大工さんの雑学講座 U
Ohgu's Zatugaku
阪神タイガース大好きの奈良市の大工(おおぐ)さん
2004年元旦より、(^。^)村ちゃんが登場しました

index 2004.1.1〜1.31 2003.12.1〜12.27 2003.11.4〜11.30 2003.8.11〜11.03
2004.2.28  京都府に鳥インフルエンザ発生、業者一週間届け出ず

今朝は冷えました。ここで気温は−0.5℃でした。空はよく晴れて、カラーベストの屋根にはうすい霜が認められました。これで平年並でしょうが、兎に角、気温の高い日、低い日と目まぐるしく変わる近年の気象は異常に感じています。

異常といえば、この冬中国や東南アジアからアメリカまで広がっている高病原性鳥インフルエンザです。私はこの歳まで聞いたことは無かったのですが、日本でも山口県や大分県で発生していました。
ところが突然京都府丹波町でこの鳥の病気が発生し、しかも連日1000羽、2000羽単位で死んでいたというのです。20日以降合計で約2万8000羽が死んだそうです。この間生きた鳥や卵が神戸や愛知県の業者に出荷されていたと言うから驚きです。
養鶏場経営者の無知か怠慢かは知りませんが、行政共々責任は重大です。
地元関西でのこの事態は、生卵の好きな私にとって正に一大事です。

昨日のオウム真理教々祖松本智津夫の判決公判の主文は午後3時15分ごろ言い渡されました。私が興味を持っていたのは、松本被告がその時どの様な態度をとるかでした。案の定裁判長の指示にも、ふて腐れ起立を拒み、看守に両脇を引きずられて陳述台に立たされたということです。以前からこの男の卑劣な態度にイライラしていた私は、あァ、やっぱりなァ、と寧ろ哀れになりました。裁判長の『悪質極まりない空想虚言に基ずいて、多数の生命を奪った犯罪は愚かであさましく、極限の非難に値する』との認定は極めて妥当です。
勿論『死刑』でした。死刑は当然の事と思いますが、国選の弁護団は控訴して辞任しました。私の憤懣は「こんな男を何故控訴しなければいけないのか」ということです。既に弁護費用に多額の国費を使っています。まだ使うの?と言いたいですね。

北京での北朝鮮の核開発問題をめぐる6カ国協議は、表面あまりはっきりした動きは無いままに昨日も過ぎたようです。しかし、協議の枠組みを維持し、共同文書に作業部会の設置を盛り込む方向で最終調整に入るようです。
今朝の新聞(毎日)は「松本被告に死刑」と大きく取り上げ、6カ国協議のことは見当たりません。なお、asahi.comに「高濃縮ウラン、北朝鮮が保有示唆」とし、北朝鮮代表団が一部の協議参加国に高濃縮ウランをどう廃棄するかについて協議を持ちかけ、その事実が米国にも伝わっていたと伝えています。
北朝鮮は今まで、高濃縮ウラン計画は無いと言っていたのですから、多少の動きが出て来ているようにも思えます。

明日、メール休みます。また、来週私の憤懣聞いてください。お休み。

(^。^)村ちゃん、京都府丹波町の鳥インフルエンザ発生には、本当に驚きですね。それも何と、1週間もの間届出もせず、鶏肉や卵を業者に卸していたなんて信じられませんね。これだけ世界で、いやアジアで騒いでいるのに何とした事でしょう。行政もただ単なる聞き取り調査ではなく、最っとしっかりとやってもらわなくてはなりません。もう、恐らくこの業者からは誰も信用して買わなくなるでしょう。
大工さんの言われる、私の憤懣は「こんな男(オウム真理教々祖松本智津夫)を何故控訴しなければいけないのか」ということです。既に弁護費用に多額の国費を使っています。まだ使うの?と言いたいですね。
まったく、その通りですね。何年裁判やればいいのと、言いたいですね。全く卑劣な何もしゃべらない被告を何故、ここまで引っ張るの?納得がいきません。

2004.2.27   オウム真理教の教祖松本智津夫の裁判が
          やっと判決を迎えました

今朝は少し寒さが戻ったようですが、東大寺二月堂のお水取りの法会(修二会=しゅにえ)も近ずき、空の色も明るく、寛いだ気持ちを感じます。私方の狭い庭にも春のさきがけで「サンシュウ」の枝に黄色い花芽がついています。

今日は、”逮捕から9年”、長かったオウム真理教教祖麻原彰晃こと松本智津夫被告に判決が言い渡されます。10時開廷で、麻原の出廷時の様子や、判決の言い渡しの模様を(記者が次々入代り)テレビが伝えますので、先ほどまでテレビの前に居ましたが、主文(判決)は最後になるようなので、二階へ上がってきました。いずれ『死刑』でしょうが、その時彼はどの様な態度をとるか、興味を持っています。

6カ国協議は二日目の昨日も、何か釈然としません。北朝鮮の完全核放棄を前提にした「核凍結」への見返りにエネルギー支援をする韓国の案に中国・ロシアが「参加の用意」を表明、日米両国は「理解と支持」を示したということです。しかし、米国は高濃縮ウラン計画を含めた完全核放棄を要求しており、米朝の溝は残されたまゝです。
ホスト役の中国は面子もあるし、何とか一定の方向を見つけたいとしているようですが、果たして最終合意にたどりつけるかどうかは微妙です。

拉致の問題について日本サイドは何故か遠慮がちに終わり、二国間で3月中旬の協議を調整中とのことですが、拉致被害者家族の日本への「帰国方式」に北朝鮮側がこだわっている限り、早期解決は困難でしょう。

昨日「青年日本の歌(昭和維新の歌)」の歌詞確認のため、コロンビアの軍歌・戦時歌謡大全集「海ゆかば」の歌詞集を開いていると、「ダンチョネ節」が目に付きました。これは東京高等商船(越中島)の生徒が唄いはじめてから広く知られましたが、元は神奈川県三浦岬の民謡だったのだそうです。
私はてっきり商船学校の歌かと思い唄っていましたが、替え歌だったのです。戦争中に航空隊員の歌にも替えられていました。昔は「勇波節」と言っていたのですが、最後の囃子言葉の印象で、いつか「ダンチョネ節」となったのだろうということです。
この囃子は「断腸の思い」だという説と、「団長ネ」から来たものだとする説がありますが、歌詞に別れを唄ったものが多いので、この歌詞集の編者は前節を取ると書いています。また、何の意味もない囃子かもしれないとも言っています。

 三浦岬でョ どんと打つ波はョ 
      可愛い男のネ 度胸だめし ダンチョネー
 泣いてくれるなョ 出船の時にゃョ 
      沖で櫓櫂がネ 手につかむ ダンチョネー
 逢いはせなんだかョ 館山沖でョ 
      二本マストのネ 大成丸 ダンチョネー
 沖の鴎にョ 潮時とえばョ 
      わたしゃ立つ鳥ネ 波にとえ ダンチョネー
 船は出てゆくョ 煙は残るョ 
      のこる煙がネ 癪のたね ダンチョネー

大成丸(たいせいまる)…帆船、総頓数2,423頓68  船籍港 東京。

正午を過ぎました。昼食にします。では、 

(^。^)村ちゃん、オウム真理教教祖麻原彰晃こと松本智津夫被告に判決が、午後からも言い渡されているようですね。
「ダンチョネ節」も、よく耳にし歌ったものですね。
2004.2.26  二・二六事件…「昭和維新」ならず

2月26日、私は次のようなことを思います。

1936年(昭和11年)2月26日、三十年ぶりの大雪で純白に染められた東京に小銃と機関銃の音が鳴りひびき、軍靴の音がものものしく伝わりました。世にいう「二・二六事件」の朝でした。(時に私は小学3年の3学期)。
1932年(昭和7年)の「五・一五事件」は海軍と陸軍の青年将校と農本主義者がクーデターをおこし、犬養毅首相を「問答無用」と射殺したものですが、参加人員も規模も小さく、4年後のこの「二・二六事件」とは比べものではありませんでした。

