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よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
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平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  
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瓦版 2008年 10月号 バックナンバー
247 10/31 =石標No7 神宮寺縄文時代住居遺跡(神宮寺)=
246 10/30 =史跡石標No6 神宮寺先縄文時代遺跡(神宮寺)=
245 10/29 =史跡標柱No5 交野山古代岩座跡(倉治)=
244 10/25 =史跡標柱No4 此附近交野郡衙遺跡(郡津)=
243 10/24 =史跡標柱No3 古代天野川條里区画五條通遺跡(郡津)=
242 10/23 =史跡標柱No2 白鳳時代長宝寺遺跡(郡津)=
241 10/22 =史跡標柱No1 丸山古墳遺跡(郡津)=
240 10/21 =万葉仮名くっきり=
239 10/20 =七堂伽藍=
238 10/18 = 一石三尊石仏(森:共同墓地内) =
237 10/16 =古墳の名前は、誰がどうやって決めたか?=
236 10/14 =凹み石(くぼみ石)の謎は解けた?=
235 10/11 =今日の一言集より=
234 10/10 =本朝十二銭=
233 10/9 =史上最大の帝国モンゴルの襲来=
232 10/8 =弥生時代の土器=
231 10/7 =土器の発明で祖先の食生活は変わった=
230 10/6 =文化財保護の重要性を世に知らしめた浄土図=
229 10/4 =高地性集落の謎=
228 10/3 =今日の一言集より= 「やるだけのことはやった」
227 10/2 =鉄製の農具で農業は飛躍的に進歩した=
226 10/1 =神無月(かんなづき)=


2008.10.31 発行(247)

=石標No7 神宮寺縄文時代住居遺跡(神宮寺)=
 
 
       
  

=編集後記=
神宮寺には約九千年前の縄文早期の遺跡があって、特に貝、木、竹で手がきの沈線文を並べた神宮寺式土器、この土器は他に例がないことで注目されています。


2008.10.30 発行(246)

 =石標No6 神宮寺先縄文時代遺跡(神宮寺)=
 

  

=編集後記=
 神宮寺の集落の東南「南町宮跡」を少し上ったところに弥勒菩薩の石仏が見られるが、この石仏の下、二枚目の畑の南より、ミカン畑から石器が採集されたのは昭和31年の秋、廃岩倉開元寺を調査中の交野考古学会会員による。
交野市の旧石器時代の研究の礎となった大切な発見であった。



2008.10.29 発行(245)

=史跡標柱No5 交野山古代岩座跡(倉治)=

 

 

=編集後記=
古代岩座は、わが国古代における石信仰のひとつ。
その名称は記紀および風土記などにみえ、同名を冠した延喜式内社や地名も認められる。交野山の頂上部(▲344b)に巨岩がそびえる。その巨岩を観音岩と呼んでいる。昔から太陽の昇る山として信仰を集めていた。
元旦の初日の出には近隣市からも多くの人たちが「ご来光」にやって来る。
四季を通じハイカーも楽しめるし、交野山登頂記録を競う人も現われているし麓の白旗池には渡り鳥もやってくる人気スポットの山でもある。大岩には大人100名位は登れる。
また、お彼岸には観音岩の上から太陽が昇り、真西に沈んで行く。そんな麓で生活をしている私たちを見守って下さるのが聖観音(サ)さんである。
本当に幸せである。交野市民バンザイ!である。         =了=



2008.10.25 発行(244)

 =史跡標柱No4 此附近交野郡衙遺跡(郡津)=
    
  
  
  

それは全国を国郡制に定め、河内国交野郡と名付けられた。私市を起点とし枚方禁野まで条里制による土地区画が実施され、班田収授法による口分田を班田農民が耕すことになる。天野川筋に条里がしかれ、その中心になったのが郡津であった。交野郡の中心地として郡衙(ぐんが)が置かれ、郡司が村を指導し、郡内で生産された米を貢租として徴収した。当然集められた貢租米が蓄えられるのであるから、郡衙にはたくさの米蔵が建っていた。

=編集後記=
 郡衙の村として発展したのが郡津である。
「交野市史」によれば、郡津の古い名前は「郡門村」(こうどう村)であった。意味は交野郡の郡衙に出来た村である。「こうどう」がなまって「こうづ」となったが字は相変わらず「郡門」と記していた。しかし、江戸時代の末、文化元年(1804)大坂町奉行の命により「こうづ」の発音どおりの「郡津」と改めたとある。「郡門村」であったことを知るには極楽寺境内の地蔵石仏と共同墓地内にある瑞塔寺の石標に見ることができる。
                                     =了=



