大工さんの雑学講座 U
Ohgu's Zatugaku
阪神タイガース大好きの奈良市の大工(おおぐ)さん
2004年元旦より、(^。^)村ちゃんが登場しました

index 2004.4.〜4.30 2004.3.1〜3.31 2004.2.1〜2.28
2004.1.1〜1.31 2003.12.1〜12.27 2003.11.4〜11.30 2003.8.11〜11.03
2004.6.30  毎日蒸し暑い日が続きます、今年も半分終わります

梅雨の晴れ間というのでしょうか、今日も薄曇ったり、日が差したりして、蒸し暑い日になりました。今年も今日で半分過ぎますが、世の中ますます落ち着かない二ユースが増えてきます。しばらく話題を民話や伝説に拘っていたら、頭のボケかけた私には新聞読んでも、テレビを見ていても、その事の流れが掴めず、突っ込んで鋭く批評する事が出来なくなりました。

イラクに二日早く…(内密に、たった6人の関係者が、兎に角セレモニーを行い)…主権が委譲されて、日本政府も大慌てで、自衛隊の多国籍軍参加を持ち回り臨時閣議で決めました。大規模テロを回避するのがねらいだそうですね。
企業の株主総会も、相次ぐ不祥事や業績不振で、各社大揉めして終わりました。参議院議員の選挙は主に自民・民主が丁々発止と各地で騒いでいます。
関電は7火力発電所の検査データ―を、87件も改ざんしたり、捏造していたそうです。何処かの警察では、交通事犯の検挙実績を100件単位で捏造していたとテレビで報じていました。「世も末」とは(仏教の末世思想から)世の中の救いがたいありさまを嘆く言葉だそうですが、正にそんな感想でおります。

さて、昨日の話の中で、「満願成就」した道真の雷は、比叡山の尊意阿闍梨の呪文で登天霧消しましたが、道真に付き合って京へ来た、大宰府の安楽寺の寛算和尚は都の空に一人残され、
  「も早、望みをかなえた以上、都の人びとに迷惑はかけられない」
と、行き場所も無く、天空をウロウロした挙句、東寺の東へ落ちて石になりました。さきの蔵王ノ森の南に祀られている”寛算石”がそれで、古来から霊石として崇められて来ました。神前に竹箸を供え、それで食事をすると歯痛が治るといわれ、俗に”歯神さま”と謂われます。
私はその効能を試したことはありません。だから真偽のほどに責任は持ちません。

阪神は甲子園で巨人と対戦8−5で勝ちました。投手継投に苦しいところを金本はじめ打線に支えられてまぁまぁの戦果を挙げました。しかし、私は、褒めません。褒めるとつぎ直ぐに負けてしまいますから。先週の名古屋がそうでした。

蒸し暑く気分ものりません。この辺で失礼します。ご免。

(^。^)村ちゃん、阪神、やっと勝ちましたね。
世の中、何が正しくて間違いなのか、どだい訳分かりませんね。言われるように、「世も末」ですか。平安時代の寛算和尚は遠く太宰から道真と雷神となり時の権力者、時平を滅亡させた後、京の地に落ち、今は”歯神さま”として祀られているそうですが、何か大きな祟りが起きやしないかと心配になります。

2004.6.29  京都の「クワバラ、クワバラ」は天神さんの所領地

相変わらず蒸し暑い、降るでもなく照るでもない天気が続いて、些か落ち込んでいた私ですが、今朝は薄雲の空が明るい天気になってホッとしています。
早くスカーッとした、入道雲がわきあがる、そして、「ゴロゴロ―」と雷の鳴る、夕立が降って、上がった後は涼しげに風鈴の鳴る、そんな気分がこないかなぁ、と思うことしきりです。

さて、昨日は民話としての、雷さま対策を見てみましたが、今日は歴史伝説で「桑原」の縁起をみて見ましょう。

菅原道真と云えば、ご存知天神さんですが、平安朝前期の学者であり、政治家でした。宇多・醍醐両帝の信任もあつく、正二位、右大臣として、宮中では左大臣の藤原時平とは勢力拮抗して、遂には権門の藤原氏一門を凌ぐかと思われていました。しかし、延喜元年(901)1月の事、突然、太宰権師におとされて筑紫へ追いやられました。「時平一味の讒言によるもの」と、憤怒に燃えましたが、勅命とあってはいたし方なく、都落ちしました。