軍隊内には、軍部の近代化を進め、国家総動員体制で総力戦に備えるという考えの「統制派」と天皇親政で国家を「改造」しょうとする「皇道派」の反目があり、二・二六事件を起こした青年将校は「皇道派」でした。

事件の推移・状況などは、ご存知のことで省略しますが、反乱を起こした兵士たちは頼みにする天皇の叱責にふれて「国賊」とされ指導者は銃殺されました。天皇親政を謀った青年将校の失敗のあとには、「統制派」を中心とした軍隊が天皇を利用して軍国主義の道へ国民を引っぱっていきました。『昭和維新』はならなかったのです。

「青年日本の歌」と謂うのがあります。作者は海軍少尉三上卓で昭和5年5月に作られました。海軍兵学校を出た彼は、昭和7年5月15日の犬養邸襲撃のリーダーの一人です。海軍兵学校では日記、手紙も候文で書かせ漢文の教養を身につけさせていましたが、それにしても相当の詩才があったのでしょう。
爾来この歌は五・一五事件、二・二六事件に連座した急進的青年将校の間に歌い継がれました。公然と歌うことは禁止されていましたが、太平洋戦争中まで愛唱されました。『昭和維新の歌』として歌われたこの歌は私にも思い出深い歌の一つです。

紀元前三・四世紀頃の中国は戦国時代で、揚子江北方の国「楚」の政治家であり詩人でもあった”屈原”の祖国愛を引き合いに出して当時の時勢を慨嘆しています。祖国愛に燃える”屈原”はさかんに帝に進言しますが、ごますりの側近がこれを妨げ、遂にはすてられます。”屈原”は長詩「離騒」を作って恨みを述べますが、洞庭糊畔の泪羅の淵で投身自殺をします。「楚」はやがて「秦」に滅ぼされます。
”屈原”は「不運の愛国者」の代名詞にになりました。戦勢日増しに強化されるさ中の軍人の胸に、悲憤慷慨して響いていたのでしょう。

1.泪羅の淵に 波騒ぎ     巫山の雲は  乱れ飛ぶ
  混濁の世に われたてば  義憤に燃えて 血汐わく
2.権門上に   驕れども   国を憂うる   誠なし
  財閥富を   誇れども   社稷を思う   心なし
3.あゝ人栄え  国滅ぶ    盲たる民    世に躍る
  治乱興亡   夢に似て   世は一局の  碁なりけり 
(以下11番まで、省略します)

屈原(くつげん)=中国、戦国時代の楚の人。名は平、字は原。また、名を正則、字を霊均ともいいます。楚の王族に生まれ、王の側近として活躍しましたが妬まれて失脚、湘江のほとりをさまよい、ついに泪羅(べきら)に投身しました。憂国の情をもって歌う自伝的叙事詩「離騒」をはじめ、楚の歌謡を本とした楚辞文学を集大成しました。

もし、「昭和維新」が成功していたら日本国はどうなっていたでしょうか。
その際の、NHKのテレビ番組「その時歴史が動いた…二・二六事件」はどんな内容になっていたでしょう。

6カ国協議は、昨日各国基本演説で終わり、大きな動きがあれば今日でしょう。日朝2国間では春までに交渉を再開しましょうとの話が出来たと言います。一応北を信用してその通り受け取っておきましょう。

「歌は世につれ、世は歌につれ」。歌からその時代の背景を考えるのも一興です。では、またあした。

(^。^)村ちゃん、「青年日本の歌」って、現在では余り目にしない漢字が出てきて難しいですね。昔の人は本当にすごいなぁ!といつも感心します。言われるように、歌われたその時代の背景を考えることは、意義がありますね。
 話は変わりますが、つい最近、交野市民講座で「古文書解読講座」があり江戸時代に書かれた碑文を勉強しました。徳川家康が元和元年5月5日、京都二条城を発して交野の星田の庄屋に陣を取ったことがあり、江戸時代の後期にその陣屋跡を後世に伝えようとして石碑が建てられた。その碑文は、当時の30代の2人のお殿様が認めた文と書で、漢文調で難解なものでした。中国の故事来歴などを織り込んだもので、昔の人はよく勉強したものだと感心するばかりでした。また、この2人のお殿様は後に老中までなったそうで、由緒ある碑が当地、交野にあることに誇りを感じました。
 徳川家康本陣跡の概略はこちらを参照下さい。


2004.2.25  北朝鮮の核問題…第2回6カ国協議始まる

今日は明け方から気温は高く、私方で5.0℃ありました。しかし、何だか湿度も高く、あまりさっぱりした気分ではありませんでした。予報では晴と出ていましたが、うす雲が広がり、それを透して薄日がもれています。

昨日もお話したように、北朝鮮の核問題をめぐる第2回6カ国協議が北京の釣魚台迎賓館で始まっている筈です。
議長国中国は、1.共同文書作成、2.協議定例化、3.事案別の作業部会設置、の3点を目標に、今回協議で米朝が歩み寄れる環境を整え核問題の解決への道を模索します。
午後米朝や日朝の2国間協議の可能性がありますが、我が国は積極的に拉致問題解決に向けた北朝鮮の前向きな取り組みを求め、3月中の日朝高官協議再開につなげてほしいものです。

首席代表は、中国ー王毅外務次官、北朝鮮ー金桂冠外務次官、米国ーケリー国務次官補、日本ー藪中三十二外務省アジア大洋州局長、韓国ー李秀赫外交通商次官補、ロシアーロシュコフ外務次官、と云うことです。
午後には逐次会議の情報がテレビに流されることでしょう。

ところで、国内最大手のインターネット接続サービス「ヤフーBB」の加入者情報が470万人分流出して恐喝していた北海道の男と別に、愛知県の男が100万人分のデータを入手したとして、同サービスの運営母体「ソフトバンク」に現金を要求した男が警視庁捜査1課に逮捕されていたと云います。犯行の容疑者や経緯詳細は既にニュースに流れてご存知のとおりですが、こんなに簡単に個人情報が流れ出て、悪用されるものですかねェ。恐ろしいことです。

はじめに書いたように、今日の天気は薄曇で、空は明るいのですが、もう一つはっきりしません。何か気分の重い天気です。天気予報では快晴の筈でしたが、如何したのでしょう。この頃はは予報の違うことが往々にしてあります。
私はテレビでの天気予報は参考にはしますが、絶対の信用はしません。
「観天望気」と謂う言葉がありますが、これはその字のように空の状況を観察して、天気を予測することです。雲形、雲の動き、風、太陽や月の見え方等から経験的に予想することです。

漁業や農業をする人たちは、先祖から教わり自分でも経験した、この「観天望気」でその地域での気象を的確に知ります。釣に海へ出る人は必ずその地の漁師(漁協)の意見に従う、山へ入る人はその地の山師などの意見を確認しましょう。海にしても、山にしてもこれが一番の安全対策です。
これからの春山は危険です。登山する人は十分にご注意を。

今日の天気から、また、変な話になりました。このへんで終わりにします。

(^。^)、村ちゃん、6カ国協議でどんな話が決まってゆくのか大いに関心がありますね。
なんですかね。「ヤフーBB」の個人情報が流出し、それをまた恐喝に使うなんて。本当に恐ろしい話ですね。そんなに簡単に個人情報が流されるようではね。流出経緯などハッキリしてもらいたいものですね。

2004.2.24   北に完全な核廃棄要求を…日米韓が再確認

昨朝は一昨夜の雷鳴を伴う大雨で木々が洗われた様に活き活きしている中、久しぶりに歯医者へ行きました。2月16日の昼食時、上右第一切歯の裏側が、卵の殻が破れるように、ボロボロと取れて、大きなほこらの様な穴が開きました。喉頭がんの生体検査の時、全身麻酔で固く噛締めた顎を、金具でこじ開けられたため、歯にクラックが入って、それが約10年の間に虫歯になっていたようです。幸い痛みも無いので、歯が先か、命が先か知らないけれど、兎に角簡単にと、詰めてもらって帰ってきました。

小生は従来、自分を「小生」といってきましたが、今後「私(わたし)」という事にします。その方がソフトに聞こえるようですから。(後述参考)