2008.10.24 発行(243)

 =史跡標柱No3 古代天野川條里区画五條通遺跡(郡津)=
         
 

 

条里区画 六町(一町の長さ約100b)の間隔で、縦横に直線の大道がつけられる。
こうして出来た六町四面の田を里という。この里を東西に並べた列を条といって、一条、二条と列名がつけられ、その大道を一条・二条通りといい、郡津は五条通りにあたる。

=編集後記=
市内には私市・天田神社から天野川に向かって一条通りが列し、京阪交野駅の北側に四条通りが、そして郡津に五条通りが列している。
条里制の行われた土地は、ちょうど碁盤の目のように、あぜ道をもって田を美しく整頓区画されている。

  

2008.10.23 発行(242)

 =史跡標柱No2 白鳳時代長宝寺遺跡(郡津)=
 
 

 
           郡津神社境内に建立されている石標
  
白鳳時代長宝寺遺跡
 長宝寺 瓦は語る その偉容   「交野郷土史かるた」より
交野郡衙の郡倉がたちならんでいた郡津くらやまの東につづく丘陵に、郡司の建立した白鳳期の寺院長宝寺がありました。
今も1300年前の古瓦が出土しています。

=編集後記=
単弁八葉蓮華文軒丸瓦は蓮弁と蓮弁の間に、くさび形(界弁)と珠文が交互に配せられており蓮弁の中央に線がある。この様式は、高句麗から百済、飛鳥と伝わり、飛鳥から交野に跡を残したものである。      =了=



2008.10.22 発行(241)

 =史跡標柱No1 丸山古墳遺跡(郡津)=
 交野町史の執筆完成に感謝し片山氏に報酬を渡すことになったがかたくなに断られ、その分で石の史跡標柱25本を建て、市民の史跡散歩の「安内役」となっている。
   
  
 
        
              
丸山古墳遺跡 
 郡津5丁目の洪積台地の端に築かれ、現在では円墳のような形から丸山古墳と呼ばれているが、一つの説としては、弘文天皇の御陵とも伝えられている。
ただ、弘文天皇は天智天皇の死後即位したが、のちの天武天皇との間で壬申の乱があり結果、大津で死去、今大津市にその陵墓が治定されている。交野町(現在:交野市)が作成した昭和35年の地図を見ると、前方後円墳とも読み取れる古墳である。
墳丘の最頂部は31.8bで周囲と比較すると8bほどの比高差がある。
仮に丸山古墳が前方後円墳とすれば100bにも及ぶ規模であったと推定される。埋葬施設は全くわからないが、古墳の前方部と思われる部分と丸山との接合部分に道路が付けられた際、その断面より土師器片が出土したと伝えられている。
また、現在は埋め立てられて存在はしないが、かつて丸山古墳の東と南に小さな池があり、これが古墳の周溝にあたるものと推定されてきた。
このように丸山古墳は古くからその存在が記されているにもかかわらず、古墳としての評価が定まらずその築造年代及び墳形並びに埋葬施設等は不明の古墳である。

=編集後記=
 今、ここに来て25本の史跡標柱をおって整理して行きたい。
今回、綱分・中角氏には大変ご苦労をいただきました。何とか形にして残したいと思います。
1/25です。まずはたたき台として作ってみました。                   =了=



2008.10.21 発行(240)

=万葉仮名くっきり=
 奈良文化財研究所は20日、奈良県明日香村の石神遺跡から出土した7世紀後半の最古の万葉歌木簡を、公開した。
クギのようなものを使い、万葉仮名で和歌を刻んだ線がくっきりと残っており、万葉集編纂以前の約1300年前に、飛鳥の都で和歌の世界が広がっていたことを感じさせる。
木簡は長さ9.1p、幅5.5p、厚さ6o。
5年前に出土し、乾燥や赤外線から守るため、同県橿原市の同研究所収蔵庫で保存していた。 

     
 
文字を左の行から読み、万葉集巻7の「朝なぎに 来寄る白波 見まく欲(ほ)り 我はすれども 風こそ寄せね」の上の句の一部と分かった。木簡は通常、右の行から左に解読するため、発掘当時は意味が分からなかった。
 万葉集収録の和歌とは文字が一部異なるほか、脱字もあり、「書いた人のなまりなどが影響しているのではないか」としている。
 「朝なぎに」は恋人を白波にたとえ、会いたく思っても機会がないと嘆く歌で、作者は不明。
 万葉集の和歌を書いた木簡はこれまで、滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)(742−745年)跡で1例見つかっている。

