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交野歴史健康ウォーク 第182回

私部の墓〜石仏の道を歩く

2019.4.13(土) いきいきランド 午前9時集合

行程 : 交野ドーム → 私部惣墓 → 上河原の私部村落跡の碑 → 開元寺跡碑
 →神宮寺遺跡→石仏の道(5ヶ所)→旧交野中学プール跡の石仏群  約 6km徒歩


案内:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)
     
参加者 22名(会員17名)

 満開の桜も散り始め桜吹雪の中、22名の元気な仲間がいきいきランドに集まり、第182回の交野歴史健康ウォークは盛大に開催されました。高尾部長の挨拶で始まり、平田会長のユーモア一杯の開会の挨拶を合図に石仏の道へと出発しました。
 先ず私部のお墓に寄り、付近の宅地開発で無くなる恐れがあった官田のお地蔵さんを訪ねた。整然と祀られた無縁墓の中に綺麗なお顔をされていて、ひときわ目立つ存在である。いつまでも大事にいて下さいと祈るばかりである。
 「つづり方兄妹」のふうちゃんのお墓も久しぶりにお参りしました。平田さんより、当時の詳しいいきさつの話をして下さり、「つづり方兄妹」の映画が見たくなりましたとの話で盛り上がりました。機会があれば是非とも再上映したいと思います。

 上河原の私部村落跡〜神宮寺の賽ノ神〜石仏の道へと進み、開元寺跡碑・神宮寺遺跡など詳しく説明を受けた後、岩倉開元寺への参拝道をゆっくりと上りながら5体の石仏を案内頂きました。交野山への登り口まで急坂を上がり、ゆっくりと下り、第二京阪国道が見渡せるところで全員で記念撮影。最後は、旧交野中学プール跡の上に祀られている石仏群を訪ね、いきさつや由来などが不明で宿題となり、倉治公園で柔軟体操で身体を整えて解散となりました。

レジメの作成や現地の案内など高尾秀司氏に大変お世話になりました。
記して感謝申し上げます。

石仏の道への登り口で記念撮影
古文化同好会ウォーク・石仏の道を歩く レジメ
 
 
 
 
 いきいきランド 交野ドーム前に集合
 
高尾部長の挨拶で始まり、平田会長のユーモア一杯の開会の挨拶を
合図に石仏の道へと出発しました。
 
 
私部のお墓
 
 
 
整然と祀られた無縁墓の中に綺麗なお顔をされていて、ひときわ目立つ存在である。
いつまでも大事にいて下さいと祈るばかりである。
 官田のお地蔵さん
 もともと官田のお地蔵さんと呼ばれて「私都南」の田の畔にあったが宅地開発に伴って無くなる恐れが出てきたので或る篤志家によりこの私部の墓地に移されました。現在はここの無縁墓地の一画に写真の如くに安置されております。
私部の共同墓地に立ち寄り、私部の官田に祀られていた中筋地蔵さんを確認。
中筋地蔵(石仏)を移設
私部の官田内に祀られていた中筋地蔵が宅地開発によって取り除かれようとしていたのを平成24年8月に本会の会員である綱分清美氏が発見し、副会長の平田政信氏に連絡。さっそく移設について地元の私部区長さんにお願いし、私部区の共同墓地内にある無縁墓に移設して祀られることになりました。お2人の努力によって文化財の散失が未然に防ぐことが出来ました。
 
北田家のお墓
つづり方兄妹のお墓にお参りしました。 
 
 
 
「つづり方兄妹」のふうちゃんのお墓も久しぶりにお参りしました。平田さんより、当時の詳しいいきさつの話をして下さり、「つづり方兄妹」の映画が見たくなりましたとの話で盛り上がりました。機会があれば是非とも再上映したいと思います。
 

映画「つづり方兄妹」物語

No42(2009.11.14)     平田政信さんのよもやま話より
   

Q:映画「つづり方兄妹」物語について 

A:戦後台湾から引き揚げて校区東香里に住む野上丹治・洋子・房雄兄妹の作文は、昭和26年から32年頃までの学校や周囲のできごとなど、のびのびと書いた作文で、新聞・雑誌などに当選、なかでも房雄が2年生のとき作った『ぼくらの学校』はモスクワ国際児童つづり方コンクール1等賞を得た。そうしてこれらの文集が理論社から昭和33年4月に刊行。すぐれた作品集だったので、話題が呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。
交野でも、交野小学校の近くで映画ロケがあり、大勢の人々が見学した。
  