明日25日から北京で北朝鮮の核問題をめぐる所謂6か国協議が行われますが、日米韓3か国は昨日ソウルで対処方針を最終調整しました。勿論、3国とも従来の方針に変わりは無く、北に完全な核廃棄を要求することを再確認しました。
これに先立って、23日に中国の王毅外務次官は、北京を訪問している逢沢一郎外務副大臣との会談で、北朝鮮が「核の完全廃棄について誓約する用意がある。その前提としての核の凍結だ」と伝えてきたことを明らかにしています。北朝鮮は米国の「敵視政策」転換やエネルギー支援などの見返りを得るための譲歩姿勢を打ち出した訳でしょうが、「核」の中にウラン濃縮計画が入っているか否かが問題になるでしょう。
日米韓の最終調整では、ウラン濃縮型の核開発計画を含め「完全で検証可能かつ不可逆的な核廃棄」を求めることが確認されていますから、成り行きが注目されます。
また、日本としては「拉致」問題を冒頭に提議するはずですが、北朝鮮がどこまで踏み込んだ協議に応じるか、今夕外務省の藪中三十二アジア大洋州局長と北朝鮮の金桂冠外務次官の接触の中で打診が行われます。
いずれにしても、6か国協議は最大の節目を迎え、目が離せません。

「小生」を何故やめたかと云いますと、この言葉は主に手紙で、男子が自分を指して使う謙称ですが、少し固い感じに思えてきたのです。毛筆での手紙ならいいでしょうが、メールには不向きと考えました。
「わし」は室町時代に「わたくし」の短縮形として使われ、江戸時代初期には、女性にも広く使われたようです。
「おれ」は「わし」より更にぞんざいで、江戸時代には女性も使ったようです。
「わし」「おれ」とも今は女性は使わないようです。
「手前」はこれも室町時代から「わたくし」のように自分を指す謙譲語として、主に商家に使われましたが、江戸時代には反対に「お前は」のように相手を指す対称としても使われました。現在、対称の場合は「てめえ」と発言して目下に使う、または威嚇に使うようです。
詰まるところ、「わたし(私)」にしました。

詰まるところ、詰まらんことを書きました。ご勘弁を。また、明日。

(^。^)、村ちゃん、大工さん、歯の治療は大変だったでしょう。何といっても歯医者で虫歯治療に使われる、歯を削る音は堪りませんね。キーンというか、嫌な高音です。でも、今の歯医者さんの治療機械は綺麗です。子供の頃とは本当に、隔世の感がします。
そうですか。これから、小生を止めて、私にされますか。こんなことを申し上げるのはどうかと思いますが、大工さんには、小生の方があっているように思いますが・・・。
確かに、小生は手紙文のようで堅苦しい感じですものね。

2004.2.23  雷鳴とともに久しぶりの雨が降りました

昨日のメールに一部誤りを書きました。
昭和8年4月から国定小学校国語教科書が本邦初のカラー印刷になりました。一年用生は「サイタサイタサクラガサイタ」で始まり、「ススメススメヘイタイススメ」「ヒノマルノハタバンザイバンザイ」と続きました。忠君愛国が強調され、国民学校が発足する前年の昭和15年まで使用されました。小生昨日はこの「サイタサイタ…」を平仮名で書きました。誤りですから訂正します。今は平仮名から教えますがどうしてでしょう。小生不思議に思っています。

小学国語読本巻一(昭和8年〜昭和15年使用)

サイタサイタ・タラウサンの話・いとでんわ・アメ・メダカ・ハコニハ・一二三四…・一バンボシミツケタ・モモタロウの話等で、通常「サクラ」読本と呼ばれているもので、表紙もさし絵とも色刷りで当時としては画期的な教科書といわれています。

さて、昨日は気温が高く、暖房機も忘れられたような一日でしたが、夜に入って突然大粒の雨が降り、大きな雷鳴が轟きました。雷鳴は鋭い光と共に、約2時間ほど続きました。雨は夜明けには止みましたが、長かった乾燥の日から解放されて小生大いに喜んでいます。
庭や公園の木々も喜んでいるのではないでしょうか。

イラク派遣の陸上自衛隊の主力部隊約140人は、22日午前6時47分(日本時間同日午後零時7分)に政府専用機でクウェートのムバラク空軍基地に到着しています。一行は米陸軍キャンプで訓練の後、この週末にはイラク・サマワの先着部隊が建設した仮宿営地に入る予定だそうです。
イラク復興支援特別措置法の成立から約7ヶ月で一応の体制は出来たわけです。今後の活躍を安全に遂行されるよう祈りたい気分です。

不思議なもので、はじめ何だかんだと言っていた批判勢力もここまで来ると何も言えないようですね。新聞の関連記事も少なくなりました。それだけに、もし、何かあれば待ってましたとばかり、騒ぎ立てるでしょう。何も無いことを祈っています。

今日はこれから朝食を摂って、歯医者へ虫歯の治療に行きます。この年でもう治療も要らないだろうと思いもしましたが、やはり、もう少し生きているつもりになりました。人間はいつまでも最後までも生きようと思うものですね。

(^。^)、村ちゃん、昭和8年の国定教科書はカタカナだったのですね。そうですね。国定教科書の復刻版、インターネットで売っています。(小学校入学時の楽しい思い出を完全復刻しました。紙質・版型・製本すべてが当時のままでその時代の思想や国民意識、世相を語る貴重な国定教科書の再現、復刻です)と見出しで、1冊1200円〜1800円で。
興味のある方、こちらへ http://www10.plala.or.jp/honya/kokuteikyoukasho.htm

2004.2.22   学齢期まえ小生最初に覚えた軍歌「爆弾三勇士」の話


今朝は気温が9℃もありました。雲が拡がってきて雨を予想するような生暖かい空模様になっています。今日は2月22日です。

この日が来ると何故か思い出すのが「如月の22日の午前5時」です。
小生の記憶の中で最も古い歌(軍歌)「爆弾三勇士の歌」の一節です。こんなことを言い出すと、年寄りは直ぐに過ぎし「いくさ」の話をするとお思いでしょうが、昔の軍歌にしても軍国歌謡にしても、それがヒット曲となったのにはそれなりの時代の背景があったわけで、その曲を知ることによって、父たちが、祖父たちが如何に生きてきたかを知る由縁にもなるわけです。この「爆弾三勇士の歌」は昭和軍歌の時代の初期の大ヒット曲であったのです。

小生の学齢期一年前の昭和7年2月末、上海地区で起きた局地戦闘であった上海事変は、その経緯そのものよりも、2月22日早暁の総攻撃の際の”爆弾三勇士美談”によって当時の日本国民を興奮の坩堝に投げ込んだのでした。廟行鎮の敵陣に近づいて点火のままの破壊筒を抱いた三人の工兵、作江・北川・江下は鉄条網に辿り着き、わが身もろとも散華した美談は軍公表と共に大センセーションを巻き起こしたのです。そんな事で小生の記憶に10番まである歌詞の大半が記憶されているわけです。
「ああ江南の梅ならで、裂けて散る身を花と成し…」与謝野寛作詞、辻順治作曲のこの歌は、小生最初の軍歌でありましたが、翌年小学校へ上がった我々年代は本格的に軍国主義の中で教育される事になっていくのです。国定教科書も変わり、色刷りの「さいた さいた さくらがさいた」になりました。大正15年、昭和元年生まれから時代教育は変わったのでした。

イラク復興支援の陸上自衛隊本隊の一部は、昨日、夕方出発しました。
隊長は「淡淡粛粛と任務に…」と言っていました。先日来、小生は「淡淡」と「粛粛」の使い方について少し意見を書きましたが、今回は、その両方を一緒にしてくれました。テレビを見ていて、小生思わずふきだしました。

「如月の22日」に因んだ思い出に耽る日になってしまいました。では。

(^。^)村ちゃん、夕べは暑くて寝苦しいくらいでしたね。今朝も温度は下がらずどんよりとした天候です。「爆弾三勇士の歌」、今でも10番まで覚えておられるのですか。作詞の与謝野寛は、与謝野鉄幹の本名だそうですね。
明治の熱血詩人にして与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹が新聞社の公募に本名の与謝野寛で応募し、1位入選した作品に「爆弾三勇士」という歌がある。「爆弾三勇士」(あるいは「肉弾三勇士」)とは、昭和に入って初めての軍神である。(歴史の裏話より)

