や古墳時代にもあった。
弥生時代に日本でつくられた青銅器の多くは、輸入品をまねてつくられていた。
剣・矛(ほこ)・戈(か)・鏡などは、どれも実用的な目的のために、あるいは本来の目的のために使用されたのではなく、祭りのための道具として使用されたのである。
こうした青銅器は、最初のうちこそ、もとになる輸入品のかたちを忠実にまねてはいるが、時代が下がるにつれ、どんどん実用性を失い、実用を無視したおおげさな形のものになっていった。剣などは幅や長さが極端に大きくなり、厚さはかえって薄くなり、そのかたちはもはや実用とは縁のないものになってしまった。
弥生時代の祭りのための道具といえば、銅鐸を忘れてはならない。
銅鐸は祭りのための道具としてつくられた、国産の青銅器で、最初は音を出すことが目的でつくられたものだ。古い銅鐸には釣り鐘のようにつるすための、太くしっかりした鈕(ちゅう)がついていて、つるして鳴らすのにむいていた。
ところが時代が下がるにつれて大形になり、鈕の部分も装飾的になる。もはや、つるして鳴らすことが主な目的ではなく、銅鐸そのものの外観の見事さが大事にされるようなった。
弥生時代の農村共同の祭器であった銅鐸には、農業や狩りのようすや、カメ・トリ・シカ・トンボなどの動物などが描かれたものが少なくない。このような変化は、剣や矛などにも同じように見られ、弥生時代の祭りのための道具の移りかわりの様子をよく示している。

青銅器埋納の特色
@ 見通しの悪い山の斜面
A 見はらしのよい山の斜面
B 集落周辺の開けた場所
青銅器のうめ方には、刃やひれを意図的に立てて埋めている例が多く、地域を越えた共通の決まりごとにしたがってうめられている可能性が。

青銅器はなぜうめられたのか
 弥生時代の祭器であり、また集団が結束するシンボルだったと考えられる青銅器。
それがなぜうめられてしまったのでしょうか。
全国の埋納状況から、地域をこえて共通した方法で、ていねいにうめられていることがわかります。つまり、たんに不要だから捨てたとは考えにくいのです。しかし、その理由はいまだ明らかになっていません。

代表的な説には
・土中保管説= ふだんから土の中で保管しており、そのまま残された。
・隠匿説(いんとく)= 有事の時に奪われたり壊されたりしないよう土中にかくした。
・地鎮説(じちん)= 地の神への捧げものとしてうめた。
・境界説= 邪気や悪霊をはらうため、自分たちの土地の境にうめた。

青銅器は何に使われたのか
 弥生時代が始まった頃、朝鮮半島から青銅器がもたらされ、日本列島でも青銅器が本格的に使われるようになりました。
まもなく弥生時代中期になると列島内でも生産が始まり、日本人の好みにそった青銅器が作られるようになりました。銅剣などの武器形青銅器は実用性を失い、長大な祭器へと変化しました。銅鐸は音色で神を招く「鳴らす銅鐸」から大型で装飾性に富む「見る銅鐸」へと変化していきました。
弥生時代における青銅器の特徴は、実用品から祭器へと形を大きく発達させたことにあります。青銅器は人々にとって大きな心のよりどころとなったのです。

青銅器と弥生社会
 弥生文化の隆盛とともに、大型化し装飾性を増していった青銅祭器。これらは個人の持ち物ではなく、ムラやクニなどの地域集団ごとに、共有の財産として保有されたもの。

=編集後記=
 青銅祭器の形のちがいから、作られた年代がわかり、鐸・剣・戈・矛といった種類のちがいから、交易ルートや青銅器を作った職人の活動エリア、地域間の対立や協力関係などといった弥生社会の実像を探ることができます。交野のどこかの地から青銅器、特に銅鐸の出土が待ち望まれる。                    =了=


2008.9.16 発行(215)