【ロケ見学の感想】
 野上家の墓地は私部共同墓地内にある。
ふうちゃんの野辺の送りのシーンでは先生役の津島恵子・香川京子さん、そしてふうちゃんの女友達の二木てるみさんを身近でみることが出来ました。

女優、津島・香川さんの美しさに小5だった私はその時、思った。お嫁さんにするならこのような美しい女優さんと、そして私の嫁は、この二人をたして2で割ったような人である。
(笑・笑・大笑い)
ちょいちょい「ふうちゃん」のお墓にお参りさせていただいております。

(製作会社)東宝スコープ  監督:久松静司  脚本:八住利雄
(配役)房雄:頭師孝雄 まち子先生:津島恵子       
    房雄の女友達:二木てるみ

    
   平田政信さんのよもやま話
    http://murata35.chicappa.jp/yomoyamaqa/index0907.html#42


  2001.7.11 東高野街道を歩くB より
     http://murata35.chicappa.jp/shuhenkaido/higasikoya04/index.htm

 
 旧陸軍造兵廠・香里製造所跡

   〜現公団香里団地内〜

 枚方には明治中期から陸軍の禁野火薬庫が置かれ、昭和12年(1937)7月に日中戦争が始まると、陸軍造兵廠の枚方製造所が昭和12年から開設のための工事がはじまり、更に昭和14年から香里製造所の工事が始まった。
 枚方製造所は、100万uを超える広大な敷地に9つの工場が建ち、1万人の工員が砲弾の製造をしていた。香里製造所は日本有数の火薬製造所で枚方製造所で造った砲弾に火薬がつめられ戦争地へ向かった。その輸送には、片町線の星田駅からの引込み線が使用された。
 敗戦後、工場は閉鎖されたが、昭和27年朝鮮戦争の特需ブームにのって、火薬製造会社が旧香里製造所の払い下げを申請した。
 驚いた地元住民はいち早く火薬製造反対の運動を展開した。粘り強い地区の反対運動が実り、昭和28年3月、政府は遂に再開を断念した。そして昭和31年、土地の平和利用の一環として日本住宅公団香里団地の造成が始まった。 
 旧製造所の建物、施設は一掃されて近代的ニュータウンに一変したしたが、ここ香里ヶ丘8、妙見山の一角は団地造成から外れたため、昭和37年枚方市水道局用地となり、旧製造所時代の煙突だけは残った。枚方市は、この煙突を不戦と平和の記念碑とした。

 大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所(香里製造所)を昭和20年の終戦前に交野市の私市に洞窟を掘り移転する計画があった。
 面積は、652u、長さ138m、洞窟5ヵ所、坑木による簡単なもの。立木は終戦時に撤去して現在は3ヵ所の洞窟が残っている。
 つい先日、私は交野古文化同好会のサタディーウォークに参加して3号隋道(奥行き45.3m、総延長73.5m、床面積約147u)を確認した。
その時の様子は、こちらです。


 つづり方兄妹」ものがたり
 敗戦の翌年に開設した香里小学校は、陸軍の施設、病院と事務所を転用した不便なもので、タイル張りや広さがまちまちの部屋を教室に使った。
 運動場は山が迫って狭く、10学級の小さな学校だった。
 昭和27年、火薬製造反対運動の頃、この香里小学校に、野上丹治、洋子、房雄の三兄妹が通っていた。野上一家は、戦後台湾から引揚げてきて旧香里製造所跡の雨漏りの激しい小屋で一家5人が暮らしていた。
 貧しい生活だったが、兄妹仲良く、協力し合って向学心に燃え、社会のこと暮らしの事にも、子どもらしい正義感でみつめ作文(つづり方)を綴った。
 3人の作品は、国内外のつづり方コンクールで一等をしばしば受賞した。そして、1958年3人の作品をまとめて、理論社から「つづり方兄妹」が出版された。
 すぐれた作品集だったので、話題を呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。
 交野でも、交野小学校の近くで映画ロケがあり、大勢の人々が見学したそうである。

※参考 
 理論社名作の愛蔵版
 つづり方兄妹  野上丹治・洋子・房雄作品集
 理論社 1981/05出版 236p
 [A5 判] NDC分類:K915 販売価:\940(税別)
 絶版のため入手不能ですが、図書館には蔵書があるようです。 