さて、大宰府での生活は、都でのそれとはうって変わり、官舎は雨が漏り、床は朽ちて酷いものでした。食べ物も悪く、悲憤の日々が続きました。それの為か、延喜3年(903)59歳で亡くなりましたが、道真は、今わの際に、カッと目を見開き、はるか都の空をにらんで、こう叫びました。
  「我が身をば、かかる辺地へ追いやった時平一味と、その讒言を聞き
   入れて配流した醍醐帝へ、雷と化して、千里を走り恨み晴らさん」
ときに道真を信奉していた大宰府の安楽寺の和尚寛算が、これを聞いて、
  「しからば拙僧もお伴つかまつらん」
とて、共に昇天し、雷神となった二人は一気に空中を駆け、京の空へと舞い戻りました。そして、本拠を置いたのが、洛中の西九条蔵王町にある蔵王ノ森の亭々たる椋の大樹でした。そして、怒りに狂った二つの雷神は先ず時平一味や帝を襲う事になります。

時平は延喜9年(909)に39歳で夭逝し、彼に加担したと噂された参議が、その前年に原因不明の死を遂げています。延長元年(923)には帝の皇太子が21歳で亡くなり、後に立てた親王も延長3年(925)わずか5歳で世を去る始末、同8年には、6月というのに雨は無かったと謂います。
そこで、諸臣が清涼殿に集まって、
  「かくては、米作もおぼつかなし」
と心配している最中、一天俄かにかきくもり、雷鳴轟くかに見えたとき、大音響と共に落雷し、大納言の一人が即死、他の一人も感電して負傷しました。
  「これは菅公の祟りに違いなし」
誰とも無く言い出し、帝も捨てては置けず、かっての道真の師、比叡山の尊意阿闍梨(あじゃり)を呼んで火雷退散の祈祷をさせることになりました。
命をうけた尊意が山を下ってきた時は豪雨。鴨川は洪水のため渡れず、あまつさえ雷鳴轟き、稲妻が走りました。
  「これぞ道真の仕業ならん」
と、数珠押し揉んで鴨川の流れへ呪文を唱えると、あーら、不思議、不思議、流れが二つに割れて、岩の上に菅公の姿が現れた、とみるや、忽ち登天し、さしもの雷雨もおさまりました。この石が上京区寺ノ内堀川の水火天満宮にある”登天石”だと謂います。
以来、帝の健康も優れず、程なく世を去られます。
府下に「桑原」と云う地名の道真の所領があって、ここだけは落雷が無かったと謂います。昔から京の人は雷が鳴ると「クワバラ、クワバラ」と唱えたと云うのは、これに縁るのだということです。

平穏になった京の空を仰いで時の帝は道真の霊を鎮めるため、位階を旧に復し、京の北方、右近ノ馬場に小祠を建立し、”火魔天神”の号を贈りました。
現在の北野天満宮の縁起だそうです。

二日続けて詰まらない話をしました。参議院の選挙が近づいて、詰まらないニュースばかりで、それでは詰まらないので、昨日、今日と二つの「桑原」を書きました。ご退屈さまでした。【文中、尊意とは僧侶の位】


(^。^)村ちゃん、道真の雷神、凄いですね。水火天満宮にある”登天石”なんて、存在するんですか。各地にはいろんな伝説があるものなのですね。
今日は、大半の企業の株主総会の日ですね。
asahi.comには、株主総会ピーク、不祥事・再建企業で経営陣が陳謝や釈明と出ています。3月期決算の企業の株主総会が29日、ピークを迎えた。東京証券取引所の上場企業では、63.9%にあたる1120社が一斉に開催。集中度は前年より4.2ポイント下がり、やや分散化が進んだ。不祥事が相次いだ企業や、再建が急務となっている企業では、経営陣が陳謝や釈明に追われた。
なかでも、三菱自動車なんて、酷いもんですね。よくもこんな会社が存続し続けるなんて信じられません。株主になんと言って説明したのでしょうか?


2004.6.28  雷さまに「桑原、桑原」が効く由縁は?

