ホームページに戻る

交野の物知り辞典
(よくある質問と回答)

地名・古道について  

  • 私市(きさいち)、森(もり)、寺(てら)、私部(きさべ)、傍示(ほうじ)、倉治(くらじ)、郡津(こうづ)、星田(ほしだ)の地名の由来を教えてください。
    市内の地名の由来は? 詳しくはこちらへ    
  • 「はたやま村」って今のどのあたりですか?
 は村の位置を変えている。最初の寺の集落は交野高校の北側、今池(昭和60年に埋め立てられた)の南の田んぼの中であった。小字名は「いまい」と言っている。それは弥生時代、稲作を中心とした集落で、村の名を「てるは」と呼んでいた。
 しかし、古墳時代になると大陸から新しい文化が入り、また、渡来人もやってきた。
 彼らは進んだ文化、技術を持っており、大和、山背、河内のあちら、こちらに居を構えた。交野の地にもやってきた。津田山(津田)、交野山(倉治)、竜王山(寺)の三ヶ所に別れて住んだが、彼らは製糸や機織の技術に優れたものを持っていた。寺の背後にそびえる竜王山のふもと、現在の寺の集落の地に住んで機織を専業とした。この村の名を
「はたやま村」と呼んだ。進んだ機織の技術を持って生産した製糸は、当時の日本においては高級品であった。それゆえ、この村の支配者(豪族)は相当の力を持っていたであろう。寺の周囲に点在する多数の横穴式古墳が存在することでも、そのことがうかがえる。

  • スタコ坂の地名の由来は?
   『スタコ坂(砂子坂)』のことですが、交野市文化財事業団(TEL0720-93-8111) に聞きましたところ次のようです。

『スタコ坂(砂子坂)』のスタコは古くは「スダコ坂」と言っていたそうで、北田家(私部の代官屋敷)の古文書にも書かれていて、天の川の中州?で、土砂で出来た小高い台地で、今の交野駅や梅が枝団地(旧地名の西の口や長砂(ながさ))へ下る場所で、「砂子坂「スダコ坂」」と付けられたとのことです。

スタコ坂(砂子坂)に架かる橋 ☆砂子橋
 
逢合橋の東、加賀田用水と前川が合流するところに架かっている橋を砂子橋といい、逢合橋に向って渡った左に水車があった。

 
私部の西、スーパーニチイ交野店(現在閉鎖されている)の西、天野川の堤防の交差点に「スタコ坂」の標識が揚がっている。
 この位置は私部西ノ口から出てきた道(交野市青年の家、武道館の北側の道)が天野川の堤防(前川の堤防)に上がった所になる。そして、この道は逢合橋を通って、上ノ山で東高野街道と交わる。
 「スタコ」の意味であるが、一つには、前川が天野川に合流する地点であるので、昔は、はん濫もあったであろうし、また、土砂のたい積も甚だしかったであろう。とすると、洲(す)が発達する。いわゆる中州である。この中州が大きくなって冠水する心配もなくなると村人はこの洲の開墾を始める。初めは畑、後には田んぼということになるが、砂地であるため水もちが悪い。いわゆる洲田(すだ)である。陸稲(おかぼ)であれば良かったかもしれない「スタコ」の「コ」は接尾語と思われる。例えば「銭(ぜに)」を「ぜにこ」とかいう言い方がある。これと同じである。その洲田のある高台へ上る坂という意味である。
 二つ目は、「洲坂(すさか)」である。中州に上る坂道という意味でこれも的を得ていると考えられる。(現在、交通の要衝「スタコ坂」)
 三つ目は、「守(す)」、防御の意味である。西ノロの出入口に当たる。西の防御の必要から東高野街道からの出入りの守りとして天野川や前川があることは好都合であった。その位置か中州であったので「守田(すだ)」となったというのである。
 いずれにしろ、前川と天野川の合流点に発達した中州が開墾され、その中州への連絡道路に対する坂道であったということである。

交野市の旧地名を見てみますと、現在、天の川が流れていて、逢合橋が架かっている 南北の細長い付近を「天の川」と言い、東側は「西河原」(現在の私部西3丁目から天野が原2、3丁目)、其の東の地区を「西の口」 ( 『スタコ坂(砂子坂)』から東のサティーから 京阪交野線を跨いで、青年の家当りまで)と言います。
「西の口」 の北側(天の川の東、梅が枝住宅団地から京阪交野線を跨いで、長宝寺小学校の南側から交野病院までの区画)を長砂(ながさ)と言います。
長砂(ながさ)は、「ながいすなち」が縮まって「ながさ」になった。この一帯は、天の川、免除川の合流地域で、両川の氾濫がしばしば起き、ときには堤防が決壊して洪水になることがあり、全体に低湿地地帯であったようです。
私部を流れる前川が『スタコ坂(砂子坂)』の西側を流れて、交野市環境事業所のあたりで、天の川に合流している。
昔の天の川は、暴れ川で蛇行して現在の何倍も大きなものだったようです。
岩船小学校付近の小字名「船戸」は、かって天野川の船着場であったと言われるところから、古い天野川の増水時の川幅は、広い所で1キロ以上はあったのでしょう。

現在の逢合橋の長さが34.7メートルで、江戸時代寛延2年(1749)の記録では 天野川川幅平均70間(126メートル)で、現在の川幅の3.7倍も広かったことが明確です。

私市から枚方まで 天野川流域には、昔の川原の広大であったことを裏付ける小字名が多数記録として残っており、一例を挙げますと、府道久御山線に架かる交野橋の東、即ち 天野川の右岸の小字名に東川辺、中川辺、西川辺があり、現在は天野が原1丁目〜5丁目となって宅地化されています。(交野市史など参照)

  • 東高野街道とか交野の古道について教えてください
   現在、確認されている古道としては、次の六つの道があります。
    地図はこちらです。
1.磐船街道 2.山根街道(山の根道) 3.かいがけの道
4.東高野街道 5.東枚方街道 6.星田妙見道



ホームページに戻る    交野の物知り辞典へ戻る