2005.3.12
 交野歴史健康ウォーク 69回 私部〜森・私市を歩く より
  http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/kisaiti09/index.htm

つづり方兄妹の墓
 続いて私部墓地に案内され、「つづり方兄妹」の主人公・野上房雄さんの「ふうちゃんのお墓にお参りした。今年の正月の初歩きでも訪れたが、今回の参加者の中には、つづり方兄妹のお父さん(野上さん)をご存知の方も居られて、「屋根のトユを治してもらった事がある」と懐かしく語られていた。

 初歩きのホームページにも紹介していますが、少し触れたいと思います。
つづり方兄妹」ものがたり
 敗戦の翌年に開設した香里小学校は、陸軍の施設、病院と事務所を転用した不便なもので、タイル張りや広さがまちまちの部屋を教室に使った。
 運動場は山が迫って狭く、10学級の小さな学校だった。
 昭和27年、火薬製造反対運動の頃、この香里小学校に、野上丹治、洋子、房雄の三兄妹が通っていた。野上一家は、戦後台湾から引揚げてきて旧香里製造所跡の雨漏りの激しい小屋で一家5人が暮らしていた。
 貧しい生活だったが、兄妹仲良く、協力し合って向学心に燃え、社会のこと暮らしの事にも、子どもらしい正義感でみつめ作文(つづり方)を綴った。
 3人の作品は、国内外のつづり方コンクールで一等をしばしば受賞した。そして、1958年3人の作品をまとめて、理論社から「つづり方兄妹」が出版された。
 すぐれた作品集だったので、話題を呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。

 交野でも交野小学校の北川沿いの道路で、野上房雄(ふうちゅん)の野辺送りの映画ロケがあり、大勢の人々が見学したそうである。
 
 久松静児監督の手により映画化されたのは1958年(昭和33年)。出演者は望月優子・織田政雄・香川京子・津島恵子・森繁久彌・乙羽信子らに、京阪神の劇団関係子役から選抜された藤川昭雄・竹野マリ・頭師孝雄が三兄妹弟に扮している。
11月の古文化の勉強会でビデオを鑑賞し、房雄(ふうちゃん)の次の詩が特に印象的でした。

 「ぼくのところからみると  下の方は ずうっと かたのの のはらや 
    そのむこうに いこま山が むっと たっている 
       あのてっぺんに よう 白いくもがねている
    ぼく あのくもにのりたいねん 百円でけたら でんしゃにのっていく」


 戦後間もなくは、交野も生駒山も香里の地からいまよりもっと近く感じられただろう。その房雄は病気に倒れ、貧しさゆえに入院もできずに死んでいく。房雄の亡骸をリヤカーに乗せて運ぶ際、生駒山を指差した妹の洋子が「(ふうちゅんも)あのくものうえでねているかしら」とつぶやく場面が切ない。
 残念なことに「ふうはちゃん」は8歳で亡くなった

     (2004年11.01 産経新聞を参照しました)



下記は、2008年 日本の旅 関西を歩く 大阪・陸軍香里製造所跡と「つづり方兄妹」を
 参照しました。
  http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10272150/

 戦前、枚方(ひらかた)は禁野(きんや)火薬庫・枚方(ひらかた)製造所・香里(こうり)製造所という陸軍の火薬製造保管施設がある日本有数の爆弾製造拠点だった。戦後陸軍香里製造所跡はニュータウン香里団地に生まれ変わり、当時の遺産は水道局用地となった妙見山配水地(通称エントツ山)に旧製造所汽缶場の20mの煙突が残っているだけだ。当時香里製造所では13歳から17歳までの女学生数百人が1トン爆弾の火薬を作る労働を強いられていた。2008年8月15日の終戦記念日に火薬工場に学徒動員された当時の女学生有志らが非戦(戦争をしない)を誓って「在りし軍国少女非戦の誓い」の碑を旧陸軍香里製造所汽缶場前・末広公園内に建造した。香里製造所で働いていた女学生有志が戦争体験記「女学生の戦争体験」を自費出版し、本の売り上げや寄付金で石碑を建てたそうだ。後世に自分たちが強いられた苦しみを2度と体験させまいとの思いを個々人の負担で伝えようとする行動はすばらしいと思う。

