山の根の道と山根街道


  交野古文化同好会歴史健康ウォークで歩きました!
 
 2009.5.9(土)     歴史健康ウォーク  (第95回)
             交野古道 山根街道を歩く
  行程;JR津田駅→堂の前の道標→市場橋→札の辻橋→上ん山の辻 徒歩 約 5Km
 
    交野の古道・山の根の道 (その1)を歩く
    交野古道・山の根の道  (その2)を歩く
   交野の古道・山の根の道 (その3)を歩く
    交野の古道・山の根の道 (その4)を歩く

山根街道・神宮寺付近 山根の道

 二上山周辺はサヌカイトが豊富に産出し、旧石器時代(約一万年〜二万年前)から石器、石材の安定した供給地であった。 原材料のサヌカイトを媒体とした交易道が考えられる。即ち、二上山西麓−−生駒山西麓−−枚方台地のコースである。山麓の獣道が旧石器時代の踏み分け道として活用され、更に、それが本格的な道として利用されるようになったのであろう。

交野方面の旧石器時代の遺跡は、藤阪宮山−−津田三つ池−−神宮寺−−星田布懸(ほしだのうかけ)−−打上−−忍ヶ丘というように、山根道に沿って続いている。

山根道は山の麓を廻りながら進み、街道沿いに村落ができ、神社や寺院が建てられて、この地方の重要な道となった。

古代における山根道の正確な道筋については、不明であるが、現在残っている古記録によると交野市内では三つのルートがあったことがわかります。

1.「河内国興地便覧」(明治二年)天田宮神社から私市の山手を通るももえがはらばしの大ケヤキの樹

長尾北峠ー長尾ー藤阪ー津田(天平の津田寺、治郎兵衛宮、古城)ー野ー倉治(清水谷古墳、倉治古墳群、機物神社、開元寺)ー神宮寺(早期縄文)−(弥生中期、徳泉寺)ー森(弥生中期、須弥寺)私市(弥生中期、天田神社)―星田(弥生中期、星田神社、星田寺、円通院、新宮山八幡宮、愛染津院)―大谷ー打上から南へ続く。

2.「旭尋常小学校郷土誌」(大正六年)

「磐船村大字私市より来り、星田村を東西に貫通し、学校側を西に寝屋に貫走す。」と記載されている。学校側とは、星田駅南にある旭尋常小学校を指し、当時は私市から星田の村中をとおり、駅の南から西へ寝屋に通ずる道を「南山根街道」と呼んだ。津田ーーから私部に出る街道・私部北田家代官屋敷の前なお、星田村役場財産原簿に駅前の「4009番地の3の1畝13歩」その他三筆を、南山根街道道路敷地として、明治39年に村が購入したと記されている。従来の道は利用が減って、駅前を通るルートがこれに代わるものとして、整備されたのである。

3.「枚方市史」

「八幡ーー志水ーー長尾ーー藤阪ーー津田ーーから私部に出る街道も山根街道を称されて、往来がひんぱんであった。」と書かれている。この山根街道は、私部の西、上ん山(うえんやま)が終点で、大正天皇御幸記念碑の前がそれであり、本尊掛松の前を東高野街道が通り、その分岐点に道標が二基建っている。
明治37年に大阪府が建てた道標には「山根街道私部、津田、山城道」とあり、「山根街道」と書かれた道標はここだけである。

上ん山(うえんやま)
山根街道の石標あり

本尊掛松遺跡大念仏寺 天野川ににかかっている逢合橋を西に越えると、左前にある薮のある小さい丘が目に付く、この丘を「上人松」とか、「お野立所」とか「上ん山」と呼んでいる。

(現在では、建物が建ち並び見えない。府道20号線を「逢合橋西」より50b南に下がると見える)

ここへは、逢合橋を渡ってまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、30bほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある。それに続いて玉垣の中に大きい地蔵様がおいでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳年(1845)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。

ここ「上人松」にこんな伝説がある。

東高野街道と山根街道の分岐点・上ん山の辻 後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗 に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように。」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。

両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。

以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。そこから薮の坂道を左にとると、すぐ山根街道と交わる。

左が東高野街道、右が山根街道の分岐点(うえん山の辻) 東高野街道と山根街道の分岐点・上ん山の辻

この分岐点の辻に、上ん山地蔵がおられる。 地蔵様の光背には「私部村地蔵講中 享保十乙巳年(1725年)3月24日とある。また「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」の大きな道標があり、その南側の小さい道標に「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。

元弘の乱(1337)で北条方が楠正成の下赤坂攻めにこの道を急ぎ、近畿平定には織田信長もここを通って岩倉開元寺を焼かせ、足利義昭の反抗の時には秀吉が義昭をつれて急いだと言うこの道は、なるほど権力の道だ。

大正天皇の「閲武駐蹕記念碑」 真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。

道を隔てた東には、「閲武駐蹕記念碑」がある。大正3年(1914年)大正天皇がここで陸軍大演習を統監されたことを記念して建てられたものである。

ここで、「東高野街道」と「山根街道」が一つになって星田に伸びている。


「星田歴史風土記」及び
「ふるさと交野を歩く(里の巻)」を参照