 <歌の全文と訳文> 
「朝なぎに 来寄る白波 見まく欲り 我はすれども 風こそ寄せね」
(朝なぎに寄せ来る白波を見たいとはわたしは思うが
   なにせ風が吹いてくれない)

=編集後記=
 石神遺跡では、ほかにも歌が記されているとみられる木簡が出土していると。
研究員は「文字を見直せば、さらに同様の例が増える可能性がある」と期待する。当市からは木簡の出土は一例もない。いつの日か、市内のどこかで木簡が出土し当時の生活の証しが甦る可能性は・・・無にあらず?   =了=


2008.10.20 発行(239)

 =七堂伽藍=
お寺の建物のことや寺そのものも総称して伽藍(がらん)という。
そして七堂伽藍といえば、寺のイメージの七つの建造物を指す。

一般には塔、金堂(こんどう)、講堂、鐘楼(しょうろう)、経蔵(きょうどう)、蔵坊、食堂(じきどう)をいうが、宗派によって指す七堂が違い、一定していない。例えば禅宗では三門(山門)、仏殿、法堂(講堂に当たる)、僧堂(座禅の堂)、庫裡(住職、家族の住居。台所も指す)、浴室、東司(とうす:便所)を七堂と呼んでいる。
真言宗では金堂、講堂、潅頂堂(かんじょうどう)、大師堂、経蔵、大塔、五重塔をいう。こうした七堂があるのは大きな寺院だが、伽藍の配置には代表的なスタイルがいくつかある。
例えば、四天王寺式では南から北に向かい、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並んでいる。この様式は飛鳥時代の様式を伝えるもので、法隆寺式(金堂と五重塔が東西に並列)よりも古い伽藍配置とされる。
なお、聖徳太子の創建という四天王寺(大阪市)の現在の建物は戦災(昭和20年)による焼失後、再建されたものである。
潅頂とは頭上に水をそそぐという意味で、古代インドでは国王などの即位に行われた重要な儀式だった。

=編集後記=
仏教(密教)では、伝法、授戒、結縁(仏の道と縁を結ぶ)などのとき、潅頂が行われる。水は香水という、さまざまな香を入れた仏前に供える水が用いられる。密教では、この潅頂の水は仏の知恵の水とされ、潅頂の儀式は重んじられている。伝法潅頂、結縁(けちえん)潅頂という種類もある。  =了=


2008.10.18 発行(238)

= 一石三尊石仏(森:共同墓地内) =
 早朝(10/15)、新川沿いを堂の池(須弥寺の南)まで歩いた。
三尊石仏の写真がなかなかうまく撮れていないので共同墓地まで足をのばす。
共同墓地入口に六体地蔵・南無阿弥陀仏(6字名号)碑と一石三尊と並んでいる。

  

  花崗岩製で、地表面から総高80p・幅86p、上端厚さ9pを測る長方形に加工された一石に、三尊仏を半肉彫りに現わしている。

  

地蔵菩薩立像は、像高:60p 中央及び向かって右端の尊像の像容は類似しており、共に如来形で、手は簡略的に表現されているためはっきはしないが、印相は来迎印を結んでいるようにみえる。
中央尊像、右端の尊像も約60p、三尊とも同じ像高である。
尊像が何であるかだが、二尊とも阿弥陀如来立像として造られたのか、それともどちらか一方が釈迦如来立像として、造られ、三尊で過去(釈迦)・現在(地蔵)・未来(阿弥陀)を表したということが考えられる。
しかし、地蔵菩薩以外の二尊については判断できない。
=編集後記=
森共同墓地入口にある六体地蔵・南無阿弥陀仏碑・三尊石仏と信仰の深さを
思わせ、極楽浄土に通じる道と言えよう。
市内でも、他に例を見ない。            =了=



2008.10.16 発行(237)

