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2009年 新春恒例の初歩き
妙見宮から妙見山古墳、星田神社へ
交野古文化同好会

 明けましておめでとう御座います!今年は丑年(うしどし)です。
頂戴した年賀葉書には可愛らしい「丑・牛」のイラスト入りが圧倒的でした。
今年は、丑年に因んで「粘り強く誠実に」活動して行きたいと思います。
1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きに参加して、
妙見宮から星田神社にお参りして健康で過ごせるようお祈りして来ました。

日時:平成21年1月2日(年始)  午前10時集合
集合場所 バス停 妙見口


 2009年1/2(金)、天候曇り時々晴れ。早朝から冷え込みが厳しくどうなる事かと心配しましたが、幸い風もなく、「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら妙見口に集合した。
 中会長と平田さんの新年の挨拶の後、妙見宮への妙見河原の桜道をゆっくりと上ると、妙見宮の前で星田や私市の地元の方々が合流され、総勢22名の元気な皆さんが顔を揃えられ、早速全員で記念撮影。
中会長(左)と平田さん(右) 年の初めのご挨拶
 妙見口の交差点に集まり、先ず中会長より、新年のあいさつの後、「昔の妙見口交差点付近の妙見川は天井川で私市と星田を行き来する住民は、川を越すために上り下りしていたこと、また通行に便利なように天井川の下がトンネルになっていた」ことなどをお聞きする。
 
天井川であった妙見川とトンネル風景(昭和30年代?) 昔、このあたりは星田の禿げ山から流れ出た沢山の土砂で一面妙見川原となり、流れる妙見川も大雨のたびに土砂で川底が埋まり、雨が止むと村人は総出で川底をさらえて、その土砂で両側の堤を一層高く、厚く盛り上げた。それを繰り返していると妙見川は高い堤の天井川となり、その下を通行に便利なようにトンネルが掘られた。トンネルの上にあった、地蔵さんは今は、妙見口の交差点の東南角に祀られている。

 昭和38年から41年にかけて妙見川改修大工事でトンネルはなくなり、旧川の跡は道路と住宅になり、妙見川原からこのトンネル跡までの350mは桜並木が延長され、下流の藤が尾地区には、府営と供給公社の団地が建ち、現在は一大住宅街となっています。
妙見口交差点(=左)とトンネルの上にあった、地蔵さんは、
今は妙見口の交差点の東南角に祀られている。
道行く人には、背を向けているため、案外と知られていない。

いつも綺麗なお花がお供えされている

2009年1月2日、初歩きMAP


元気な皆さんが勢揃い!
星田妙見宮前で記念撮影  (撮影:高尾秀司さん)

妙見の観桜

交野八景の一つで有名な妙見川原の桜並木
(戦前の桜は明治42年に400本の吉野桜が植樹され、年々有名になり
花見時には片町線に臨時列車が出て、大変賑わったそうである。
昭和20年の敗戦後、その桜も切られ、間もなく現在の桜が植えられた。)
妙見の桜並木は、平成元年「大阪緑の100選」に選ばれている。
最近、交野市の市指定文化財として指定された「江戸時代末期の絵地図」には
見事な桜並木が描かれており、既に江戸時代から桜の名所として知られていた。
家康のひそみの藪

 妙見坂小学校の南側、妙見宮の参道前の竹薮が、徳川家康のひそみの藪である。
 家康は二度、星田へ来ている。
 一度目は、天正10年(1582)家康41歳の時、、織田信長が京都本能寺にて家臣明智光秀の謀反により自害したと聞き、堺から逃げ帰る途次、一時この星田の藪にひそんだと言い伝えられている。
 2度目は、元和元年(1615)家康74歳の時、大阪夏の陣に東軍16万人のうち、手兵1万5千人を引き連れて星田の平井家に一泊している

「伝家康ひそみの藪」物語   (ふるさと交野を歩く ひろい話(3)より)

天正十年(1582)6月2日の明け方に織田信長が京都本能寺に於て、家臣明智光秀の反逆によって自害し果てたとき、信長と同盟を結んでいた徳川家康は、少人数の近臣を連れて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していた。

当時、信長の強大な勢力によって一応近畿は平定され治安は保たれていたが、その盟友を失った時の家康の立場は極めて微妙にならざるを得なかった。 幸い、信長死すの情報がいち早く家康のもとにもたらされると、身の危険を察知して、すぐさま堺を退去して本国三河に帰ることとした。

家康はいずれの道を通って河内から山城を経て三河に帰ったか。 
 中央公論社の日本の歴史第十二巻の
282頁には、「家康は津田主水頭(もんどのかみ)に道案内を求め、急に道を転じて宇治田原に向かうことになった。」と書き、枚方市史第三巻18頁には「家康一行は、津田村には信長恩顧の者がいるから道案内をざせようという進言をいれ、その道案内によって津田村から尊延寺村を経て山城綴喜郡に出た。」と書いている。