 陸軍香里製造所跡近くにはモスクワ国際つづり方コンクールで第一位を獲得するなど作文の上手な兄妹として出版、映画化もされた「つづり方兄妹」(野上丹治・洋子・房雄三兄妹)の家族(両親と6人の子供・8人家族)が貧しいながらも平和に暮らしていた。ところが1952年に朝鮮戦争の特需で火薬製造会社が旧香里製造所の払い下げを申請、驚いた香里園地区住民は反対運動を起こし国会・政府に陳情を重ねついに火薬製造所再開を断念させ、結果旧香里製造所は香里団地に再開発されたという経緯がある。
このときの反対運動や香里団地開発計画に困惑する子供心を小学校2年生の房雄(ふうちゃん1948−1957)が書いた作文がモスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった。 

(モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった房雄の作文)
    ぼくらの学校
 大阪の野っぱらは、とても、ひろいひろっぱです。そのひろっぱに、おへそのように、ぽこりとふくれた小丘があります。この小さな丘のまん中が、また、おへそのまん中のように、ペコリとへっこんでいます。このへこんだところに、せのひくいほそながいかわらやねが四つと、せの高い、四かくい、そしてまっがにさびた、トタンやねが、一つとあります。
 ここは、もと、たくさんな、へいたいさんが、すんでいました。それが、せんそうもすんで、ぼくたちの学校になったのです。
 けれども、やっぱり、秋が、来たら、きいろいとらのおの花がいっぱいにさきます。その時は、ほんとうに、かやくのにおいがにおってくるような気がします。でも、ぼくたちは、その花をおって、おかの上のおじぞうさんに、そなえるのです。そして、「おじぞうさん、もう、せんそうがおこらないようにまもってね」といっていのります。
 その時、おじぞうさんは、とっても、かわいい顔をして、ニコニコ笑っていらっしゃいます。そして、「そうね、あなたたちみんないいこなんだもの、もうめったに、せんそうなんかおこらないわ。みんなあんしんして、いっしょうけんめい、べんきょうしてね。」といってらっしゃるようです。
 それなのに、ぼくたちは、げんしばくだんの、おっかないお話ばかり聴くようになって来ました。おまけに学校のとなりの森の中に、かやくを作る工場ができるというおはなしが、きまりました。みんな、ほんとうに、びっくりしました。そして、「かやくはんたい」と書いた紙のはたをふってあるきました。
 おかあさんや、先生方は、えんぜつかいをひらいたり、東京のだいじんさまに「そんなことやめてください」といっておねがいに行ったりしました。そして、とうとう、かやくこうじょうは、作らないことにしていただきました。そして、しばらくあん心してべんきょうしていました。
 ところが、また、このごろそうりだいじんから、「お家をたてるから、学校は、どっかへ、ひっこしてください」といって来ました。ぼくらは、このお話を兄ちゃんからきいて、ほんとうにびっくりしました。五百人も子供がいます。そんなたくさんの子どもらの行くところってあるでしょうか。この丘の町は、たいへんとちがせまくて、大かた、山のてっぺんか、坂になっています。小さなお家ならたちますけれども、大きな学校なんかたてるひろっぱは、どこにもありません。
 ほんとうにこまったことになりました。このごろ「おじぞうさん、どうかぼくたちの学校がひっこししないように、おたすけください」といって、いのっています。
(モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった知らせと賞品がとどいたとき、房雄はすでに亡くなっていた。)

今読んでも見事な反戦の作文だ。1950年代は日本中が戦後の貧しさに苦しんだ時代で栄養失調の子供も多かった。モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になりながら結果を知る前に亡くなった幼い房雄の悲劇は1958年の映画「つづり方兄妹」で多くの人たちの涙を誘った。大阪府下の小中学校には「つづり方兄妹」の本が図書館に置かれ、この時代は授業の一環として講堂などで「映画鑑賞」の時間があり、多くの子供たちは「つづり方兄妹」の映画を見て泣き悲しんだ。日本中が貧しく苦しい時代だったが、他人を思いやる人情は現代よりも勝っていたように思う。
野上房雄君(ふうちゃん1948−1957)は交野市私部墓地(かたのしきさべぼち)に家族とともに眠っており、「つづり方兄妹」を知る世代の人たちが今もお参りしている。
 
「上河原旧私部村落遺跡」 
 
 墓地の手前にある細長い池を長池と言い、昔、郡南街道筋から流れてくる北川は、まっすぐ私部の共同墓地の南端を流れていたそうで、粗朶(そだ)という木の枝を切った物を川底に埋め砂を留めて下の長池に水を注いでいたそうだ。現在の北川は、JR学研都市線の手前で、南へ迂回して西へと流れている。