 =古墳の名前は、誰がどうやって決めたか?=
 足かけ三世紀にわたる古墳時代、全国で築造された古墳の総数は、20万基とも25万基ともいわれる。
むろん、その大半は、巨大な古墳ではなく、ごく小さな古墳である。
都道府県別の数では、最も多いのは、群馬県。同県内の古墳は、戦前の調査で8423基を数え、調査漏れや埋没したものを含めると1万基を超えて、もっとも多いとみられている。ついで1万基前後築造されたとみられる広島県が第二位。なかでも、約3000基が集中する三次盆地は、全国屈指の古墳密集地となっている。これらの古墳の外観から名づけられることが多い。
たとえば、有名どころでは、平城天皇陵とされる奈良市の「市庭古墳」は、その地名から名づけられ、蘇我馬子の墓という説が有力な奈良県明日香村の「石舞台古墳」は、花崗岩でつくられた玄室が露出している外観から、その名がつけられた。さらに、欽明天皇の陵墓ではないかとされる奈良県橿原市の「見瀬丸山古墳」は、見瀬町という地名と、前方後円墳という形から「丸山」をくっけて名づけられたものである。
古墳の外観に由来する名前には、丸山の他、丸塚、大塚、高塚、桝塚、桝山、二子山や二ツ塚などがある。
丸山、丸塚は円墳や前方後円墳で、桝塚、桝山が方墳、二子山や二ツ塚が双方墳や双円墳を表している。さらに、車塚、船塚、銚子塚、瓢箪塚などは、前方後円墳の一部の形状に由来し、茶臼山は、数段に重なって築造された墳丘のあり様から名づけられたという。
最近、高松塚古墳の石室解体工事で、大きな松の根っ子が墳丘から出てきたニュースも新しい。高い大きな松が古墳に生えていたことから高松塚古墳と名づけられたものである。

=編集後記=
 市内でも、清水谷古墳、妙見山古墳、交野車塚古墳群などは地名から、郡津丸山古墳は地名と外観から、寺の東車塚南古墳の日の丸古墳などは外観からというように、地名または形状から付けられている。


  

  

2008.10.14 発行(236)

=凹み石(くぼみ石)の謎は解けた?=
 凹み石(あまだれ石)は、縄文人の発火具と考えられていたもので、石の表面にあいている穴に木の棒を差し込み、押しながら回転させると、摩擦熱によって一瞬に火を発するという。
ところが、なにごとも実験しないと気がすまない探究心旺盛な人たちが何度やっても、火はおろか煙も出ず、木の削りくずがたまるだけだった。
いったいどこでそんな間違いが生じたのか。
ともかく縄文人の道具であることは確かで、ある実験考古学者は、くぼみに木の実を入れ、石で割るための台ではないかというのだが・・・。
                           古代面白事典より
市内では、神社の石段・境内の石、鳥居の基礎台、灯籠の基台、手水鉢などに見られ、子どもたちが青草を採ってきて石で突き、わらべ唄を歌いながら遊んだ跡だと説明していたが、子どもが突いたぐらいでは穴など、いやおじいちゃんやおばあちゃんの代を越えてずっと代々つづいてきた遊びだと・・・。
我々はまず、先入観から入るため、子どもが叩いて穴などあくもんか?
凹が出来るとしたら何年、何十年、何百年もかかると思っていた。
それが意外や、孫と一緒に畑でイモを掘っていたら、一人の孫が石うすを石で叩いていたら、まさに凹石が出来ているではありませんか?
びっくり・・・意外にも簡単に凹が出来ていきました。これで謎は解けたぞ!。
      
   
 
   

=編集後記=
連休で例のごとく、例のように孫たちがやってきていたときの出来事。
これから自信と確信を持って、子どもたちが青汁遊びなどした跡だと言える。
                            =了=



2008.10.11 発行(235)

 =今日の一言集より=
ゴールは遠くにない。
ゴールはすぐそこにある。
心がいつもそれを憶えている。

心がいつも思っていないことを、ゴールにしようとすることがある。
いっときのうらやましさ、ちょっとした憧れ、あったらいいなぁくらいの思い…
そんな「ゴール」に、たびたび動かされていたら、本当のゴールを何度も見失うことになるだろう。「おまえのゴールはこれだ!」と言われても、心が燃えるものなら、それはそれでいい。けれど、与えられたゴールが、心の中にずーっと置いておけるものとは限らない。
心の奥で憶えているゴールと、本気になれないゴールは、やっぱり違う。
だからといって、その憶えているゴールに最初から本気になれるかと言えば、そうとも限らない。時が来るまで、待たなければいけないことも多い。
できれば、誰もが、心の奥で憶えている
ゴールを早めに引き出して、本気でがんばれる日が来たらなぁ、と願いたい。
そうしたら、そのゴールに熱中するのに忙しくなり、世の中のトラブルも減るんじゃないだろうか。ゴールが見えていない。
それが根本の問題、そう思えてならない。


=編集後記=
 ゴールテープは必ずある。100キロ先に、でもゴールテープは迎えには来てくれない。一歩一歩自分の足で前へ前へ、必ずある100キロ先に。
「1`1歳、人生100歳、100キロ先に何がある」そこには感動!のゴール
テープが待っている。                    =了=