 吉川英治の太閣記には、「枚方から津田方面に向かった」と記し、山岡荘八の徳川家康には、「守口から北河内の津田方面に向かった」と書いてあり、いずれも星田に来たとは書いていないが、津田方面には家康が来たという伝承を聞かず。星田の伝承では、星田炒見宮の参道の入口の北に「家康ひそみの薮」のことを俗に「けんしきの藪」といって、家康が堺から逃げ帰る途次、一時この藪に潜んでいたと言い伝えられている。   続きは、こちら
家康ひそみの藪MAP

星田妙見宮
詳しくは、星田神社と星田妙見宮のHPをご参照ください!
星田妙見宮由緒書
「正式名」 小松神社
「創立」 平安時代(弘仁年間)に創建、
明治三十九年十一月に星田神社境外社となる

太古より生駒山系は岩座信仰が盛んであり、この中にあって、当宮は現在残る数少ない岩座信仰の霊場です。平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810〜823)に、弘法大師が交野へ来られた折り、獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、仏眼仏母尊の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り、それが三ヶ所に分れて地上に落ちたといいます。この時よりここに、「三光清岩正岩の妙見」として、祀られるようになったと言います。

平安時代には「神禅寺」称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には、「嘉承元年(1106)九月二十三日 星田神禅寺」と見えます。
また「東和久田系譜」延宝六年(1678)には、「采女迄三代妙見の別当ショクニシテお供燈明捧御山守護致由候緒也」と記されており、応永九年(1402)生まれの和田出雲安直、将監安道、采女安国の三代にわたり、当宮の別当職であったことがわかります。天文四年(1535)の神明帳には、小松大明神と記されています。

星田妙見宮にまつわる詳しい伝説
については、ここをクリックして下さい

五十二代嵯峨天皇の弘仁年間(810〜823)、弘法大師は京都を旅発たれ、ところどころの霊場を訪ね回っておられたが、ふと河内の国私市(きさいち)の観音寺へ立ち寄られ、ここで虚空蔵菩薩求門持(こくぞうぼさつぐもんじ)の法を修められた。
すると、その法力によって、その夜、山の手に仏眼仏母の光明が輝いた。
そこで、夜明けになってから山に登り、獅子窟寺山の吉祥院にある獅子の岩屋に入って、仏眼尊の秘法を唱えられた。

すると、不思議にも、大空から、七曜の星(北斗七星)が降り、それが三つに分れて落ちた。八丁三所と言われている
その星の降った所を探してみると、星田の高岡山の南にある星の森、光林寺の境内の森、そして今一つはこの妙見山の頂にある三つの巨岩である。
以来、これらの石を影向石(ようごうせき)として祭ることになったと言われている。(妙見山影向石略縁起)による。

影向石(ようごうせき)とは、神仏がその姿をこの石の上にあらわしたという石で、八丁(872b)とは、三ヶ所の影向石の間が八丁隔たっているという意味である。



社務所前からは、遠く石清水八幡宮、天王山が望める

拝殿で、改まった気持ちで参拝


拝殿の奥に、 ご神体の影向石(ようごうせき)が拝めます
ご神体は、影向石
 狛犬は「高麗犬」、「胡麻犬」とも書き、神社の入り口や拝殿の前などに置かれている一対の獣像で、原形はインドにおけるライオン像。それが中国大陸から朝鮮半鳥を経て日本に来ました。沖縄県では「シーサー」といわれる獅子が各家の屋根に魔除(まよけ)として置かれていますが、神社の狛犬も同様に守護と魔除のために置かれています。

拝殿の垂れ幕には、北斗七星と八つ目の補星が描かれている

彗星捜索家「木内 鶴彦」氏
推理する「交野が原」の壮大な歴史ミステリー

宇宙(そら)の記憶をお読みください。

  交野ではその昔、八丁三所(はっちょうみところ)に星が降ったという伝説が語り継がれて来ました。嵯峨天皇(弘仁年間810〜824)の頃、弘法大師(空海)がこの地方に来られた時に、獅子窟吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、高岡山の東にある「星の森」と、光林寺の境内、そして星田妙見宮の三カ所に落ちたという言い伝えです。星田妙見宮の参道である石段下の右手を少し入ると『登龍の瀧』がありますが、大昔(おそらく西暦900年から1000年の間ではなかったと思うのですが)ここに隕石が落ちたことは間違いない事実だと私は考えています。 滝壺となっているのがクレーターでしょう。 
    ※興味のある方は宇宙の記憶をお読みください。

