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交野市の発祥略史年表

「交野市史」より抜粋

古代の大阪

縄文時代の大阪湾・河内湾

古代の大阪は、大阪湾につながった河内湖が現在の大阪平野から生駒山麓まで広がり、上町台地が半島のように突き出ていたところでした。
現在の大阪のまちは、"水" をルーツに、その後の長年の土砂の堆積と人工の埋立て・開削によってつくられていったものです。

 大阪は海に面し、背後に奈良をはじめ近畿地方の諸地域を控えていた要衝の地であり、「難波津(なにわづ)」と呼ぱれた国際港が設けられていました。
4世紀の後半から、朝鮮半島や大陸などとの交流が盛んに行われるにつれ、海外の文化・技術・情報などを受け入れるわが国の国際交流の窓口としての重要な役割を担っていました。
7世紀に難波津に近い場所に「難波宮」が造営されてからは、大阪はわが国の政治・文化の中心地であっただけでなく、渡来人たちも居住する国際都市でもありました。


紀元前1.8満年、交野市神宮寺山麓に 旧石器文化はじまる。 など、下記に
ご紹介します。 交野市の古代年表をご覧ください。


西紀年数 日本年号
事項
標準事項
前1.8満年
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この頃から交野市神宮寺山麓の地に、握槌(ハンドアックス)を持った旧石器文化始まる(昭和31年交野考古学会の発掘調査による) この頃まだ日本にマンモス象がいる
前7500 縄文時代 交野市神宮寺山麓に早期縄文時代の文化あらわる(昭和31年交野考古学会の発掘調査による) 現在の富士山噴出はじまる
約 100 弥生時代中期末 交野町星田ぼうりょうに弥生時代中期時代の文化あらわれ、この付近から始めて稲作おこなわれる 中国後漢のはじめ
約280 弥生時代後期 この頃肩野物部氏(かたのもののべし)の祖先伊香色雄(いかしこお)命大和から磐船谷を下って天の川地方に入り、枚方伊加賀に住んで、この沿岸に農耕文化をひろめる(大日本地名辞書) 中国後漢末から三国時代
約290 弥生時代後期 この頃交野南部で農耕を主とする村落
1.寺村たつみ山−今池付近 2.寺村みなみ山3.倉治変電所の北の高地4.森遺跡5.郡津西の町6.私市天田の宮(きさいちあまだのみや)7.私市河原の東など(交野考古学会調査)
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290 弥生時代後期 物部氏の祖神饒速日命(にぎはやひめのみこと)渡来の天磐樟船の象徴として、磐船谷の船形巨石>崇拝せらる(日本書紀)
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約290 弥生時代後期 私部(きさべ)・私市(きさいち)・星田(ほしだ)の間の田は稲がよくみのる田として、あまだ(甘田)と呼び、そこに流れる川をあまの(甘野)川といってその田の神をあまだの宮(後世天田の宮となる)にまつった。
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約400〜450 古墳時代(前期) 交野忌寸(いみき)の祖、漢人庄員はその族をひきいて渡来し、交野山麓に住んで機織をする。庄員は後、機物神社(はたものじんじゃ)の祭神となる(新撰姓氏録)
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577 古墳時代 これまで物部氏領だった天の川沿岸で、郡津、私部から上流(郡津、私部、寺、森、私市、星田)の田は敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきひめ)の所領となり、この一帯の総称を私部(きさいべ)という(日本書紀)
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592 古墳時代推古天皇元年 敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫尊は推古天皇となり、交野地方でこれまでの皇后領だった私部は交野三宅(みやけ)と改まる(日本書紀)
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783 延暦2 10月桓武天皇交野に行幸し、鷹を放って遊猟す(続日本紀)
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874 貞観16 この頃交野地方に遊猟した宮廷人の敬天思想から、天体に関する地名天田宮、天の川、星田などができて、倉治機物神社には天棚機比売大神(あまのたなばたひめ)、栲機千々比売大神(たくはたちぢひめ)まつらる
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900 昌泰3 この頃獅子窟寺(ししくつじ)建立、本尊薬師仏造立せらる(薬師仏の彫刻様式より推定)
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970 天禄元年 この頃星田妙見山頂双石を北辰妙見菩薩としてまつられる(妙見山拝殿再建記)
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1123 保安4 この頃、傍示(ほうじ)蓮華寺(れんげじ)建立(磨崖仏の様式及出土瓦片、陶片より推定) 鳥羽天皇

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