=他にあって、交野にないもの:土偶(どぐう)=
 縄文人は土人形に祈りをこめた。
東日本の縄文時代の遺跡から、土器と同じに、粘土を焼きかためてつくった人形が出土することがある。
これが土偶である。土偶にはふつう、女性を表現したものが多い。おおきな乳房、妊娠の様子を現わしているお腹の大きなもの、子どもを抱いた姿のものなどがある。
しかし、なぜ女性ばかりが土偶のモデルになったのだろう。自然の中で生き抜いた縄文時代の女性は、現代の女性よりもずっとたくましかったであろう。
当時の男性は、そんな女性のたくましさを敬って土偶をつくったのだろうか。しかし、それだけでは土偶のモデルとしては物足りない。
女性のもつ神秘性が大きな要素だったのではないかと思われる。女性は子どもを産むことができる。妊娠・出産についての、生理学の知識のなかった縄文時代には、子どもが産まれるということは大きな驚きであったに違いない。そして、出産の能力を備えた女性も同様に驚異であり、神秘的なものにうつったのだろう。
そのような不思議な力をもった女性、その力を日々の暮らしに役立てたい。毎日が自然との戦いであった縄文人たちにとって、それは当然な願いであった。
明日は獲物がたくさんとれますように・・・、今年は木の実の収穫が十分ありますように。
こういった願いが、女性をモデルにして土偶をつくることに結びついたのだろう。さて、一口に土偶といっても形はさまざまである。女性を表現した土偶、写実的に人体や姿勢を表した土偶、ヒゲをはやした土偶、メガネのようなもの(遮光器・しゃこうき)をかけた土偶、人体らしいが何をどうあらわしたのかわからないような、抽象的なかたちの土偶などいろいろである。


土偶は、縄文時代を通してつくられたが、早期、前期のものは、普通あまり人体の表現がはっきりしないものが多い。
中期以降、表現は次第にうまくなっていき、晩期になると、たいへん精巧な土偶がつくられるようになる。土偶は縄文時代だけでなく、弥生時代にも少ないながら、いくつかが知られている。
 
  

=編集後記=
 縄文草創期後半から土偶と呼ばれる女性小像が発見され、晩期まで系統的に作られていく。その形態が妊婦をあらわしていることから出産に伴う儀礼、あるいはそれらと関連して食料の豊穣を願った祈りのかたちを推定することができる。   =了=


2008.9.13 発行(214)

=交野の風景から= 第二京阪国道建設用地より交野山を望む


  

=編集後記=
 残暑お見舞い申し上げます。朝夕しのぎやすくなったものの、日中はまだまだ暑い日が続いております。
「瓦版:よもやま便り」を読んでいただいている皆様、健康に留意しながら元気にお過ごし下さい。第二京阪国道建設が進む中、わが故郷の風景も大きく変わってまいりました。
今のうちに、残しておかなければならない写真、これからスポットをあてたいと思います。
                        =了=



2008.9.12 発行(213)

=交野の風景から= 一本の木
  
  

=編集後記=
 初秋の竜王山の麓に広がる田園風景、北摂の山並みと交野市内が、そこに1本の木が
素晴らしい光景に満足! これからも「交野の風景から」と題し、紹介し、すこしでも
ふるさとの良さを再発見していただければ幸いです。     =了=


2008.9.11 発行(212)

=清水谷古墳は地下横穴式壙?=
 従来、地下式横穴または地下式壙といわれているものである。
地下式横穴というと、横穴を前提とする名称であるが、これだけでは的確に説明しているとはいえない。また地下式壙といっても、単なる土壙の墓を連想しがちである。
この点、却って地下横穴式壙といった方が、よくその性質をとらえていると思う。
これは、地表面に竪壙を深く掘りさげ、さらにその底から横に羨道をうがち、奥に墓室を設けたものである。遺骸を納めるときは、この竪壙におろし、さらに横に進めて墓室に安置するのである。そして、この竪壙を埋めてしまうので、普通には表面から観察されない。
しかし特殊なものは、盛土を設けて一種の墳丘をなすものもある。
この種の墓は、全国的に広く分布しているものではなく、特に鹿児島県・宮崎県に多い。
 
 

    倉治:清水谷古墳                石室内部 
=編集後記=
 清水谷古墳は、丘陵斜面上肩に掘り、その内部に玄室の奥壁、両側壁を積み上げ、天井石を配置して玄室を完成させ、のち「掘り方」の南面に側壁の延長をつんで羨道をつくっている。羨道には天井石を架けず、傾斜をもつ「掘り方」の底縁に積み石なり板石をもたせかけて通路を塞ぐ形をとるので、羨道は形式的なものである。こうしたタイプの横穴式石室は「竪穴系横穴式石室」とも呼ばれている。被葬者は渡来系氏族?。 =了=



2008.9.10 発行(211)