   
「廟行鎮(びょうこうちん)の 敵の陣
    我の友隊 すでに攻む
    折から凍る 二月(きさらぎ)の
    二十二日の午前五時」


2004.2.21    年寄りは順次病院からも消えていくのでしょうか

こんにちわ。3日ばかり休ませてもらいました。この間2月には珍しく暖かい日が続きました。今日も天気は良く暖かそうです。
昨日は予約診察日で県立奈良病院へ行きましたが、訪れる患者は相変わらず多いものですね。循環器科のお年よりは入れ替わりはありますが、数はむしろ増えているように思います。

そんな中で、待合室で馴染んだ84歳のお爺さんが、近くの医院へ変わるので今日が最後ですと挨拶してきました。この人は左足が悪くて、杖を突いていましたが、この一月には病院玄関に置いている車椅子を使い出しました。更に昨日は通院困難と云うので自宅近くの医院への通院に変えると云うわけです。お互いに「お元気で」とは挨拶しましたが、再び合うことは無いでしょう。人の世はこんなものですね。又、自分の将来像を思う一日にもなりました。

さて、イラク復興支援に派遣される陸上自衛隊の使う車両や物資を積み込んだ海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」(8900t)と、護衛艦「むらさめ」(4550t)は昨日午前9時前に室蘭港を出航しました。陸上自衛隊の主力部隊も今日にはクウェートに向け出発するそうですが、自衛隊そのものの動きについての報道関係の扱いは小さくなって来ました。
また、イラクにおける自爆テロも含めた報道にも慢性化したのか一般には興味を持つ様子が薄くなっているように思えます。人は既成の事実にはいつか慣れて無関心になるものでしょう。国内の政治なども左様な事ですね。

一向に忘れて貰えないのが、迷走し続ける古賀潤一郎議員、エエ格好して議員歳費は貰わないと言いながら受け取って、供託しょうとして法務局に却下され、韓国籍パチンコ業社長からの献金が発覚して新聞種になり、こんどは衆院で一人会派を届け出て、調査経費月額65万円をねらいに出て、直ぐに撤回すると云う狂騒ぶり、哀れな男よと怒ることも忘れた感じです。福岡2区の選挙民は何を思って彼に投票したのですかねェ。小生僅か2年でしたが、単身赴任して北九州市小倉(職場は八幡)で住まいました。九州人の一本気で、誠実なことは身をもって感じています。それだけに古賀潤一郎は何故?と思うのです。立派に議員を辞めればと思うのです。
江戸後期(1750〜1817)に古賀精里と謂う儒学者がありました。佐賀藩の人で名は撲(すなお)といい、はじめ陽明学、のち朱子学を以って藩校の創設に尽力し、幕府に登用され昌平黌(しょうへいこう)の教官にもなりました。
古賀は福岡県北西部の市で、玄海灘に面し古くから交通の要衝でした。
古賀姓では精里の子古賀??〈とう〉庵、古賀春江(洋画家)、古賀政男など知られた人も多くあります。古賀潤一郎さんは残念ですね。

昌平黌=江戸幕府の儒学を主とした学校で、主に旗本、御家人の子弟を教育しました。

三日休むと何だか考えが纏りません。「やすむ」と云う気楽さについウッカリ世の中の動きを忘れているのでしょうか。メール=ボケ封じの由縁です。
また、明日メール送ります。

(^。^)、村ちゃん、おっと、大工さん久しぶりにお元気なメールを頂き、ホッとしました。やはり、辛口の話を聞かないと、寂しいもんです。
村ちゃんは、昨日市内の小学校の特別授業に出掛けてきました。6年生といえば、私と同じぐらいの背があり、もう身体は大人ですね。
特別授業は、地域の人達の善意で協力できる方がジャンル別に「知恵の輪」として登録、総合学習の一つとして開催されているもので、今回の特別授業は6年生全員(69名)を対象に「知恵の輪」の登録者の中、10ジャンルの人が参加して行われた。
 授業内容としては、英会話、ゆかたの着付け、ハンキングバニー、手話、パソコン、押し花しおり作り、地域の歴史、万華鏡作り、ワラぼうき作り、ソフトボールなどで、私は「地域の歴史」を担当しました。授業内容の選択は、子供達に任せているようで受ける人数はまちまちで、ソフトボールや英会話などが人気授業でした。 
私は「地域の歴史」を担当、子供たちと一緒に100年前のふるさとマップ作りに挑戦して、楽しく過せたことに感謝しています。


2004.2.16  「軍艦行進曲」は不死鳥のように蘇った?
昨日は小生の都合でメール休みましたが、一昨日メールを送った後、この辺も強い風が吹いて、「春一番」を思わせました。今朝も夜明けの気温は3,5℃あり、恐らく暖かい日になると思われます。

14日午後、イラクで活躍する陸上自衛隊本隊に装備品などを運ぶため、海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」(8,900トン)が、広島県呉市の海上自衛隊呉基地を出航しました。北海道・室蘭で陸自用の車両や装備品などを積み込み、護衛艦「むらさめ」とともに20日にクウェートへ向かいます。
その模様はテレビで映し出されていましたが、艦橋は右舷寄りで甲板はまるで航空母艦のように広く、艦体は以外に大きく見えました。あぁ、我が国にもこれだけの艦艇が出来ていたのだと懐かしく心ときめきました。

偶々、小生の手許に「二期生入校60周年記念事業のお知らせ」なる葉書が届いております。思えば昭和19年(1944)4月8日小生は静岡県清水市折戸の高等商船学校に入校しました。
昭和17年5月の第80帝国議会において、寺島健逓信大臣(海軍中将)と原清海務院長官(同)は、「今や本邦船腹は、大東亜戦争の完遂及び大東亜共栄圏の建設の基礎要件として、飛躍的な増強を要請されており、その造船計画にマッチした海員の養成」が急務と強調し、高等商船学校の増設案を提案しました。
同案が議会を通過するや、直ちに候補地の前出折戸の用地を買収して、校舎の建設にかかり、昭和18年度は600名を採用、神戸・東京各250名と併せて計1,100名を採用しました。
昭和18年に入り、戦況は一層苛烈の度を加え、2月7日、ガダルカナル島撤退、4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、5月29日にはアッツ島守備隊が全滅しました。

そして同年10月、決戦段階に即応して、必勝体制強化のため、文系の大学、高専在学生の徴兵延期措置が停止され、同月21日には、明治神宮外苑において出陣学徒壮行会が挙行されました。送る者も送られる者も悲壮でありました。
このような、背景の中、翌19年4月、小生たち二期生1,800名は清水に入校し、全員が海軍予備生徒に任命されました。そして、神戸(深江)、東京(越中島)はなくなりました。

テレビが写しだす、海上自衛隊の出陣の映像、見送る家族たちの姿、うち振る日の丸の旗、そして「何故か」流れる「軍艦行進曲」。小生、暫し高等商船入校当時の追憶に耽りました。「軍艦行進曲」はパチンコ屋で生きつづけ、今、不死鳥の様に蘇っています。

「軍艦行進曲」がパチンコ屋で流している、忙しいマーチだ等と思っておられるお若いお方のために少し説明しておきましょう。
島山啓の歌詞に瀬戸口藤吉が作曲して海軍軍歌としたのは、明治30年頃です。この軍歌とトリオに海軍儀制曲「海ゆかば」を挿入した行進曲「軍艦」が、日比谷公会堂奏楽堂のプログラムに初めて載ったのは、明治43年7月16日の演奏会だそうです。そして、帝国海軍の儀制曲第10号として、「進水式に於て船体滑走又は進行を始むるとき其の他観兵式(分列式、閲兵式)等」と用途が定められていました。

小生たちは、左手に軍歌集を高く掲げ、右手は肩の高さまで振り、腿を高く上げて足踏み、時には行進したものでした。勿論声が小さいと鉄拳制裁を食らいます。

むかしは、そんな時代でしたなぁ。深い感慨の内に、はや、ひるになりました。
また、明日メールします。
「守るも、攻めるも…」の「攻めるも」が憲法違反でしょうか??。