 私部の住吉神社の大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて、北川の川床を引っ張って運び造ったものである。

 大和へ抜ける郡南街道へと東へ行くと、左に倉治墓地、右に寺共同墓地がある。この辺りを尾上という。墓地に入る手前の金網に隠れて見つけ難いが、道の南側に「上河原旧私部村落遺跡」と彫られた石碑が立っている。

 倉治墓地から私部大池、私部墓地辺りは、元禄4年(1691年)傍示谷にほらが吹いて、旧私部の部落が流された所で、上河原という地名がついている。

 また、この辺りの扇状地域には、沢山の松の木が茂っていたが、明治34、35年の頃、関西鉄道(現JR学研都市線)の開通の時切られて四條畷中学(現府立四條畷高校)の校舎の材木に使われた。松を切ったあとに桃が植えられ、春には辺り一面ピンク色に染まり見事なものだったそうだ。

 関西鉄道の唱歌に「星田を跡に津田に来て 見渡す限り桃林 さぞや花時一帯の 紅雲天に焦がすらん」と歌われている
。 その後、昭和35年から36年にかけてブドウ畑に変わった。
地名のミニガイド
上河原
(かみがわら)
奈良県の高山、傍示を通ってきた道(郡南街道〉が交野山の南の背を降りてくる。この道の降りた所からJR片町線を越えて、私部の墓地、大池辺りまでが「上河原」と呼ばれている。この谷から前面、ちょうど上河原の辺りが扇状地性の地形になっている。JR片町線まではほとんどがぶどう畑で占めらている。土地は山から運ばれてたい積した花こう岩の土砂である。水はけは非常に良い。
 この上河原に江戸時代の前期まで私部の集落があった。津田、倉治、寺、森と同じように山のふもとに沿った所であった。しかし、この谷は大雨があると谷川が崩壊した土砂を多量に下流に流し出してしまう。特に元禄4年(1694)の大雨による土砂流出によって上河原にあった集落を押しつぶしてしまったので、それ以後、現在の地に移転したと言われている。地形の形状からは、まるで河原そっくりだということで、私部の上にあるので「上河原」と付けられた。
 
 
上河原旧私部村落跡の碑
 旧私部村は上河原にあったが、元禄時代よりも古い貞享年間、(1684〜1687)山の出水のため山砂の下に埋もれたといわれる。此の事は昭和44年十月の大雨で想善寺の本堂の屋根が崩れ古位牌と共に古文書が見つかり、その古文書から上河原には光蓮寺というお寺があったことが分かり、そのことから旧私部の村がその時、埋もれたことが類推されることになった。
その古文書は一旦住吉神社内にあった現光寺に移り明治の神仏分離で廃寺となり、その後想善寺に移ったと考えられている。
 
 
さいのかみ(塞の神)が祀られている
 神宮寺1丁目の角地(地蔵の辻)に、さいのかみ(塞の神)が祀られている。村に悪魔を入れないように守っていただく神様だと言う。いつもお花が飾れ手入れされている。この辻を東に神宮寺2丁目の住宅街に入り山へと登れば、交野山への石仏の道に続く
 この山麓には、今から約9000年の昔、縄文早期時代に人々が居住していたという。ここに神宮寺縄文早期居住跡、天平時代の開元寺跡の石碑がある。
石仏の道を歩く
 
礎石にしのぶ 
     開元寺

今のところ交野地方で天平以前の寺院で唯一判っているのが、開元寺です。昭和29年神宮寺で天平時代に礎石が発見され、古代当地方に栄えた大寺の果てだとわかりました。
この寺は中世には、山岳寺院として交野山上に移りましたが火災に遭い、その後源氏の滝の口に小寺となって残っていました、明治時代に廃寺となってしまいました。

縄文の遺跡 
  豊かに神宮寺

神宮寺には交野山の登り口に約一万三千年前の旧石器時代、それより200メートル下ったところに約九千年前の縄文時代早期の遺跡があります。特に底部の尖った押型文の神宮寺式土器は、縄文時代早期を代表する土器の一つとして有名です。