妙見山古墳
今は、妙見東住宅地内の中央公園

  妙見山古墳 
 4世紀中期頃の古墳で、天野川と磐船街道を支配する交野物部氏の一族の首長を葬ったとものと考えられている。発掘当時の妙見古墳
 妙見宮の東方尾根標高162mの妙見山に所在した古墳で、東に天野川と磐船街道を眼下に見下ろし北は交野が原を一望に収め、遠く淀川、北摂の山々を眺める展望抜群の地である。
 西に巨石を祀る妙見宮の森が20m程の下に見えていた。近くには北北東2kmに森古墳群、北北東2.5kmに車塚古墳群、藤田山古墳は北北西4.3kmに、南南西4kmに忍ヶ丘古墳があり、前期・中期古墳がとりまいている。
 昭和43年四条畷高校生が発見、宅地造成などで消滅寸前の古墳を発掘調査した結果、粘土槨を備えた前期の古墳であることが判明した。

 発掘調査の時点では、既に南半分は完全に破壊され、残存部分も盗掘により撹乱されていたが、わずかな遺物を採集できたことは、不幸中の幸いであった。
 勾玉1個、ガラス小玉6個、菅玉15個、鉄器(剣残欠3点、刀子3点、やりがんな5点、鉄鏃3点、埴輪片、石英30数個と遺物に付着する朱を発見することができた。(星田歴史風土記を参照)

妙見東住宅の中央公園
現在の状況は、円墳か前方後円墳かと見間違うほど良く出来た高台が造られている。
平田さんより、古墳の場所は、この中央公園と特定されていると説明を受ける。
妙見山古墳の調査を振り返って
当時発掘調査された、桜井敬夫さんは「調査より40年を経過して」と、下記のように記述されている。
(交野市の埴輪、交野市文化財事業団を参照させて戴きました)
この大きな粘土郭をもち妙見山古墳は、いつ頃誰の手によって築造されたものだろうか。粘土郭周囲の栗石はいずれも河原石で、この山頂までは少なくとも500m東の天野川から運ばなければならない。また粘土にしても約800mは離れた私市の植物園か、新宮山付近から運んで来たものと思われる。このようにして築造された古墳の様子からたぶん副葬品には、鏡やその他玉類も多くあったのであろう。古墳の構造や出土した遺物から見て、この妙見山古墳の築造時期は、古墳時代前期すなわち4世紀半ば頃と推定されよう。
 先日、当時調査を手伝っていただいた和久田薫氏と共に現地を訪れた。小松神社(妙見宮)東方の山地は静かな住宅街となり、妙見山古墳の場所は公園として、人々の憩いの場所となっていた。調査の時から数えて40年近くの時が流れた今、改めて往時の思い出を語り合った午後のひと時であった。

下記は、2006年9月に、交野古文化同好会で歴史ウォークした時に、和久田薫先生に案内していただいた状況です。
妙見東住宅地の入り口付近で、和久田さんより
「古墳の発掘当時の様子」など詳しく説明を受けた。
星田駅行きのバスが団地内を通り過ぎて行った

妙見山古墳の位置図

昭和43年12月、妙見山古墳が発見され、発掘調査された当時の写真である。
左端が妙見宮の森、妙見山(162m)の峰続きに古墳が発見された。

妙見東中央公園にて記念撮影



星田神社
祭神は、住吉四神 表筒男命(うわつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、
底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后
交野社=古宮(こみや)祭神は 饒速日命、素戔鳴命、仁徳天皇

妙見東住宅より下って、星田の村へ入り「星田神社」「星田寺」に参拝。
最後に、中会長より、神社の由緒をお聞きして、また次回の「カルタ大会」や
勉強会などの案内を受けて、12時過ぎ散会しました。

星田神社と星田妙見宮のHPをご参照ください!



岩船明神はもと星田、私市、田原、南田原の総氏神であって住吉四神をお祀りしていたが、
この村々の間に争いが絶えなかったので、話し合いの上神霊を各村に分離して
奉祀することになった。昔からの交野大明神は北側に末社の形で祀られるようになった。
新しい祭神と区別するために、村人は古宮と呼び、最初に古宮に参拝し
次にご本殿の住吉四神にお参りする慣習になっていた。



「星田寺」には、十一面観世音立像(元禄16年、山中の小松寺より
移転してきたもの)が祀られています。
薬師寺と案内板
解散した後、京都から来られたYさんを薬師寺まで案内し、
12月に新しく設置された「案内板」を確認してきました。


  次回は、第93回歴史ウォーク、2月14日(土)平 研氏の案内で、「天野川の自然と野鳥」日の出橋〜逢合橋まで、天野川に生息する野鳥を観察します。集合は、京阪私市駅、午前9時30分です。
お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただき有難うございました

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