先週末から再び梅雨が戻ってきました。今年の梅雨はまことに変な具合で、6日に近畿は梅雨入りして、10日には台風4号、その後乾燥したよい天気が続いて、20〜21日は再び台風6号で悩まされ、今日の日になってます。
まだ、しばらくは蒸し暑い梅雨の天気でしょう。
私の子供のころは、梅雨はビショビショと長雨で鬱陶しい日が続きましたが、早ければ6月下旬、遅くとも7月に入ると空の様子も次第に変わり、雨も夕立スタイルになって、雷さまが鳴ったものです。雷さまが鳴ると「アア梅雨が明けたなぁ」とお互い話したものでした。
梅雨に限らず、四季夫々区切りがはっきりしていて、正確に私たちの生活もけじめがあったものです。

ところで、雷さまですが、「じしん、かみなり、かじ、おやじ」と子供には恐いものの一つでした。雷が鳴り出すと、蚊帳を吊ってその中で寝ておれ、などと言われたものです。そして、ヘソを抑えて寝ていました。実際は大人たちもそれなりに恐がっていたようですがね。
都会は兎に角、田園地帯では雷さまに遭うと危険であったのです。野良仕事中、雷さまに遭って鍬など担いでいると、格好の雷さまの標的になりました。
今では、ゴルフ場で落雷に遭う例が多いようですね。毎年落雷の犠牲者は何人か出ていると聞きます。

和泉市の桑原に、奈良の大仏殿を再興した俊乗坊重源の墓のある西福寺というお寺があって、東北の隅に、重い石の蓋をした井戸があります。この井戸には雷さまが落ちたという伝説があって、桑原井とか雷井戸と呼ばれているそうです。

昔むかし、ある夏の夕方、この辺りを、激しい雷鳴をとなった夕立が襲いました。日照り続きに田の水を心配していたお百姓は、
  「こら、ええおしめりや、これで田も助かるわい」
と喜び合いましたが、そのうち雷鳴はますます激しさを加え、稲妻もすざまじくなって来ると、
  「こら、えらいこっちゃ、雷さんが近づいてきたで。用心せんとあかんで。
   蚊帳を吊ったほうがエエで」
と蚊帳を吊ってその中で小さくなっていました。
しかし、雷鳴は大きくなるばかりです。やがて、稲妻が激しく光り、辺りが一面明るくなって耳をつんざく雷鳴が轟き、村人たちは一瞬地に伏せました。
やがて、驚きから我にかえった村人たちが目にしたものは、西福寺の井戸から光りがさしている光景でした。しかも、井戸の底で何やらうごめいている気配、どうやら雷さまが井戸に落ちて上がれずに困っている様子です。
  「えらいこっちゃ、雷さんが西福寺の井戸に落ちはったでぇ」
村人は大勢集まって、このまま放っておいては危ないと、重い石を置いて井戸に蓋をしてしまいました。困ったのは雷さま。
  「これでは天に帰れまへん。もう、この村には二度と落ちまへんさかいに、
   この蓋のけとくなはれ、お願いしまっさ」
  「よもや、間違いないやろなぁ」
  「桑原、桑原いうて合図してくれはったら、この村の人のところへは絶対に
   落ちまへん。誓いまっさかい出しとくなはれ」
こんな問答の挙句、雷さまはやっと天に帰ることが出来ました。以来、この桑原には雷が落ちないと謂います。また、
  「桑原、桑原」
と、唱えるだけでも雷除けになると言われるようになりました。
西福寺の雷井戸


私は、その効果を確かめていません。信用するかどうかはあなたの問題です。
これは民話としての話です。明日は歴史伝説としての「桑原」を見てみましょう。

休み明け、詰まらない話をしました。本日、名古屋で連敗した阪神タイガースの話はお預けです。ご免。

(^。^)村ちゃん、首位中日に連敗した阪神、どうなってんね。流石の大工さんもお話にならないようですね。

雷は子供の頃は、本当に恐ろしいもんでした。あの大きな落雷の音と稲妻は怖かったものです。桑原、桑原とよく言ったものですね。
和泉市の桑原へ、3年前の年の暮れに歴史好きな二人で歩いたことがあります。
JR信太山駅→(10分)→池上曽根遺跡公園・府立弥生文化博物館→葛の葉稲荷神社→旧府神社(白狐の化け石)→小栗街道(篠田王子跡・小栗地蔵・八坂神社・高札場・照手姫腰掛石・後鳥羽院歌碑・平松王子跡)→丸笠山古墳→禅寂寺→西福寺→和泉国府跡→泉井上神社…(10分)→JR和泉府中駅まで全行程10.5kmを歩きました。
 弥生時代の池上曽根遺跡公園から小栗街道を辿り、和泉の国の古代遺跡を訪ね歩き、途中西福寺に立ち寄り、雷井戸なる物を確認、なにかおどどしい気分になったことを覚えています。