(^。^)、村ちゃん、春一番が吹いて更に寒くなるのではと思っていましたが、案外暖かですね。私はTVのニュースで見たのですが、海上自衛隊の出港の時、「軍艦行進曲」が流れ日の丸の旗が打ち振られていましたね。また、「軍艦行進曲」の歴史と用途、など良く分かりました。が、イラクへ人道支援の為に出掛ける時に、「軍艦行進曲」は、ちょっとビックリしましたね。

2004.2.14  バレンタインデーです。誰かからチョコレート贈られましたか
今日は一段と暖かくなりました。春一番が吹くようなことを言ってます。しかし、その後低気圧が大陸からやってきて寒の戻りとなるようです。

ところで、今日はバレンタインデー[St,Valentine‘day]です。
ご存知のとおり聖バレンタインは269年頃殉教死したローマの司祭ですが、2月14日を記念日としてこの日に愛する人に(特に女性から男性に)贈り物をする風習が出来ました。日本では1958年頃から流行したようですが、これに目を付けたのがチョコレート屋、この贈り物をチョコレートと宣伝して社会的地位を獲得しました。

「義理チョコ」だの、何だのと節分過ぎるとデパートが売り出して、テレビあたりが宣伝して、職場の男どもゝどの子が呉れるかと騒がしいことです。今年あたりは「友チョコ」「自分チョコ」なんてのも流行っているようですね。

土用丑の日に「ウナギ」を食べるのは、暑い時季、体力を付ける栄養価の高いウナギをと平賀源内が言った(かどうかは知りませんが)のは、理に合った事で、
ウナギ屋の陰謀ではないでしょう。が、節分に太巻きの「巻き寿司」をその年の恵方へ向かって丸かじりする等は、正に海苔屋・すし屋の陰謀でした。テレビが宣伝して数年の中に社会的イベントとしての立場を作ってきております。

小生の見るところ、日本人は元来「付和雷同」型性質があるようです。オイルショックでロールペイパーが無くなると新聞が書くと、向かいの奥さんスーパーへ走る、これを見た隣の奥さんも走り出す、我もわれもで品切れ、そうなるとなお更ヒステリー状態が昂じて隣の街へと走る。二間の押入れ一杯にロールペイパーを積み上げて、何年もかかってお尻を拭いたと言う笑い噺もありました。

今回の「牛丼」協奏曲もこの日本人の特性丸出しでした。無くなると言うと欲しくなる訳ですね。チョコレートも人が誰かに贈るから、自分も誰かに贈らねばと焦る気持ちになる、その気持ち、哀れですね。

日朝政府間交渉で平壌へ派遣されていた、外務省の田中均外務審議官と藪中三十二アジア大洋州局長は昨夜帰国していますが、具体的な結論は無く、交渉を今後も継続することだけ確認したということです。詳細な報道はまだ聞いていません。北朝鮮の態度は歯痒い(ハガユイ)ですね。

言葉の説明…[付和雷同・附和雷同]
         自分に一定の見識がなく、ただ他の説にわけもなく賛成すること。

(^。^)、村ちゃん、義理チョコでも何でも良いけど、チョコが貰えた現役時代が懐かしいですね!今日午前中は、いい天気でしたね。交野古文化の方々と星田村のお大師さん廻りをして来ました。1ケ村に15の祠が祀られ、今もお大師さん(空海)の命日にあたる4月21日には、各所で法要が盛んに行われているそうです。
嵯峨天皇の弘仁年間(811年ごろ)、弘法大師が京都長岡京市の乙訓寺の別当に任ぜられ、たびたび近郷の霊場を訪ね、交野の私市・獅子窟寺や星田に立ち寄られたことが知られています。お大師信仰が平安の時代から庶民の中に生き続け、今も根強く息づいていることに感動しました。

2004.2.13    岡田阪神に春は近い…ガンバリヤ

今日も引き続き暖かく、陽ざしは春を感じさせるような天気です。
プロ野球の各球団はそれぞれのキャンプ地で仕上げに向かっていますが、阪神も11日には、キャンプ地の宜野座村立野球場で広島と練習試合しています。このところテレビでも各局競って阪神情報を伝えています。巨人以外の球団情報には冷たかった読売までが、阪神情報を伝えているのは滑稽です。
練習試合とは云いながら、岡田新監督の采配、それに前評判の高かった新外人マイク・キンケードの活躍を見ようと集まった観客は満員の2万人、結果は14-7のダブルスコア―で大いに沸いたようです。プロ球界にもいよいよ春の足音が聞こえてきました。

一向に晴れないのが、古賀潤一郎衆院議員(45)さん、アメリカから帰ってその足で選挙区(福岡2区)へ行き、街頭で宣言した四つの事項、@民主党を離党しますA議員は辞めませんB議員報酬は貰いませんC国会が休会時にペパーダイン大学の不足単位を取得しますの内、@は民主党から除籍されましたAはその通り辞めてませんB議員報酬は出ましたので(秘書が)受け取りました。
供託は出来ません。ドウシマショ。彼のテレビに映される顔は次第に窶れ、目玉ばかりがギョロギョロしてきました。… お気の毒。

吉野家社長の安部修二さんは「単品主義、米国産にこだわり」の弁を朝日新聞のインタビュー(asahi.com)で答えていましたが、今朝どこかのTVチャンネルで吉野家の何店かが国産の牛肉を使って丼を売り出したと報じていました。勿論、値段は高いようでした。米国産へのこだわりは如何したのでしょう。

何事もこだわらない方が良いのでは、とは、今日の感想でした。

(^。^)、村ちゃん、いよいよ、春らしく感じる天候ですね。阪神の活躍、今年も大いに楽しみにしたいですね。
2004.2.12   日朝2国間協議に進展はあるか?

やっと最悪の寒さも一服の様子です。しかし、下旬には再び寒が帰ってくるような長期予報です。それでも、待たれる春はそう遠くはありません。

政府は昨日、外務省の田中均審議官と藪中三十二アジア大洋州局長を平壌に派遣しました。先週末、北朝鮮側から日本政府が呼びかけていた政府間交渉を受け入れる考えを伝えてきたのに応じたものです。
勿論、拉致問題が中心でしょうが、25日に6者協議が再開されるについて、その前に北朝鮮としては、日朝関係を打開したい狙いがあるのでしょう。いずれにしても早く拉致被害者やその家族にも暖かい春が来るよう祈りたいものですね。

アメリカでBSE牛が見つかって、我が国はアメリカからの牛肉輸入を禁止しましたが、主にアメリカ牛を使っていた牛丼(牛肉どんぶり)業者は二三日中に主力商品であった牛丼の販売を休止するはめになっています。
最大手の「吉野家」の牛丼は昨日全店で、そのメニューをおろしました。
既に大手チェーンでは「なか卯」「すき家」は販売を止め、「松屋」も15日には休止の予定だそうです。
ここで面白いのは、アメリカ牛でなければ牛丼の味が出せないと「吉野家」が販売中止を打ち出した途端、一斉にマスコミが書きたてて、「吉野家」はいつ頃まで、「なか卯」はいつまで等など書き出したものだから、牛丼ファンが一気に増えて、どの店も行列で押すなおすなの大人気。中には今生の思い出とばかり大盛り2杯も食べましたと言う輩も居って、石油ショックの時ロールペーパーを買いあさったに似た現象を起しています。ロールペーパーならいつまで置いておいても腐りもしませんが、牛丼は今食溜めても二日と持ちますまい。それ以上便秘したら大変です。

本来牛丼なんて下司の食い物とさげすんだ目で見るのは京都のええし。お座敷料理でないのは判っていますが、それでも美味いものは旨いです。
茨城県神栖町のトラック運転手(35)は「吉野家124号線神栖店」で店員が販売中止を伝えると、「頭にきて」大暴れし、暴行容疑で警察に逮捕されたと云います。テレビでは報道陣のカメラに取り巻かれながら牛丼を食っている男の画が各局チャンネルで見られましたが、それほど食いたい、いや、喰らいものですかねェ。その心理判りません?わかりまへん?。