 =横穴式石室=
 古墳時代、ことにその後期の頃から飛鳥・奈良時代にかけて、高塚の墓が営まれた頃、最も合理的でかつ洗練され、かつ普遍的に発達した遺骸埋葬施設は、横穴式石室であった。
従来の粘土槨・礫槨・木炭槨の類、または竪穴式石室等の施設に比較すると、各段の発達である。古代社会における日本墓制史上の大きい変革を考える場合、@は高塚の墓の出現であり、Aはこの横穴式石室の発達であり、Bは火葬墓の展開である。
横穴式石室は、地平面に、あるいはある程度土を盛り上げて平らにした面に、あるいは地平面をやや掘り下げた上に床面をつくり、側壁・奥壁を石材で構築し、上に大きい天井石をのせて墓室(玄室)をつくり、その前に通路(羨道)を設け、羨門を構成することが普通である。したがって、遺骸はこの羨門から入れ、玄室に安置する。
遺骸を直接納める場合もあり、木棺・石棺に入れるものもある。家形石棺などには、床面にあらかじめこれを据え、石室を構築したものである。
羨門は、扉石で閉ざしたり、石塊を積みこんで閉ざす。横穴式石室は、大陸で早くから発達した。「せん」で構築したものが古く採用され、その後、石材で構築したものが発達した。
日本の横穴式石室の古い形式には、玄室の床面は方形に近く、四壁をせん状の石材で横積みにし、上方にのぼるにしたがって次第に狭くすぼまるものがある。
恐らく、この形式が、大陸のせん室の影響を受けて最初に採り入れられたものであろう。
恐らく5世紀の中葉の頃であろう。
その後、横穴式石室は、いろいろな形式の変化を示しつつ、6世紀には、各地で最も広く採用され、その後にもつづいた。

発達の過程にあって、従来の竪穴式石室の系統をうけついだものもあり、直接、古代朝鮮の帯方郡からの影響を受けて、特殊な地域的な性格をあらわしたとみなされるものなどもあったが、さらに玄室の構造においても、割石や切石で構築し、前室をそなえて複室の構造を示したり、石棚を奥壁から挺出させたり、羨道から玄室への通路の門に石柱をそえたり、構造上複雑なものも現われた。また、羨道も一方に偏したいわゆる片袖式の形式のもの、長いもの、短いもの、玄室も方形や長方形のほかに胴張りのもの、円みを帯びるものなどの各種のものが発達し、これらには、それぞれ地方的な特色を示すものもあった。



他に、壁面全体を赤く塗彩したり、壁面に絵画を施すものもあらわれた。
装飾古墳は、このような横穴式石室に見られるのがほとんどである。
横穴式石室は、特に6世紀以降、日本の古墳の遺骸埋葬施設としての主流を占めたのであったが、この石室が発達した頃、日本人の死に対する考え方にも、変化を示しつつあったのではないかとみなされる。すなわち、死者は、その後も別な世界で生活をつづけるという思想が次第に明確になってきたのであろう。また横穴式石室は、夫婦その他の合葬にも、最も効果的な構造をもっているものであり、この発達は、合葬という葬送儀礼のひとつの風習を合理化させるに関連することが大きかった。
=編集後記=
清水谷古墳は横穴式石室?それとも地下横穴式壙?次号にて     =了=



2008.9.9 発行(210)

=宝筐印塔(ほうきょういんとう)=
宝筐印塔は、本来、宝筐印陀羅尼を納めた塔である。
宝筐印塔といわれているものは、その形式に一つの特色を具えている。
すなわち、基台と塔身と笠と相輪とより成る。
方形の基台の上に方形の塔身をおき、その上に同じく方形の笠をのせる。
笠の上端の四隅には、隅飾りの突起がある。笠の上には相輪をのせる。
奈良・京都を中心とした関西形式と、鎌倉を中心とした関東形式とがあり、関西形式は基台には格狭間(こうはざま)を設け、塔身は周囲に輪廓がなく、関東形式は基台の下に
反花座(そりばな)を設け、塔身には輪廓をつけるという。


  

宝筐印塔は、鎌倉時代から発達し、近世にもつづいて行われたが、特に、鎌倉時代中期の頃から室町時代以前の頃まで最もさかんに造立され、ことに密教系の人々によって造塔信仰と結びついて展開された。
恐らく、五輪塔造立の機運に刺激されたものだろう。そして、次第に墓塔として、あるいは供養塔として発達した。
墓塔の場合、五輪塔と同じく、基壇下に火葬骨を埋葬して、その上に宝筐印塔を立てるもの、宝筐印塔の内部に円孔を設けて、その孔に火葬骨を埋葬するものがある。