2008.10.10 発行(234)

=本朝十二銭=
 日本に貨幣が登場したのは飛鳥時代の末期で、実際に流通したかどうかは不明だが、富本銭が最古の貨幣ではないかとみられている。708年には、現在の埼玉県秩父市で国内初の銅鉱山が発見されたのを記念して、和同開珎が鋳造された。

   

   

  
  

=編集後記=
 昭和43年3月、滝が広(交野市私市)建設現場から蔵骨器と銅銭、富寿神宝50枚が出土した。富寿神宝は本朝(皇朝)十二銭中5番目に鋳造されたもので発行時の天皇は嵯峨天皇で鋳造・発行年は818年です。
                              =了=


2008.10.9 発行(233)

=史上最大の帝国モンゴルの襲来=
チンギス=ハンが建設した大モンゴル帝国
 北条氏が幕府の実権を掌握しつつあるころ、海の向こうのユーラシア大陸では、誕生して間もないモンゴル帝国が周辺の国への侵略を開始していた。
モンゴル帝国の始祖チンギス=ハンは、1206年にモンゴル高原を統一し、1219年には西方への大遠征を行って、獲得した領土を子や弟らに分け与えた。第2代オゴタイは、金を滅ぼして淮河(わいが)以北の中国を占領。
第5代フビライのときに、国号を「元(げん)」とした。
フビライは朝鮮半島の高麗を武力で服属させたほか、1276年には南宋を滅ぼして中国全土を征服し、世界最大の帝国を築きあげた。
しかし、日本への遠征は激しい抵抗にあい、大きな成果をあげられなかった。

 

苦戦のすえ元軍を撃退した幕府 

 8代執権北条時宗(ほうじょうときむね)は、服属を要求する元の勧告を強硬に断った。
1274年、高麗軍を含む元軍約3万が九州北部に襲来。元軍の集団戦法や火器(「てつはう」)に、一騎打ち戦法をとる日本軍は苦しめられた。
 

しかし、元軍は暴風雨により退却を余儀なくされた文永の役(ぶんえいのえき)。


以後、幕府は異国警固番役の強化、防塁(石類)の構築などにより、2度目の襲撃に備えることになる。

1281年、元軍は総勢14万で襲来したが、総攻撃の直前、台風に直面し、壊滅的打撃を受けた弘安の役(こうなんのえき)。

元の日本征服計画が失敗したのは、元軍が海戦に不慣れだったこと、出撃基地となった高麗にさまざまな形で抵抗されたこと、日本側の武士が奮戦したこと、元軍が暴風雨に遭遇したこと、などが原因である。


元は、2度の失敗で日本侵攻をあきらめたわけではなく、幕府は3度目の襲来時期を予測できないまま、沿岸の警備などを続けざるを得なかった。

=編集後記=
 弘安四年(1281)銘の地蔵菩薩立像が私市共同墓地内にある。




2008.10.8 発行(232)

=弥生時代の土器=
 弥生時代になると、土器は実用本位のものとなり、縄文土器のように飾りたてたものはなくなっていく。といっても、決して土器に対する情熱が失われたわけではない。穀物の貯蔵用、煮炊き用と、土器それぞれの働き(機能)を妨げない限りで、先練された文様がつけられた。また、かたちも優美なものとなる。ある場合には、美しさよりも機能が重視された。煮炊き用の土器の場合は、いつも火にかけて使っていれば、土器を壊すことも多い。だからあまり飾ろうとしない。それに対して、物を入れて置いておくだけの、壺などは美しく飾られる。機能と美しさの一体化、それが弥生人たちの土器の文化であった。
弥生土器は、こうした粗末な煮炊き用の土器と、美しく飾られた貯蔵用の壺の両方の組み合わせがみられることが、大きな特徴である。
古墳時代になると、もはや土器を美しく飾ろうという気持ちは失われ、実用だけが考えられるようになる。古墳時代の土器である

 
   最初に発見された弥生式土器

土師器には、文様はほとんどないし、仕上げも雑なものになる。
これは、クニが政治的に統一されるとともに、土器の大量生産の必要から生じた簡略化のあらわれであった。すでに丹精こめて土器をつくる時代は終わっていたのだ。大陸から須惠器が伝わると、土器の量産はいっそう進められる。
須惠器は縄文・弥生・土師といった日本の伝統的な土器づくりとは異なり、ろくろを使い、窯を使って焼くものであった。それは土器というよりも陶器と呼ばれる。この須惠器の伝来によって、土師器にも、ろくろの技術や窯で焼く方法がとりいれられている。大量生産がいっそう進むのである。
土器が大量生産されることによって、人々は以前のような土器づくりに向けた情熱を失ったからこそ大量生産が進んだともいえる。