憎まれ口はこの辺まだでにしておきます。また、あしたにします。

言葉の解説…下司(げし・げす)(1)身分の低い官人。したづかさ。
            (2)平安末期から中世にかけて、荘園の現地にあって
             事務をつかさどった荘官。在京の上司に対していう。
             沙汰人(さたにん)。

(^。^)、村ちゃん、日朝問題、一日も早く良い解決を願いたいものですね。もう、期も熟した感がありますね。
牛丼、一度食べると、止められなくなりますよ。私が富山へ単身赴任中短期間でしたが、昼休みを利用して病院へ通院していたことがありました。その病院までの道筋に「吉野家」があり、良く利用したものです。安くて旨いし、手っ取り早くて都合よかったですね。昼時はいつも賑わっていましたね。牛丼の次は何を売るでしょうか?
富山は魚の旨い店が沢山ありましたが・・・。
2004.2.11 今日は「建国記念の日」です…これは何の日、お判りかな

今日は「建国記念の日」です。むかし(終戦まで)は「紀元節」といいました。
紀元節は元四大節の一つで、1872年(明治5年)に伝説上の神武天皇即位の日を設定して祝日としたものです。戦後廃止されましたが、1966年((昭和41年)に「建国記念の日」と謂う名で復活され、翌1967年2月11日より毎年実施されています。歴史家の中には神武天皇即位の日そのものに異説を唱えるものもあって、当時は賛否色いろありました。奈良・橿原市の橿原神宮では、この日旧在郷軍人や戦没者の遺族、ある大学の応援団、それに右翼系の団体などが沢山参拝していました。
なお、この橿原神宮は、神宮としては歴史が浅く、畝傍山の南東麓にあった、「記紀伝承の橿原宮」の旧祉に、1889年(明治22年)神武天皇と媛踏鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后を祭神として創建されたもので、官幣大社でありました。
この神宮を拡張し、現在の姿にしたのは皇紀2600年の記念事業で、国家事業として大々的に行われ、関西では小中学生も動員されました。また、全国からも奉仕団が集まりました.小生も整地作業に西宮から今の近鉄で勤労奉仕に行きました。
なお、前述のように歴史的にはきわめて不正確なものなので、皇紀は戦後全く使われず、近年は主に西暦が用いられます。また、中国で始まった年号(元号)を併せて使っています。若い世代の人に今年は皇紀二千六百六十四年といっても、何のこと?と問い返される事でしょう。また、「建国記念の日」といってもそれが何を意味するものかも言えないでしょう。自分の国の起こり、由縁を知らない国民は哀れですね。

国連の専門機関である世界食糧計画(WFP)報道官は昨日、北朝鮮で実施してきたこどもや高齢者など400万人(妊婦7万5千人、孤児8千人を除く)、に対する食糧配給(1人1日900キロカロリー分)を2月初めから停止したことを明らかにしました。理由は支援不足で継続できなくなったためということです。
北朝鮮は大変ですね。もう少し素直になって国際社会と仲良くして、日本との拉致問題も、核放棄の問題も解決すれば金正日将軍サマもお利巧になれるのですがね。  無理な期待は滑稽でしょうからこれで終わります。

(^。^)、村ちゃん、建国記念日?ほんと、今日は何の日?昨日、大阪市内へ出掛けての帰り道、電車の中で、「明日は休みでよかったなぁ!」って、歓声をあげていたサラリーマン氏、建国記念日って分かってませんよね。私も、実は何も分かっていません。
建国記念日といえば、○○を考える会の集会、また、○○記念会合などの印象ばかりで、これまで、何で祝日になったのか深く知ろうともしませんでした。皇紀2600年の記念事業(昭和15年)に生れた私にとっては、分かりやすい年でもあるのですが・・・。大工さんの言われるように、「自分の国の起こり、由縁を知らない国民は哀れですね」、ご尤もです。

2004.2.9  粉石けんでおにぎり」…どんな味がするのでしよう?

こんにちは、二日間休ませてもらいました。酷い寒さと乾燥に小生いささかダウン状態でしたが、何とか持ちこたえました。一番の強敵は空気の乾燥で、夜、やすむときは加湿機を点けていますが、暖房機も点けますので相殺されて朝起きると喉(気管)がヘンテコリンで困ります。気管切開して11年になりますが、老化と共に状況はマイナス方向です。

インフルエンザが関東や東北方面で流行っていると聞きましたが、小生気になるところです。予防接種はしていますが、それでも心配です。
鳥社会では、インフルエンザは大流行で、中国・ベトナム・タイを中心に大騒ぎですが、ついにと云うかアメリカでも感染が確認されたようですね。直ちにアメリカからの鶏肉や加工品の輸入が禁止されました。

食べ物のことでは、世にも不思議な新聞記事を目にしました。2月7日の朝刊(毎日)に『粉石けんでおにぎり』とありました。小生、思わずハッ!と眼をやりました。神戸市立和田岬小学校の2年生のクラスで、5日の給食でご飯が沢山余り、担任の女性教諭(53)が児童におにぎりを握らせたというのです。
ところが、この際、教室の配膳台にあった粉石鹸を食塩と間違えて児童に使わせてしまったといいます。「粉石けん」と「塩」どうして間違えるのでしょう。
目視でも判るでしょうし、手触りも違うでしょう。五十三才・女性の先生は洗濯や炊事はついぞした事が無いのですかねェ。不思議です。

イラク派遣自衛隊の本隊先発隊の第1陣は昨日午前8時25分(日本時間午後2時25分)にクウェートからイラクに入り、午後4時55分(日本時間午後10時55分)ごろ、サマワのオランダ軍宿営地に到着、先遣隊に合流しております。指揮する清田安志一等陸佐は隊員には「淡淡」と任務を遂行するように話していると言っていました。

この「淡淡」は「澹澹」とも書きますが、あっさりしたさま。執着のないさま。淡白なさまを謂います。例えば「――と語る」。
国会で与野党が揉めていても、マスコミが何のかんのと言っていても自衛隊員はその任務を「淡淡」と遂行するのが本分と心得ていてご立派だと思いました。

「たんたん」には
(1)「坦坦」=地面・道路など平らなさま、転じて、変化無く平凡に過ぎるさま。
   坦然。例「――たる大道」「――とした暮らし」。
(2)「耽耽」=虎などが、眼を鋭くして注視するさま。転じて、野心を以って機
   会をねらうさま。例「虎視――」。
(3)「湛湛」=@水などの満ちたたえられたさま。A露のおおいさま。B重厚
   なさま。 
(4)「潭潭」=水などの深くたたえられたさま。
と謂う言葉があります。テレビで清田安志一等陸佐は「たんたん」と言いましたが、
小生は「淡淡」と聞きました。

先日、「粛々」について違和感を感じると書きましたが、今回は「たんたん」に拘りました。
拘りついでに、神戸市の教育委員会では、通常、給食で余ったご飯は納入元に返され処分されるそうです。この教師ルール違反でもあったわけですね。
お粗末の一語です。また、明日メールします。

(^。^)村ちゃん、大工さん、このところ寒さに乾燥が重なり身体に負担が掛かっているそうで、どうぞお大事にして下さい。
「たんたん」には、それぞれ使い分けがあり、奥の深い言葉ですね。
自衛隊の皆さんの夫々の任務の達成を祈願いたします。

2004.2.5   法隆寺の門前街路整備工事で「かどや」強制撤去

昨日から再び寒さが戻って、今日は空も雲って一段と冷えます。こんな日、雲の切れ目から数分でも太陽がのぞくとパッと明るく暖かく感じます。日の光はあり難いものだと改めて思う一時です。