神宮寺縄文時代住居遺跡

神宮寺遺跡神宮寺式土器
 昭和31年、交野考古学会(現在の交野古文化同好会)が岩倉開元寺跡調査の時に、石仏の道の弥勒仏坐像石仏から下へ、2枚目の畑の南よりのミカン畑から2点の石器が採集されました。この2点の石器はハンドアックスと呼ばれる握斧とナイフ形石器でした。ハンドアックスは長さ9センチ・幅6センチ・厚さ2センチで、ナイフ形石器は長さ6センテ・幅2センチ・厚さ1センチで石材は共に二上山から採取される讃岐石(サヌカイト)です。

 また交野考古学会による神宮寺地区の調査で縄文時代の石鏃や石器の原石材が発見され、神宮寺付近に縄文時代の集落があることが確実となり、神宮寺遺跡と名付けられました。昭和32年の調査で採集された土器片は縄文時代早期の押型文土器で、遺跡名をとって「神宮寺式土器」⇒
と呼ばれています。神宮寺遺跡では縄文時代の住居は発見されていませんが、炉が5基出土しています。
 現在この石碑は道の反対側に建っている。
 興福寺の官務牒疎(嘉吉元年作)に開元寺として書かているが、官務牒疎は偽書としているが、奥野平次氏によりここから寺跡とみられる、礎石が発見され現在歴史資料展示室の前庭に展示されている。
 従って機物神社の神宮寺としてなんらかの寺があったと思われている。 
 
 
 
 石仏の道 岩倉開元寺への参拝道
 神宮寺の村から廃岩倉開元寺へと通じる道が石仏の道である。
 この石仏の道に存在する弥勒仏坐像石仏、二尊石仏、三尊磨崖石仏、阿弥陀如来立像石仏、阿弥陀三尊磨崖石仏、の5点が、平成14年9月1日付けで「廃岩倉開元寺関係石仏群」として交野市の指定文化財になった。

 石仏の道をあがると、右側に東面して花崗岩の自然石に刻まれた弥勒菩薩(第一石仏)がある。この弥勒菩薩は坐像で、右腕を前に出してまげ、掌を外側に開き、左手は組んだ膝の上で掌を下に向けておいて、くつろいだお姿でおられる。リアルで緻密な線刻描画は、大阪随一の秀作と評され、鎌倉初期の作と言われる。
 まわりは竹薮に囲まれ、しっとりとした趣はいつまで眺めていても飽きない。

 山裾の藪(神宮寺の宮跡)のある北から里のかけて、奈良時代に開元寺と言う大寺が建ち、その寺が鎌倉時代の頃に、交野山の山頂に寺を移し岩倉開元寺と名を変えたといわれており、この道は岩倉開元寺への参道であった。往時、沢山の僧やお参りする人々が通った道である。

 弥勒菩薩から登山道を登ると、右側に細長い池があり、この池の東端の小道に、二尊石仏(第ニ石仏)が西面している。さらに第二の山池を左に見て進むとぐっと南に山道は曲がるが、ここからすぐ右側に大石の頂部が見える。この大石の上部中央に南面して、半円の光背に阿弥陀三尊(第三石仏)が刻まれている。
 本尊は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音・勢至の両菩薩の立像で、文明11年(1475)と彫られている。室町中期である。現在、交野山への登山道(石仏の道)は、この磨崖仏の北側を通っているが、昔は南側の小川に沿って、眼の上に阿弥陀三尊を拝みながら「なんまいだ、なんまいだ」と唱えながら登ったと言う。 見落としがちなので、要注意。
 道の左手に、頭部が少し欠けた阿弥陀さんがおられる。阿弥陀如来立像石仏(第四石仏)である。石仏の頭部右半分や光背の上部を欠損しているが、衣は通肩で来迎印を結んでおられ制作年代は室町時代とされている。石仏のある北側斜面は「鳩が谷」とも呼ばれ、以前ここから骨壺が出土したといい、開元寺の墓地であった可能性があり、この石仏も墓地に伴う供養のために造立したと考えられている。

 この山道を更に、登ると左に傾いた大石がある。その上部切り込みの光背の中に阿弥陀三尊(第五石仏)が刻まれている。高さ3mほどの花崗岩に、仏の高さ40cmの本尊阿弥陀如来が蓮華座に坐し、これよりやや下側の両脇には、第さん石仏同様、観音菩薩と勢至菩薩の二仏が蓮華座の上に立っている。また、第二石仏同様に室町時代中期の作といわれている。右側の菩薩が赤茶けているのは、開元寺の火災の時のものともいわれている。
 雨上がりの朝、こもれびが射す頃の石仏の美しさを皆さんも是非ご鑑賞下さい。きっとご満足されるでしょう。近いうちに、是非とも石仏の道をお尋ねください。
廃岩倉開元寺石仏群・石仏の道   交野市指定文化財 平成14年9月1日指定
 言い伝えによると岩倉開元寺は神宮寺にあった開元寺を移したといわれている。
最近ではその開元寺の存在が疑われております。しかし岩倉開元寺が存在したことは発掘調査の結果、その実在が確認されております。この山道に石仏は五体祀られております。
石造弥勒菩薩坐像 