        土器の変遷
 

 寺:南山弥生時代住居遺跡

=編集後記=
縄文・弥生時代に花開いた土器文化は、ここにきて終わりを告げ、実用消耗品の時代に入っていくのである。
                               =了=


2008.10.7 発行(231)

=土器の発明で祖先の食生活は変わった=
 人類は約1万年前より以前の旧石器時代(先土器時代)を通じて長い間、石と木と骨、角などで出来た道具だけで、土器のない生活を経験してきた。
「土器のない生活」、それは「煮炊き」することのない生活であり、土器がつくられた以後とくらべ、人類が利用できる食料資源は、ごく限られたものであったろう。しかし、ひとたび土器が発明されると、人類の食生活は格段に豊かになった。特に、ドングリやトチの実、クリなどの植物食が、日常食のメニューのなかに、新しく大幅にとりいれられることになった。
また、貝類も土器を使って煮て食べることを知ってから、大量に食べられるようになった。食糧事情が安定すると、人々は移動生活をやめ、ひとつのところに定住するようになるのだが、土器の発明は、そのための大きな助けとなったのである。

日本の土器文化の歴史は長い。縄文土器、土師器、須惠器など、各時代ごとにさまざまな土器がつくられてきた。原始、古代はまさに、土器文化がいっぱいに花開いた時代といってよい。特に縄文土器の美しさは、世界中の原始土器のなかでも、ひときわつよく輝いている。つねに自然と戦い、自然とともに暮らしていた縄文人のもつ力強さと美の感覚が、見事に結晶している。
縄文人はどうしてこんなにも土器づくりに情熱を傾けたのだろう。本当のことを今は知ることもできないが、生活のなかで、土器の占める位置がそうとう大きかったに違いない。縄文時代は、まさに「花開く土器文化」の時代であった。

   

   
 
      
=編集後記=
 大昔の祖先は、およそ1万年前に土器を発明するまでの何百万年もの間煮炊きして食べ物をつくることを知らなかった。縄文時代、土器のおかげで食生活は豊になった。
現在は、豊になり過ぎた。煮炊きもオール電化の時代、器も高価なものから100円均一まで、さまざま。                   =了=



2008.10.6 発行(230)

=文化財保護の重要性を世に知らしめた浄土図=
 法隆寺の金堂は、絵画の殿堂でもあった。
仏像が祀られている内陣を取り囲む下陣の壁には、阿弥陀が住まう浄土などが描かれていたのだ。
それらの壁画は、中国・初唐期(618〜712)の敦煌(とんこう)壁画と共通することから、8世紀の初め頃までの制作と考えられている。
だが、昭和24年1月26日に、思いがけない惨事が起こった。突然の出火で飛天図を除く壁画が焼損したのである。


 かけがえのない文化財を失った金堂の火災は、社会的にも大きな波紋を呼び、翌年には文化財保護法が制定された。                      
 また1月26日は文化財防火デーとされ、社寺などで消火訓練が毎年行われるようになった。
そして昭和43年には、日本画の大家・安田靫彦や前田青邨らによって、残されていた写真などを基に焼損前の壁画を全て再現。現在、金堂にはこの再現された壁画がはめこまれ、観賞できる。
 =編集後記=
 飛天は仏の徳を讃え、音楽と歌舞を司り、浄土の世界を彩る。阿弥陀浄土図は中央が阿弥陀如来、向って右が観音菩薩、左が勢至菩薩。阿弥陀の指の結び方は転法輪印または説法印と呼ばれ、説法する姿を表す。最近、各地の寺院等で仏像の盗難、落書きなどニュースになっているが、わが町交野の文化財もそのようなことにも遭遇しない様に願う。=了=



2008.10.4 発行(229)

 =高地性集落の謎=
 高地性集落というのは、弥生時代の集落の一形式について与えられたもので、弥生中期後半から後期にかけて、瀬戸内沿岸地域と、近畿地方西南地域に、共に限定的に分布をみる集落形式である。それらの集落は通例、眺望のきく丘陵・台地の末端上に、周囲に濠をめぐらしたような、防御施設をともなうものが多くみられる集落で、比較的短期間に営まれたものである。一般に弥生時代の集落は、水稲耕作の開始によって、水辺の低地帯に営まれるのが常則であるように思われる。
しかし、特定の地域に、特定の期間を限って、その常則を破った、特異な集落が存在することが、戦後になって確認されて、注目を集めるにことになった。