昨日、法隆寺門前の飲食店「かどや」の強制撤去が始まりました。奈良・斑鳩町の法隆寺は近年参拝者が多く、車社会にも適応するため、県は南大門前の街路整備工事を計画し、長年にわたって居住者と交渉しておりました。
ところが、飲食店「かどや」一軒だけが、代替地も補償金も拒絶して居座りを続けていました。要は立ち退かないと言う訳です。土地は法隆寺の物ですがお寺という立場から立ち退きを強行に求めるわけにもいかず、行政・県が強制撤去に踏み切ったものです。
この「かどや」は古く、小生も大和郡山市へ移り住んだころ、家内と自転車で県内の寺院や旧跡を訪ねましたが、法隆寺では「かどや」で一服したり昼食を摂ったりしたものです。そのような意味では小生にとっても懐かしい店で、法隆寺・南大門と一つの絵になって記憶にあるものです。
しかし、時代は移り、世の中の有りようも変わればいたし方のない事で、個人の権利も多少の犠牲を余儀なくされるものです。

強制撤去に出向いた県の職員が、テレビの中で、私たちは「粛々」と仕事をするだけですと言ってました。この「粛々」と謂う言葉は何故か小生には「耳」障りなのです。先日サマワの自衛隊員も「粛々」と任務を遂行していますと言っていました。
小生がこの言葉を「耳」ざわりと思うようになったのには、政治家という連中が、少々悪く言われようとも、蛙の面に小便という顔をして、「粛々」といたします等と言い出したからです。

広辞苑によるとこの言葉の意味は、(1)つつしむさま。(2)静かにひっそりしたさま。(3)ひきしまったさま。(4)おごそかなさま。「葬列が粛々と歩む」。とあります。
小生、少年期に頼山陽の詩、川中島で「鞭声粛々」とよく吟じました。その詩の「粛々」は鞭打つ音も「静かに引きしめて」という意味で、政治家などがどういう意味で使っているのか、小生不審な気持ちがするのです。

おなじ語を重ねて、一つの単語にしたものを畳語(じょうご)と言うそうです。
「人人」「山山」「家家」の様に名詞を重ねたもの、或るさまを重ねたものがあります。
更にこれらを二つ重ねた単語も沢山あります。侃侃諤諤、唯唯諾諾、奇奇怪怪、平平凡凡、子子孫孫など変換キーで幾つも出てきます。

同じような意味の言葉を重ねて使うのを「重言」と言いますが、小生、子供のころに聞いたものに、「いにしえのむかしの武士の侍が馬から落ちて落馬して顔を赤くし赤面し家に帰って帰宅して仏の前の仏前で短い刀の短刀で腹を切って切腹し」などと囃した記憶があります。
政治家はよく、「今の現状では」などと言いますが、「現状では」で宜しいでしょう。

何の話からでしょうか。変なことをクドクド書きました。耄碌した頭で判らなくなりました。あーァ、疲労がくたびれました。
明日と明後日メール休みます。悪しからず。

(^。^)、村ちゃん、いやぁ!今日はビックリしましたね。法隆寺の南大門前のそば屋さんが強制退去させられていましたね。そう言えば、私も昨年秋頃、そばを食べた記憶があります。100年の歴史があるそば屋さんだったのですね。
言われるように、こんな場合にも「粛々」って言葉を使うのは変ですね。確かに、いろんな所で使われているけれど、何でもかんでも「粛々」で済まされたら困ったものです。
畳語(じょうご)、「重言」と、言葉は面白いものですね。

大工さん、毎日メールを有難う御座います。お疲れ様でした。
どうぞ、ゆっくりとお休み下さい。
2004.2.4  イラク復興支援陸上自衛隊本隊第1陣は
            昨日午後出発しました

今日は立春ですが、気温は予報どおり、日の出前±0,0℃まで下がっていました。天気は良いのですが、昼になってもあまり暖かくはなりません。

イラクへの自衛隊派遣承認案の衆院採択を機に空転した国会は、昨日午後から参院が開かれて一応正常に戻りました。今日も朝から民主党の質問がテレビで放映されています。一方イラク復興支援に派遣される陸上自衛隊は、本隊の第一陣として施設部隊など先発約90人を昨日午後、新千歳空港から政府専用機でクウェートに向け出発させました。
サマワでは既に先遣隊が本隊受け入れの環境作りのため、無難に作業を進めています。着々と動いていく現実を見、国会でのイトモ稚拙(子供じみてへた)な野党の質問を聞いていると何だか「あわれ」(アァなんとかしての意)を感じました。 … これ今朝の感想でした …

昭和41年(1966)2月4日午後7時頃、千歳発羽田空港行きの全日空ジェット機=ボーイング727型機=が東京湾に墜落して、133人全員死亡という当時とすれば、航空史上最大の事故が起きました。
この年、何故か航空機の大きな事故が続きました。
同年3月4日、カナダ航空機、羽田空港で炎上。3月5日英国BOACの旅客機=ボーイング727型機=が富士山ろくに墜落し、124人全員が死亡しました。当時の新聞は「大惨事あいつぐ狂った空」と伝えています。
更に同年11月13日には、松山空港を離陸した全日空のYS11型機が、そのまま沖合いへ墜落しました。結婚式を済ましたばかりの二人を見送りに来た親や親戚、友人の悲しみが伝えられました。
この昭和41年と謂う年は空の大惨事が続きました。因みにその後の大きな旅客機の事故を拾ってみました。昭和46年(1971)7月30日、全日空機が岩手上空で自衛隊機と衝突、墜落161人死亡。昭和57年(1982)2月9日、日航機DC8型機が羽田沖で墜落(着陸に失敗)して、24人死亡、147人重軽傷。昭和60年(1985)8月12日、日航ジャンボ機が群馬の山中に墜落、524人の犠牲者を出しました。この機には関西経済人が多数乗っており、歌手の坂本九(43)も来阪の途中でした。

昭和41年の今日の事を書き、ついでに、航空事故を次々書いているうちに、疲れてきました。楽しい思い出は疲れませんが、悲しいことでは疲れを感じます。
明日は楽しいことを思い出したいと思います。

(^。^)、村ちゃん、昭和41年には、次から次へと航空事故が起きたのですね。そして、昭和60年(1985)の日航ジャンボ機の事故と、まだ記憶も生々しい事故でした。どうぞ、イラクへ派遣された自衛隊に何事も起きないことを祈ります。

2004.2.3   国連待機部隊には自衛隊を当てれば宜しい

今日は節分です。今晩はあちらこちらで豆まきの声が聞こえるでしょう。節分に丸かじりする太巻き寿司
最近節分には、太巻きの「巻きずし」を恵方へ向いて食べるという風習が盛んに言われていますが、小生子供のころには聞いたことがありませんでした。戦後も食料難で、日本国民は巻きずしどころではありません。
いつの頃からか、日本の伝統行事のように言われ初めていました。
海苔屋の謀略とも、すし屋の作戦とも言われています。流行に敏い現代の若者、特に女の子はつられて真似します。大口あいて、太巻きの巻きずしにかぶりついている図はあまりみっともよくありません。でしょ。

民主党の鳩山由紀夫・前代表は1日、日曜のテレビ朝日の報道番組で、同党菅直人代表が唱えている、自衛隊と別組織の「国連待機部隊」構想について、古い議論であるとして「憲法を改正して自衛隊にその役目を負わせればよい」と延べています。
更に、菅代表がイラクへの自衛隊派遣を「憲法違反」としていることについても、「自衛官一人一人が『テロを起されても反撃しない』と誓っている、と聞いている。武力行使まで行かないわけで、派遣事態を憲法違反と決め付けることは出来ない」と批判しています。

政府は2日国連平和維持活動(PKO)に提供できる要員などあらかじめ登録しておく「国連待機制度」への参加に向け、関係省庁間の調整を始めました。今年末の防衛計画大綱見直しでPKOなど海外での国際貢献業務を自衛隊の主任務に位置付けるのに合わせ、PKO参加を自衛隊の恒常的な活動とする狙いだそうです。

国会・参議院は昨日は開かれなかったようですが、今日はどうでしょう。
菅直人代表・岡田克也幹事長の率いる民主党は、速い時代の流れに何故かワンテンポもツウテンポも遅れて息を切らせて走っているように、小生には思えます。政権交代を狙うなら一歩も二歩も前へ踏み出すべきでしょう。

