ホームページに戻る 明けましておめでとう御座います!今年は丑年(うしどし)です。 |
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日時:平成21年1月2日(年始) 午前10時集合 集合場所 バス停 妙見口 |
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2009年1/2(金)、天候曇り時々晴れ。早朝から冷え込みが厳しくどうなる事かと心配しましたが、幸い風もなく、「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら妙見口に集合した。 中会長と平田さんの新年の挨拶の後、妙見宮への妙見河原の桜道をゆっくりと上ると、妙見宮の前で星田や私市の地元の方々が合流され、総勢22名の元気な皆さんが顔を揃えられ、早速全員で記念撮影。 |
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中会長(左)と平田さん(右) 年の初めのご挨拶 | |||||||||||
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2009年1月2日、初歩きMAP |
交野八景の一つで有名な妙見川原の桜並木 (戦前の桜は明治42年に400本の吉野桜が植樹され、年々有名になり 花見時には片町線に臨時列車が出て、大変賑わったそうである。 昭和20年の敗戦後、その桜も切られ、間もなく現在の桜が植えられた。) 妙見の桜並木は、平成元年「大阪緑の100選」に選ばれている。 最近、交野市の市指定文化財として指定された「江戸時代末期の絵地図」には 見事な桜並木が描かれており、既に江戸時代から桜の名所として知られていた。 |
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妙見坂小学校の南側、妙見宮の参道前の竹薮が、徳川家康のひそみの藪である。 家康は二度、星田へ来ている。 一度目は、天正10年(1582)家康41歳の時、、織田信長が京都本能寺にて家臣明智光秀の謀反により自害したと聞き、堺から逃げ帰る途次、一時この星田の藪にひそんだと言い伝えられている。 2度目は、元和元年(1615)家康74歳の時、大阪夏の陣に東軍16万人のうち、手兵1万5千人を引き連れて星田の平井家に一泊している。 |
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「伝家康ひそみの藪」物語 (ふるさと交野を歩く ひろい話(3)より) 天正十年(1582)6月2日の明け方に織田信長が京都本能寺に於て、家臣明智光秀の反逆によって自害し果てたとき、信長と同盟を結んでいた徳川家康は、少人数の近臣を連れて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していた。 当時、信長の強大な勢力によって一応近畿は平定され治安は保たれていたが、その盟友を失った時の家康の立場は極めて微妙にならざるを得なかった。 幸い、信長死すの情報がいち早く家康のもとにもたらされると、身の危険を察知して、すぐさま堺を退去して本国三河に帰ることとした。 家康はいずれの道を通って河内から山城を経て三河に帰ったか。 |
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詳しくは、星田神社と星田妙見宮のHPをご参照ください! |
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社務所前からは、遠く石清水八幡宮、天王山が望める |
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拝殿で、改まった気持ちで参拝 |
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拝殿の奥に、 ご神体の影向石(ようごうせき)が拝めます |
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ご神体は、影向石 | ||||||
狛犬は「高麗犬」、「胡麻犬」とも書き、神社の入り口や拝殿の前などに置かれている一対の獣像で、原形はインドにおけるライオン像。それが中国大陸から朝鮮半鳥を経て日本に来ました。沖縄県では「シーサー」といわれる獅子が各家の屋根に魔除(まよけ)として置かれていますが、神社の狛犬も同様に守護と魔除のために置かれています。 | ||||||
拝殿の垂れ幕には、北斗七星と八つ目の補星が描かれている |
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彗星捜索家「木内 鶴彦」氏の 交野ではその昔、八丁三所(はっちょうみところ)に星が降ったという伝説が語り継がれて来ました。嵯峨天皇(弘仁年間810〜824)の頃、弘法大師(空海)がこの地方に来られた時に、獅子窟吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、高岡山の東にある「星の森」と、光林寺の境内、そして星田妙見宮の三カ所に落ちたという言い伝えです。星田妙見宮の参道である石段下の右手を少し入ると『登龍の瀧』がありますが、大昔(おそらく西暦900年から1000年の間ではなかったと思うのですが)ここに隕石が落ちたことは間違いない事実だと私は考えています。 滝壺となっているのがクレーターでしょう。 |
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妙見東住宅の中央公園 現在の状況は、円墳か前方後円墳かと見間違うほど良く出来た高台が造られている。 |
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平田さんより、古墳の場所は、この中央公園と特定されていると説明を受ける。 |
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当時発掘調査された、桜井敬夫さんは「調査より40年を経過して」と、下記のように記述されている。 (交野市の埴輪、交野市文化財事業団を参照させて戴きました) |
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この大きな粘土郭をもち妙見山古墳は、いつ頃誰の手によって築造されたものだろうか。粘土郭周囲の栗石はいずれも河原石で、この山頂までは少なくとも500m東の天野川から運ばなければならない。また粘土にしても約800mは離れた私市の植物園か、新宮山付近から運んで来たものと思われる。このようにして築造された古墳の様子からたぶん副葬品には、鏡やその他玉類も多くあったのであろう。古墳の構造や出土した遺物から見て、この妙見山古墳の築造時期は、古墳時代前期すなわち4世紀半ば頃と推定されよう。 先日、当時調査を手伝っていただいた和久田薫氏と共に現地を訪れた。小松神社(妙見宮)東方の山地は静かな住宅街となり、妙見山古墳の場所は公園として、人々の憩いの場所となっていた。調査の時から数えて40年近くの時が流れた今、改めて往時の思い出を語り合った午後のひと時であった。 |
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妙見東住宅地の入り口付近で、和久田さんより 「古墳の発掘当時の様子」など詳しく説明を受けた。 |
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星田駅行きのバスが団地内を通り過ぎて行った | |
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妙見山古墳の位置図 |
昭和43年12月、妙見山古墳が発見され、発掘調査された当時の写真である。 左端が妙見宮の森、妙見山(162m)の峰続きに古墳が発見された。 |
岩船明神はもと星田、私市、田原、南田原の総氏神であって住吉四神をお祀りしていたが、 この村々の間に争いが絶えなかったので、話し合いの上神霊を各村に分離して 奉祀することになった。昔からの交野大明神は北側に末社の形で祀られるようになった。 新しい祭神と区別するために、村人は古宮と呼び、最初に古宮に参拝し 次にご本殿の住吉四神にお参りする慣習になっていた。 |
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「星田寺」には、十一面観世音立像(元禄16年、山中の小松寺より 移転してきたもの)が祀られています。 |
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薬師寺と案内板 解散した後、京都から来られたYさんを薬師寺まで案内し、 12月に新しく設置された「案内板」を確認してきました。 |
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次回は、第93回歴史ウォーク、2月14日(土)平 研氏の案内で、「天野川の自然と野鳥」日の出橋〜逢合橋まで、天野川に生息する野鳥を観察します。集合は、京阪私市駅、午前9時30分です。 お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。 |
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最後までご覧いただき有難うございました |