今日の大工さんの雑学講座を読んで、桑原、桑原の由来が良く分かりました。
興味のある方、当日の散策した内容は、こちらをご覧下さい。

2004.6.25  柳生藩における佐幕派の悲劇…紫縮緬事件

今日は、また、小雨模様で明けました。次第に雨は強くなるようです。
昨夜の甲子園は途中で小雨が降っていましたが、好調阪神に大いに沸きました。しかし、試合開始後先発藪が5球を投げて右手指に負傷し、急遽桟原が登板しました。殆ど先発でしたが、力投し、打線も金本3ラン、関本の3ランを含めてよく援護し、2−8xで勝って阪神4連勝、勝率5割りの結果を出しました。

明治新政府の神仏分離の方針は、徹底して村はずれや道端に置かれていた地蔵尊などの石仏までが一か所に集められ、その空き地は政府に没収された上、払い下げなどの処分を受けました。
この様にして、慶応4年(1868)3月13日の布告に始まる神仏分離の嵐は最初の頃の大社寺の処分から村はずれや道端の石地蔵の処分に至るまで、およそ10年に及びました。日本の宗教改革となったこの政策は、神道を国教としていくために、避けて通ることが出来ないものでした。しかし、この事によって奈良時代以来千年の間続いてきた宗教構造は決定的に変わってしまいました。

また、大政奉還への時代の波は大和の大名たちにも動揺を与えました。
郡山藩は成り行き任せで、高取藩はやや積極的に何れも新政府の下に走りました。その他、小泉藩・柳本藩・芝村藩では参勤交代の時期が来ているのに幕府の命令で帰国が出来ず、幕末の揺れ動く政局の中で曖昧な態度でいなければならなかったようです。

こんな情勢の中で、柳生藩では一つの悲劇が起きております。
テレビや映画によく登場する柳生但馬守宗矩や柳生十兵衛など、徳川将軍の剣術指南役として有名な柳生氏は、代々の藩主が参勤交代をしない大名でした。
そのため、幕府のギリギリまで江戸を離れることが出来ず。幕府の指示に従って江戸周辺の警備などに当っていました。しかし、王政復古令が出されて各藩主が京都に呼び集められるようになると、当時の藩主柳生俊益も江戸藩邸にいた家臣を連れて柳生に帰り、京都に出仕することになりました。
ここに、京都に近く政局の判っている国元の家臣と、佐幕派の江戸藩邸詰家臣の間で、新政府か旧幕府かで意見対立し、拷問を受けた佐幕派家臣九名が犠牲になりました。佐幕派が使っていた合言葉をとって「紫縮緬事件」と呼ばれています。
犠牲になった九人の藩士は、今も柳生に聳え立つ十兵衛杉の傍らに眠っています。訪れる人は、苔むした墓石を見て、幕末にこの藩で起こった悲しい出来事をまざまざと思い起すでしょう。
【紫縮緬事件 … 王政復古ののち、藩主俊益と共に江戸家老広瀬戸小太夫らが急ぎ帰国の船中で、尊王論に固まる国家老小山田三郎助らを「亜相亜臣」と決めつけ、「紫縮緬を用いん」と云う合言葉で暗殺しょうとしました。しかし、これを知った国家老らは、逆に佐幕派の藩士らを捕らえて処刑しました。これを「紫縮緬事件」と謂うのです。
なお、紫縮緬は柳生藩の江戸詰め藩士たちが刀の鍔に巻きつけていたそうです。】

昨日参議院選挙が公示されました。明日(土)明後日(日)メール休んでゆっくり候補者の名簿を眺めて見ましょう。  では、

(^。^)村ちゃん、阪神らしい勝ち方で昨夜は気分爽快でした。藪が怪我で降板した時は心配しましたが、棧原が良く投げ、打線も金本、関本と良く打ってくれ5割に戻りました。先ずは、オールスターまでこの調子を持続して欲しいもんです。
 柳生へは最近2度ばかり訪れましたが、紫縮緬事件、初めて知りました。幕末の頃、国論は勿論のこと、各藩内でもどうすればいいか大いに揉め、いろんな事件が起きたのですね。