鎌倉時代の作とされている
岩全高180p、像高101cm、花崗岩製

神宮寺の集落から交野山に向かう登山道は「石仏の道」と呼ばれ開元寺跡の石碑や縄文時代住居跡の石碑前を過ぎて、山手にさしかかる所に弥勒菩薩坐像が東向きに立っており、岩倉開元寺の境域を示す傍示石と考えられています。像は二重円光光背の内に薄肉彫りの坐像です。首に三道をあらわし衲衣を纏い右手は胸前に挙げて施無畏印を、左手は膝前に掌をふせて触地印をあらわし、蓮華座の上に座っています。顔の表情などにやや稚拙さが感じられるものの、おおらかでゆったりとしたすてがたい表情をしています。
二尊石仏 

造られた時代は不明
総高40cm、阿弥陀立像11,4cm比丘形12,0cm

弥勒菩薩坐像石仏から更に登ると南に分かれる小道があり、その分岐点付近に西面して当石仏はあります。高さが40cm程の小さい石仏であるが向かって右側の像は比丘形(びくぎょう)向って左側は阿弥陀如来像とみられるが磨耗が激しいためその姿をよく知ることは出来ないが、比丘形像は両手を胸前に挙げて合掌印を結んでおり阿弥陀像は手を前にして定印を結んでいるよう。比丘とは托鉢する修行者や出家得度して修行した人をいう。


磨崖三尊像 
室町時代の作・岩全高3.4m、石仏龕全高43cm

石造弥勒菩薩坐像からさらに山道を登ると川の懸崖石上方部に南面して半月形の繰り込みを造り、その中に三尊の石仏を半肉彫りしています。これは昔石仏の南側に参道があった為南面しているといわれている。中央の仏は衣を通肩にまとい、蓮華座の上に坐り、両手を膝前で組み弥陀の定印を結んだ阿弥陀如来と考えられます。両脇には合掌する比丘形の立像を彫りだしており、阿弥陀三尊とするにはやや無理があり三尊像と呼んでいる。中尊像向かって右側に「文明十一年己亥二月日」、左脇に「道満敬白」の刻銘があり、1479年の作と判ります。又石仏の外側の脇には阿弥陀如来の種字「キリーク」が刻まれています。

阿弥陀如来立像 

室町時代の作・全高43cm

磨崖三尊仏の直ぐ北側に、阿弥陀如来立像(市指定文化財)があります。船形光背の内側に阿弥陀如来立像が肉彫りされていますが、頭部右半分及び光背の上部を欠損しています。像容は首に三道を表し、衣は通肩にまとい、右手を胸前に挙げ、左手を下げた来迎印を結んでいる。この石仏さんの後ろの斜面は「鳩が谷」と呼ばれ、以前にここから骨壷が出土したと伝えられており、岩倉開元寺の墓地であった可能性もあります。その為、この石仏も墓地に伴う供養のためのものとも考えられます。「鳩が谷」という名前も「墓が谷」がなまったものではないかとも思われます。
磨崖阿弥陀三尊像(室町時代の作)

参道をさらに登り、標高160mほどのところに岩倉開元寺の寺域への登り口があります。この登り口の手前に阿弥陀三尊磨崖石仏がおられます。高さ2.5mの巨岩に彫られており、真ん中に阿弥陀如来坐像、右側に観音菩薩立像、左に勢至菩薩立像が半肉彫にしています。中尊の阿弥陀如来坐像は蓮華座上に坐り、衣を偏祖右肩にまとい両手は膝前に組んで弥陀の定印をむすんでいます。膝の衣文の表現は省略されています。向かって右側に合掌して蓮華座に立つ勢至菩薩は簡単に頭髪部と眉目を表し、衣文の表現もほとんど省略し、蓮華座も腕状の輪郭のみ表現されています。左側の観音菩薩立像は両手の上に蓮台らしきものを持っています。像の表現は勢至菩薩と同じで簡略化されています。この石仏さんは西に面していることから、西方極楽浄土への往生を願って作られたのでしょう。