  

    =編集後記=
 この塔に一香一華を供え礼拝供養すれば八十億劫生死重罪が一時に消滅し、生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれかわる・・・。といった功徳が説かれている。
                                   =了=


2008.9.8 発行(209)

=放生会(その2)=
石清水八幡宮造営史年表、前号に続き紹介します。










=編集後記=
 何かの参考になれば幸いです。         =了=

2008.9.6 発行(208)

=放生会(その1)=
宇佐八幡宮(神宮)を貞観(じょうがん)元年(859)神託により男山(京都市)に勧請したのが石清水八幡宮だ。
九月十五日(もと八月)の石清水祭は賀茂祭(葵祭)を北祭と呼ぶのに対して南祭と呼ばれ、奈良・春日祭を加えて、三大勅祭の一つ。
古くは八幡放生会といい、宇佐八幡で始められた放生会(供養のため捕らえた生き物、鳥、魚などを放してやる儀式)を行うので有名(現在は中秋祭として行う)。放生会はもともと仏教の殺生戎に基づき、天武天皇(第四十代・奈良時代前期)の布令も出ている。
放生会は石清水八幡や鎌倉の鶴岡をはじめ、各地の八幡社で行われた(神仏混交時代の神事)。

 

 
 

 
 

=編集後記=
 この資料は先日行われた神人出勤届並びに打合せ会(講演:「正遷座祭について」)に於いて頂いたものを掲載致しました。あと3枚あり、次号にて紹介いたします。

=了=


2008.9.5 発行(207)

=愛宕信仰=
主として火伏せの神(鎮火神)として愛宕社に寄せる信仰。
愛宕の名は、その祭神迦具土(かぐつち)が、生まれるにあたって母伊弉冉尊(いざなみのみこと)を焼き死なしめた仇子であったことにちなむと俗説されているが、むしろ
もとは側面・背面を意味するアテに由来し、その神は境を守る神であったのではないかともいわれ、京都では王城鎮護のためにその西北の山上にまつられたものと考えられる。中世、仏教との習合によって多くの修験者がこの山に住んだところから、その祭神は愛宕権現太郎坊と呼ばれて、天狗と考えられるようになり、輩下に多数の部類眷属を率いるものとして大いに畏怖された。他方その本地仏は勝軍地像と名づけられて、これを尊崇するものは必ず軍陣の勝利を得るといわれ、戦国武将の間にその信仰が広まった。特に徳川家康は関ヶ原の戦に勝軍法を修して勝利を得たところから、慶長八年(1603)芝桜田山の丘陵に愛宕権現を勧請して社殿を営んだ。また最上氏も愛宕への崇敬厚く、東北地方には愛宕社が諸方に勧請されている。近世、一般庶民の間では竈神としてこれを台所にまつるものが多くその崇敬者たちは講を組織して代参月詣を行い、護符と櫁を持ちかえって火災から免れることを願った。また毎年六月二十四日(今、七月三十一日)の夜は千日詣と称し、その日参詣すれば千日の参詣と等しい功徳があると伝えられる。

  

=編集後記=
 市内、各所に伏拝みがある。
昔、交通の便もないころ現地にお参りに行くことができないので、この場所で伏してお願いしたところ。
寺の入口には柳谷・二月堂・愛宕さんの伏拝みが今も信仰されています。
   =了=



2008.9.4 発行(206)

=名字の種類はどれくらいあるの?=
日本人の姓はおよそ10万種あると言われています。
これほど多様な姓を持つ国民というのも珍しいようですね♪  
これは明治3年に名字を名乗ることが許されたため各自が勝手に名字を創作した結果です(名字を持ってなかった人達)。
当時の村役場は、この名付け作業で大変な騒動になったそうです。
中にはとんでもない名前をつける人がいて、
「言語同断」と書いて「てくら・てくらだ」。
「海千山千」で「ふるて」。
「百千万億」で「つもい・つもる」。
「谷谷谷谷」で「たにかべやつや」などなど...もっとひどいのになると「牛糞」「阿呆」「金玉」などいずれも実在します。
 名字ですが、こうした名字の人の中には耐えられなくて、家庭裁判所に訴えて改姓した例も多々あります。
でもちょっとうらやましくなるような名字もあるんですよ♪
「満足」「世界」「幸福」「先生」「正月」など先生さんが医者や学校の先生になったら「先生先生」と呼ぶのかな???