2004.6.24  興福寺五重塔は吹きすさぶ神仏分離の嵐のなかで残った

台風が通り過ぎて、西日本は昨日、比較的凌ぎ易い天気で、午後6時からゲームの始まった甲子園球場の空は、素晴らい気分に見え、これなら阪神は大丈夫と安心して、テレビを点けていました。
阪神、先発下柳、出足に2点を先制されましたが、粘って5勝目を勝ち取りました。アリアス復帰の効果も大きく、桧山の犠飛、矢野のタイムリーで3点を返して逆転、後も継投宜しく、2点を加えて5−2とし、セ・リーグ勝敗表で、3位、首位中日に3ゲームになりました。やがて来月はキンケードや片岡も帰って来て阪神夏の陣は賑やかになるでしょう。

さて、何をお話しましょう。大和にも吹きすさんだ、神仏分離の嵐について、簡単に触れて見ましょうか。日本人の信仰は、江戸時代まで神社と寺院を同じ場所に立てたり、神も仏も併せて信仰するなどと謂う不思議なものでした。
この習慣を神仏習合と謂い、仏教が広がっていった奈良時代の終りから平安時代の初めにかけて始まったものですが、西欧の国ではとうてい考える事の出来ない信仰でした。明治新政府はこうした古い信仰を、思い切って新しいものに変えてしまおうと考えました。

慶応4年(1868)3月13日、江戸城を明け渡すために、西郷隆盛と勝海舟とが話し合っていたその当日、古代の神祇官を再び作る事と、全国の神社と神官とを新祇官の下に置くことを定めた法令が新政府から出されました。神社と寺院、神道と仏教を切り離し、新しい信仰の形を作っていこうとしたものでした。

しかし、神仏を分離して、神道を国民が一致して信仰できる宗教にしたいと云う新政府の方針は、大変な事態を招く事になりました。3月17日に長い間神社を支配してきた別当・社僧をやめるよう命じた法令が、同月28日には神社から仏像や仏教的な行事に使う道具を捨てるよう命じた法令が出されました。
これまで社僧たちに神社の支配権を奪われ、頭を押さえつけられてきた神官たちは躍り上がって喜びました。特に日本は神国だと言う思想の影響を受けていた神官の中には、実力に訴えてでも直ちに神社の境内から仏教的なものを取り払おうとする者が現れました。
例えば、4月1日には比叡山延暦寺の鎮守社である近江の日吉(ひえ)神社から境内の仏像・仏具・経巻を投げ出して、焼き払うなど、同様騒動は全国各地で起きました。

古代から神社や寺院の勢力が非常に強かった大和の国では、神仏分離も言葉にも言い尽くせないほど激しいものになりました。
興福寺では、既に慶応4年(1868)3月下旬には寺を離れようとする僧侶もいたようで、4月13日になると、一乗院と大乗院の両門跡をはじめ、殆どの僧侶が春日神社の神官になる事を願い出て認められたと謂います。
僧侶のいなくなった興福寺は、瞬く間に荒れ果てました。沢山の塔頭や寺院の建物は見る影もなくなり、多くの仏像・仏具が処分され、使われている金銀箔を目当てに経巻類が焼き払われたと謂います。そして、明治4年(1871)1月には、もとの一乗院の建物が奈良県庁に転用されるようになるとともに、同年9月、遂に廃寺になりました。
今、奈良のシンボルとして興福寺境内に聳え立つ五重塔が、わずかなお金で売り払われ、買主は火をかけて燃やし、金具類を手に入れようとしましたが、類焼を心配する奈良町の人々が反対して中止させたと謂います。

今夜も、阪神が健闘するように応援します。それにしても、今日は蒸し暑いですね。寝冷えなどせぬようご注意を。

(^。^)村ちゃん、夜遅くには雨の予報が出ていますが、本当に蒸し暑いですね。阪神タイガース、やっと本来の打線のつながりが出てきましたね。今晩も期待したいですね。
神仏分離で、沢山の貴重な文化財が焼かれたり無くなったりしたそうですね。興福寺の五重塔が売りに出され燃やされるところを奈良町の人々の反対で助かった、なんて今から考えると信じられない出来事ですね。
2004.6.23  テレビの画から思い出した、”サムライ”の”ハラキリ”