神宮寺先縄文時代遺跡(神宮寺石器時代遺跡)
神宮寺先縄文時代遺跡(神宮寺石器時代遺跡)
 昭和31年の秋、石仏の道の弥勒菩薩の磨崖仏の下、二枚目の畑の南寄りのミカン畑でニ点の石器が採集された、一つはサヌカイト製の握斧式石器(ハンドアックス)長さ約9cm幅6cm、もう一つは同じくサヌカイト製のナイフ形石器、長さ6cm、幅2cmである。
今から2万5千年前と考えられている。握斧式石器は日常の狩猟にも、また人と人との闘争にも使われたと考えられている。

 弥勒菩薩坐像(第一の石仏)
 弥勒菩薩坐像(第一の石仏)
 「石仏の道」を登って開元寺跡の石碑や縄文時代住居跡の石碑を過ぎて、山手にさしかかる所に弥勒菩薩坐像(市指定文化財)があります。この石仏は、やや稚拙さが感じられるものの、おおらかでゆりたりとした表情をしています。造られたのは鎌倉時代の始めごろとされ、山頂近くにあった岩倉開元寺の境界を示す傍示石と考えられています。この石仏群では一番古いものである。

 二尊石仏 (市指定文化財・第二の石仏)
 二尊石仏 (市指定文化財・第二の石仏)
弥勒菩薩坐像石仏から更に登ると南に分かれる小道があり、その分岐点付近に西面して当石仏はある。高さが40cm程の小さい石仏である。向かって右側の像は比丘形左側は阿弥陀如来像とみられるが磨耗が激しいためその姿をよく知ることは出来ない。比丘とは托鉢する修行者や出家得度して修行した人をいう。
 
 三尊磨崖石仏 (第三の石仏)
 三尊磨崖石仏 (第三の石仏)
さらに登ると「文明十一年」(1479年)の銘が入った第三の石仏がある。三尊磨崖石仏(市指定文化財)が石仏の道に背をむけた形で立っている。以前には向いに登山道があったといわれる。高さ3.4m、幅3.7mの巨石に阿弥陀三尊を半肉彫し、枠の外側の脇には阿弥陀如来の種字「キリーク」が刻まれている。真ん中に阿弥陀如来、右側に観音菩薩、左に勢至菩薩(この逆の位置という説もある)を従えていると見られるが、研究者によっては両脇を比丘形とする意見もあります。
 
阿弥陀如来立像 室町時代の作・全高43cm
阿弥陀如来立像 (第4の石仏)
第三の石仏の直ぐ北側、道をへだてて、阿弥陀如来立像(市指定文化財)があります。この石仏さんの後ろの斜面は「鳩が谷」と呼ばれ、以前にここから骨壷が出土したと伝えられており、岩倉開元寺の墓地の入口であった可能性もあります。「鳩が谷」という名前も「墓が谷」がなまったものではないかとも思われます。残念ながら、この石仏の右頭部が少しかけております。
 
 
磨崖阿弥陀三尊像 (室町時代の作)
 磨崖阿弥陀三尊像 (第5の石仏)
山道をさらに登り、標高160mほどのところに岩倉開元寺の寺域への登りロがあります。この登りロの手前に第5の石仏さん、阿弥陀三尊磨崖石仏(市指定文化財)があります。高さ2.5m、幅2.1mの巨石に彫られており、真ん中に阿弥陀如来坐像、右側に観音菩薩立像、左に勢至菩薩立像が彫られています。(逆の説もある)この石仏さんは西に面していることから、西方極楽浄土への往生を願って作られたのでしょう。

 「牛まわしの石」
 石仏への道を上がり、神宮寺縄文時代住居遺跡の石碑を右手に折れて、次の辻を左へ行くと、右手の田圃のあぜ道に「牛まわしの石」がある。昔、1月3日に農耕用の牛を連れてきて今年もまた1年、牛が健康でよく働きますようにと祈ってこの石の周りを何度も回ったと言う。
 
 
 
神宮寺の塞ノ神
 
旧交野中学のプールの上に交野里山ゆうゆう会の作業場が建てられている

 謎の石仏? 分かりましたら教えて下さい!
旧交野中学のプールの上に祀られている
 
 
 
 
三光明神さん?
 
岩浪明神?
 
 
 倉治公園で柔軟体操後解散しました
 
 

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