   
新しい地名が生まれるかも?そして新しい名字も

------- 日本全国の名字ランキング TOP30♪ --------
   (1位)佐藤   (2位)鈴木   (3位)高橋
   (4位)田中   (5位)渡辺   (6位)伊藤
   (7位)山本   (8位)中村   (9位)小林
   (10位)加藤   (11位)吉田   (12位)山田
   (13位)佐々木  (14位)斎藤   (15位)山口
   (16位)松本   (17位)井上   (18位)木村
   (19位)林    (20位)清水   (21位)山崎
   (22位)池田   (23位)阿部   (24位)橋本
   (25位)山下   (26位)森    (27位)石川
   (28位)中島   (29位)前田   (30位)小川
  
=編集後記=
 私の名字は平田・・・平な田圃の近くに住んでいたのかなぁ・・・?  
 平田は、ランキング 120位です。     =了=



2008.9.3  発行(205)

=今日の一言より=
 考えるよりもさきに 
     確かめられることを
        確かため方が良い。

ああだこうだと考えていることが、何の足しにもなっていなかった、と気づかされることがある。
考えていないで、尋ねればよかった、悩んでいないで、確かめればよかった、迷っていないで、問い合わせればよかった…
そんなことが、妄想癖のある人間には、少なくない。
なぜ、確かめないのか。
それは、知るべきことがもっとあると思っていない場合と、真実を知ることがちょっと怖いという場合もあるように思う。
前者は、視野が小さいのが原因で、後者は、勇気が小さいのが原因だ。
いずれにしろ、小さい自分から脱皮しなくちゃいけない。
複雑に考えるよりも、簡単に確かめることがないか、見つけ出してみよう。

  
=編集後記=
 先日No204号に掲載した、せん仏と同タイプ、
奈良県・橘寺より出土した火頭形如来せん仏です。
        =了=


2008.9.2 発行(204)

 =せん仏(せんぶつ)=
 表面に仏・菩薩像などを浮き出させた土製の仏像で、古代寺院跡から多数出土する。甎仏または磚仏とも書く。
その製作法は、粘土で造った凹型の原型に精土をおしあて、原型通りの仏・菩薩像を浮き出させ、乾燥した後、素焼きにし、最後に彩色や金・銀箔をおいて仕上げをする。
磚仏は中国の北魏時代から遺品があり、隋・唐時代にも盛んに製作された。
わが国では、白鳳時代前期の遺品が最も古く、川原寺跡出土の三尊せん仏や橘寺出土の倚像の如来を中尊としたせん仏などが古い。
その他にも、奈良県山田寺・当麻寺・石光寺・南法華寺(壺坂寺)などから多数のせん仏が出土している。これらは堂の壁面にはりつけて堂内装飾としたものや仏壇の腰ばりに使用したものと考えられる。
法隆寺大宝蔵殿にあるせん仏は、厨子にいれ礼拝していたと考えられるもので数少ない伝世のせん仏として貴重である。

 

=編集後記=
 わが国では上代寺院の壁画に使用されたから、ふつう幾枚も群をなして出土する。滝が広からは1個だけが埋葬骨の付近に出たというから、おそらく建築用に使われたものではないか?火頭形のせん仏で製作年代は白鳳時代。
                            =了=



2008.9.1 発行(203)

=シンポジューム「交野の戦跡を語る」(補足編)=
宣戦の詔書(せんせんのしょうしょ)
 天皇大権の発動としての宣戦布告に伴って渙発された宣戦の詔勅・詔書には、日清・日露戦争の宣戦詔勅と第一次世界大戦・太平洋戦争の宣戦詔勅(正しくは宣戦詔書)がある。

 
             
千人針(せんにんばり)
 日中戦争初期に行われた風俗で、出征者に贈って弾丸除けの呪具とした。
白木綿の腹巻に千人の男女に依頼して赤糸で一針ずつ縫い止め、これに社寺の守札を縫い籠め、または五銭白銅貨を付し「四銭(死線)を越える」と語呂合わせするなど、いくつか類型があった。多数の念力を合わせ共同体内の個人の危難に対抗する民俗的呪法が国家的事象に応用された一例で、第二次世界大戦に入って物資不足から衰退した。

 
=編集後記=                  千人針
 次回の「戦跡を語る」参考資料として書きとめておきました。    =了= 
  


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