最近気になる言葉に、「おじゅけん」と謂うのがあります。仮名では判りにくいので、漢字にすると「お受験」です。これなら判ります。しかし、この「お」、耳障りではありませんか。「お」の付け過ぎの代表格は、幼稚園の保母さんと、料理学校の先生と、ザアマス夫人とでしょう。「お絵かきしましょう」「お遊びしましょう」「お水で、お手洗いしましょう」。テレビの料理番組では「おにく」に「おねぎ」「おにんじん」入れて、少々「おだし」を入れると「お味が宜しい」。これをを「お小さい」「お皿に」取り分けて。小生、歯が浮いてきます。
「おパーマ」「おダイヤ」「おケーキ」「おバナナ」などカタカナ語には付けない方がいいのではありませんか。
「お」や「ご」は相手の動作や持ち物に敬称として付けますが、語感的におかしいものはやめましょう。一般に習慣、語感によるものが多いので、正しい敬語は他人の正しい言葉に耳を傾けて、体で覚えましょう。

(^。^)、村ちゃん、節分の日に、太巻きの「巻きずし」を恵方へ向いて食べるという風習、これっていつからなんでしょう?
「福を呼ぶ丸かぶり寿司、今年の恵方(えほう)は東北東」
関西伝説と、題して次のような記事を見つけました。
《起源は諸説ある。この風習を研究する新見公立短大(岡山県新見市)の岩崎竹彦助教授によると、大きく四つ。
 (1)幕末から明治時代初頭に、大阪・船場で商売繁盛、無病息災、家内円満を願ったのが始まり。 (2)船場の色街で女性が階段の中段に立って、丸かじりして願い事をしたらかなったという故事にちなむ。 (3)節分のころは新しい香の物が漬かる時期で、江戸時代中期、香の物入りの巻き寿司を切らずに丸のまま恵方を向いて食べ、縁起をかついだ。 (4)船場の旦那(だんな)衆の節分の日の、艶(つや)っぽい遊びが発端。 「発祥地は、大阪と見ていいでしょう」と岩崎さん。》
しかし、起源はどうあれ、流行させた大阪のお寿司屋さんの発想と努力は素晴らしいですね!

2004.2.2   大阪府の知事は太田房江現知事が再選された

今朝はこの辺り日の出前に6℃もありました。突然の生暖かさに却って戸惑いました。雨が降っていましたが、昼前にはやみました。明日から再び寒気がやってくると予報されています。今月はこんな事の繰り返しでしょう。

昨日の大阪府知事選挙は、投票率が40.49%と低く、前回(44.58%)を更に下回りました。小生今は奈良に住んでいますが、大阪は関西の中心ですから、大いに関心を持っていました。予想どうり太田房江の再選で、対する有力候補とされていた江本孟紀(無所属)、梅田章二(共産)を足もとへも寄せ付けませんでした。野球で名が売れて、阪神タイガースの応援歌を歌って阪神ブームに乗ろうとしても、それだけでは大阪の府政を「任すわけにはいきまへん」と言うのが府民の声でしょう。共産党はイデオロギーの面で一般人にはやはり嫌われます。
小生も、あの肝っ玉姉ちゃんみたいな太田房江さんで良かったと思っています。

イラク復興支援の陸上自衛隊本隊への隊旗授与式が、昨日旭川市で行われましたが、送り出す家族は「無事で還るように」と心配顔、それを取材する報道陣も、まるで死地へ追いやるかのように言っています。
小生思うに、自衛隊員は自身それを承知で訓練され、手当てを貰っていたわけですから、かような場面は当然でしょう。
普段街で見かける消防隊員、レスキュー隊員は常に危険と相対して職務を遂行しています。火事場で燃え盛る火の中へ救助のため飛び込んで亡くなった消防士、救助のために鉄道線路の中へ入って亡くなった隊員の家族を考えると、あまりみっともない顔をテレビに映さないほうが宜しいのではと思います。

こんな事を書いていると、いかさま小生「ヘソマガリ」とお考えでしょう。
ひねくれた者はいかにも臍が普通の人とは違う場所にあるかとお思いでしょうが、小生臍はお腹の真ん中にあります。
「ヘソマガリ」は広辞苑を見ても「臍曲がり」とあります。しかし、一説に、本来は「ヘソクリ」を「綜麻(へそ)繰り」と書くのと同様に「綜麻曲がり」と書くとあります。
この「綜麻(へそ)」と謂うのは、織機にかける麻糸や、つむいだ麻糸を糸巻きに巻いたもののことで、この糸をつむいで内職し、少しずつ貯めた金が「へそくり」だというのです。
「へそまがり」というのは、ひねくれた人が巻いた「綜麻の巻き具合」が曲がっているということだそうです。そして、この事は「なりに似せて綜麻を巻く」という古い諺があることでもわかるといいます。巻く人の性癖によって巻きあがりが違い、たぶん歪(いびつ)に糸が巻きあがるのとおなじようになるというのです。

何か詰まらない事を書いてしまいましたが、これもヘソマガリの性でしょうか。乾燥すると切開した気管がカラカラしますが、久しぶりに雨が降って湿度が高いと,こんどはうすい痰がズルズルして困ります。3級障害者で税金も控除を受けていますので我慢しています。
では、また明日。

(^。^)、村ちゃん、太田房江さん、大阪の舵取りよろしゅう頼みまっせ!江本さん、もう政界から離れるそうですが、何のために選挙に出たのでしょうか?疑問を感じますね。
「へそ曲がり」、面白い話ですね。また、大変理屈に合った話で感心しました。私は、また単純にへそが曲がった状態を(こんなことはあり得ませんね!)言うのかなぁと、思っていました。言葉には、その発生した源がちゃんとあるもんなんですね。
004.2.1  バグダッドなどイラク北部では反米武装攻撃が活発化

今日から月が変わって二月です。春とは「立春」(2月4日)から「立夏」(5月5日)の前日までですが、月でいう場合は二月・三月・四月を春とします。そして、初春・仲春・晩春を三春といい、春90日間を九春というそうです。
今日は天気も良く気温も高く、春来ると思わせるような気候です。しかし、昨日も言いましたように、今週は再び寒くなって、春はやはり二月堂のお水取りが終わるまではお預けでしょう。
二月堂はご存知のように奈良東大寺の境内にあるお堂ですが、752年(天平勝宝4年)に東大寺第2世実忠の創建にになります。毎年2月(今は3月)朔日から14日まで修二会(しゆにえ)を行いなす。今の堂宇は1669年(寛文9年)徳川家綱の再建したものです。
お水取りとは3月(陰暦2月)13日の未明に堂前の若狭井(わかさい)の水を汲み,加持し、香水とする儀式で、修二会の行事です。

二月になって、今日偶々暖かかったので、話がひと月ほど飛んでしまいました。今日は大阪府知事の選挙で、府内1772ヶ所の投票所で投票が行われています。候補者は5人ですが、事実上は太田房江(52)=自民、民主、公明、社民推薦。梅田章二(53)=共産推薦。江本孟紀(56)の3氏の争いになって、午後8時締め切り、即日開票で今日中には大勢が判る見透しです。

国会は衆院で可決し、参院へ送ったイラク復興支援のための自衛隊派遣に関する国会承認案、2003年度補正予算案の週明け参院上程をめぐって与野党の調整がつかず、週明けの国会も大荒れが予想されます。

一方、イラク・バグダットでは今日から始まる犠牲祭を契機に反米武装勢力の攻撃が活発化し始めたようだと伝えられています。31日夜(日本時間2月1日未明)バグダッドの住宅密集地域で2件の爆発が相次いで発生し、併せて6人が死亡した。或いは北部モスルの警察署前で自動車爆弾が爆発して9人が死亡、四十数人が重軽傷を負った、或いは北部キルクーク南西の道路で爆弾の爆発があり、米兵3人が死亡するなどが伝えられています。
サマワは平穏に落ち着いていて、今月半ばには派遣される本隊受け入れの準備は進んでいるようですね。
今日は日曜日。このへんで失礼します。

(^。^)、村ちゃん、2月に入りましたが今日は本当に穏やかな天候ですね。9時過ぎに大阪府知事選挙の投票に出掛けましたが、投票者の顔もパラパラとした感じで少ない状況でした。投票率が気にかかりますが、どうなるのでしょうか?
週明けのイラク国会が気になるところですね。

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