高地性集落についてやや共通した特色というと
@ 弥生時代の生活が農耕生活を基本としている・・・特に水稲耕作を営んでいる生活では、水田=耕地との関係を考えると、それとの連絡はきわめて不便である。そこで最初は、高地性集落は水稲耕作ではなく、畑作農耕のための集落ではないかと考えられたことも。
A 他の集落との連絡にも不便である。
B 高地・・・丘陵頂上、丘腹に集落が立地しているから、風雨の被害が大きく、集落として日常生活を営むには不便であり、決して得策ではない。
C 特にここで生活をするのに一番困るのが、飲料水をはじめ、用水が不便なことである。
付近に湧水がある場合以外は、下方の谷川が、低地の湧水の場所まで行って必要な水を汲みあげてはこんでこなければならない。

 以上は日常生活の上できわめて不利な条件で、特に弥生の水稲生活の面からいうと、低地の住居に比して日常生活性の乏しい集落といわなくてはならないが、その反面、また低地性集落には得られない利点があげられる。
@ 眺望がよい。近辺の低地を眼下に見下ろすことができるし、かなり遠方まで視界に入る。そして他の近辺の高地性集落はじめ、低地性集落をも視認できるような位置を選定して営まれている。
A 戦闘と限らず、あらゆる状勢を見張ることができる地点を占めているし、何らかの緊急の連絡のためには、合図の信号を受け取り、また発信して必要な者に通達する便利があり、監視所や、のちの烽(のろし)のような通信所という性格をもっている。
B もし戦争でも起こった時には、防御に対してきわめて有利である。非戦闘員〜老人・子ども・女子らを避難させて生命を守るのに都合がよく、また攻撃を受けた時ここに立て籠もれば防戦戦略上の要地となり得る。

 昭和34年秋、大雨があり崖面の上部が崩落した。その落下した土の中から多くの土器が発見され、ここに「南山遺跡」の存在を確認されたのである。交野市では標高215bといった高所の遺跡であり、採集された土器もすばらしいことから「南山弥生時代住居遺跡」の石標を立て顕彰につとめてきた。

   
                
   
       
=編集後記=
 このような不利な点と有利な点を想定すると、高地性集落の一般的性格として、日常性から言うと不利、しかし、非常事態に対処するためという・・・非日常性から言えば有利。
「南山遺跡」は今後、何を語ってくれるのか?             =了=



2008.10.3 発行(228)

 =今日の一言集より= 「やるだけのことはやった」

重要なのは、「すべて」を完ぺきにやり抜くことではありません。
そうではなく、「やるだけのことはやった」と思えることが大切なのです。

やるだけのことはやった、と思えるのは、本当にやっている時か、大きな勘違いをしている時か、そのいずれかだろうと思う。

だいたいは、やるだけのことはやった、なんて思えずに、不安な気持ちがよぎるはず…
しかし、その気持ちを消すために、もっともっととがんばったところで、さらなる不安が募ることも珍しくない。
やればやるほど、うまくいかずに足りないところが見えてくるからだ。
何もがんばっていない人ほど、自分の足りないところに出会うことが少なく、平常心でいられるっていうこともあるかもしれない。
もちろん、その後で、現実をまざまざと見せつけられることになるけれど。

 足りないところはまだまだいっぱいあ るけれど、やるだけのことはやった。
あとは、本番で、それを出し切る精神状態をキープすればいいんだ、という気持ち。
それをつかみたいものです。

=編集後記=
写真は、星田:村中の石仏さん

文と写真は関係ありませんが、しかし私も「やるだけのことはやった」と言えるような日々にしたい・・・。           =了=


2008.10.2 発行(227)

=鉄製の農具で農業は飛躍的に進歩した=
 現代の生活をささえる大切な金属はいくつかあるが、その中で鉄ほど大切な金属はないといってもよい。その鉄は、5000年以上も昔から用いられてきた。
鉄の利点は青銅よりも強じんなことである。青銅は固さを増そうとして、錫などをまぜると、極端にもろくなるという欠点があるが、鉄なら、それほどもろくならない。
 また、鋳造しかできない青銅に対して、鉄は鍛造もできるので、生産でいっそう優れている。折りまげたり、伸ばしたりして加工できるほうが、いろいろな道具をつくりやすいのは当然のことである。こんな利点を持つ鉄も、精錬技術のむずかしさが欠点だった。銅と比べて融点が高く、溶かして製練することがむずかしいことから、その実用までには時間がかかった。日本で鉄の生産をはじたことがはっきりしているのは、6〜7世紀からで、それ以前のことははっきりとわかっていない。小規模な鉄生産は行われていたかもしれないが、鉄の材料の大部分は、輸入に頼っていたと考えられている。

 鉄にはいろいろな利点があるから、鉄材が十分に供給されるようになった古墳時代前期からは、実用的な道具は、ほとんど鉄でつくられるようになった。一般に鉄製の農工具が行きわたると、農業の生産性は一度に高くなる。つまり、鉄の鍬やに鋤によって、耕地をいっそう深く耕すことができた。また、それまで耕すことができなかったような荒地も堀りおこすことができるようになった。
 
 現在発見されている古墳時代の鉄製の農具や工具の多くは、古墳から出てくる。一般の人々の住居からはあまり出土しないで、権力を多くもった者の墓のなかから出土しているということは、こうした鉄製の農工具が権力者だけの持ちものであったことをあらわしている。しかし、どの農工具も実用的なかたちをしていることからみて、実際に使われたものであることはまちがいなく、道具を所有する権力者の支配下で、人々がこれを使って働いたのであろう。そして、持ち主がだれであろうと、こうした鉄製の優れた道具のおかげで、農業の生産はぐんぐん高まったにちがいない。古墳からは武器もたくさん出る。鉄は、農工具だけではなく、武器にも使われたが、これはたいへん優れていた。

 古墳時代前期には、まだそれほど多くはなかったが、中期にはいると、副葬品に武器がどっさり埋められているのがみつかるようになった。どの武器も、古墳にまつられた者がひとまとめにして所有していたものであった。どれだけの武器を持っているのかが、その勢力の強さを左右する大切なものさしになった。このように、鉄製の道具は、農業生産の力と武力という、古代の社会の二つの基本的な力を支える大切なものであった。鉄製品を生産し、所有する力が、その勢力の大きさをあらわしているともいえるのです。

=編集後記=
 交野東車塚古墳からは多数の鉄製副葬品が埋納されていた。


         
 
 



2008.10.1 発行(226)

=神無月(かんなづき)=
 旧10月を一般には神無月というが、ひとり出雲の国では神在月(かみありづき)という。それはこの月中多くの国々では神々が出て行かれるが、逆に出雲の国では集まって来られるからだということは、今でも民間伝承として広くゆきわたっている。
いったいなぜこのようなことがいわれ出したものか。文献からみると、かなり古くすでに平安時代の終わり頃にはいわれていたことがわかる。治承元年(1177)になくなった藤原清輔の「奥義抄(おくぎしょう)」に神無月という言葉の解釈として「天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと(異)国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」というふうに説いている。その後このことは時代とともに多くなくなる。
ところが、そのうち南北朝時代の中頃になると、その言い方が少し変わってきて、神々は出雲といってもただ漠然というのでなく、ある特定神社へ行かれるのだというふうになってくる。ではどこへ行かれるのだというと、貞治5年(1366)の『詞林菜葉抄(しりんさいようしょう)』に「諸神ハ彼ノ浦神在ノ社ニ集ヒ玉ヒテ、(中略)神号佐太明神ト申ス也』とあるように、今の鹿島町の佐太神社へ行かれるというふうになってくる。                
こういう言い方があとしだいに多くなる。ところがさらに下って戦国時代になると、この参集の社が突然出雲大社に変わってくる。文明13年(1481)の『日本紀神代抄』に
「十月ニ出雲大社ニ諸神会集シタマフ。故ニ神名月ト云フ」とあるあたりがそのハシリであって、これから後は一方という方もなくなりはしないが、それよりも出雲大社という方が格段に多くなる。そのため地元は別として、全国的には、この10月の神集いというのは、つまるところ神々が出雲大社へ行かれることだというふうにきまってくるのである。
では今日、この10月の神集いという伝承がどこまで広がっているかというと、おおまかに北は青森県の下北半島から南は鹿児島県のトカラ列島に至るまで、北海道と奄美・沖縄・八重山諸島とを除くほぼ全域にゆきわたっていることが知られている。

  

=編集後記=
 10月には15日を軸に秋祭りが行われます。一年に一度鎮守の森に太鼓がこだまします。
あなたの町では、どんな秋祭りがおこなわれますか?        =了=


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