先日かけっ放していたテレビで、チラッと目にとまった映像で、極めて不確かな記憶ですが、何でも日本への観光客が大減りしているとかで、フランスへ観光客誘致のため使節団を派遣して、日本のPRをしている事を伝えていました。そして、橋本竜太郎元首相(剣道有段者)の顔が映り、バックに紺の稽古着に面・小手を着けた剣士が何人か剣道の稽古をしている画が映っていました。
日本は昔から欧米人には「フジヤマ、ゲイシャ・ガール」、それに「サムライ」で知られていますが、今更剣道の稽古で宣伝も無いものだと思いました。
(シッカリ見ていた訳ではありませんので、見間違いかも知れません。)

「サムライ」と言えば「ハラキリ」と来るのが相場で、この「ハラキリ」では、昔、フランスの艦長が青くなって逃げ出したと謂う話が残っています。
王政復古が宣言され、薩長勢力を中心とする新政府により開国和親の大方針が打ち出された直後、即ち慶応4年(明治元年)正月から2月にかけて40日の間に、近畿で外人殺傷事件が相次いで三度も起きています。
その一つ、2月15日に堺港で起こった、フランス水兵と土佐藩士との衝突は、森鴎外の小説『堺事件』でも紹介されています。

フランス軍艦デュプレー号が堺に入港し、22名の水兵が居留条約外の地である事を無視して無通告で上陸し、驚いて右往左往する町民を尻目に、悠々と町の中心部に侵入して来ました。
堺の警備のため駐屯していた土佐藩の6番隊(隊長箕浦猪之吉)と8番隊(隊長西村左平)の銃卒たちは現場へ急行、フランス水兵たちは、その勢いに恐れをなして港へ逃げ、本艦に帰るべくランチ(小蒸気船)を出発させようとした時に、岸まで追って来た土佐藩士に向けピストルを発射しました。
勿論、箕浦、西村両隊長は隊員に一斉射撃を命じ、フランス側は22名のうち即死2名、溺死7名、負傷7名を出しました。

フランス公使レオン・ロッシュから「ゆえなくして発砲を命令した隊長と、フランス水兵を殺害した兵卒との20人を、暴行現場で、日仏代表立会いのもとに打ち首とし、15万ドルの償金を支払うべし」と、新政府へ通告してきました。
発足したばかりの新政府はこれを鵜呑みにして、土佐藩へ20人を下手人として差し出すよう命令しました。同藩では兵卒71人を個別に尋問したところ、25人が当日発砲したと答えました。隊長2人と小頭2人には責任を取らせ、後20人からその4人を差し引いた16人はくじ引きで決めたと謂います。

籤によって選ばれた16人は士分に取り立てられフランス人の前で切腹する事になりました。16人の一人山本哲助は、「わしらは士分として腹を切るのですけに」と覚悟を決めていたと謂います。

2月23日、20人を乗せた20の駕籠は、土佐、肥後、安芸藩の兵420人に前後を守られ、大阪西長堀から堺間12キロの道を進み、材木町の妙国寺に着きました。庭に大きな蘇鉄のある客殿で待機している20人を、一人ずつ呼び出して、本堂の庭先で切腹が始まりました。

最初に呼び出された6番隊長箕浦猪之吉は、
 「フランス人ども、よく聞け。おれは、おまえらのためには死なぬ。
  御国のために死ぬる。日本男子の切腹をよく見ておけ!」

とフランス公使と護衛兵の席を睨み付けて大声で叫び、見事な十文字腹をきり、腸を掴んで投げつけたと言います。
こうして隊長・小頭4人の切腹が終り、12番目の橋詰愛平が呼び出されたところで、切腹は突然中止になったと言います。
フランス側のトゥアール艦長らが、”サムライ”の”ハラキリ”のもの凄さに色を失い、検死の席から逃げ出してしまったのです。このため9人が死を免れました。【十一烈士の遺体を葬った妙国寺の宝珠院に11の墓碑が並んでいます】

観光客誘致と剣道との結びつきは知りません。テレビでチラッと見た画から思い出した話を並べて見ました。ご退屈さまでした。

昨夕の甲子園は台風一過良く晴れて、阪神・広島両軍とも頑張りました。結果は阪神僅差で勝ちましたが、経過の中で少しは活気が蘇ったように思いました。

(^。^)村ちゃん、阪神、最後は今岡の決勝打で決めましたが、後半どうなることかと、イライラの試合でした。本来の阪神らしさを発揮してもらいたいもんです。
サムライと腹切り、凄いです。
以前に堺を散策された友人から、【十一烈士の遺体を葬った妙国寺の宝珠院に11の墓碑が並んでいます】の話は聞いていましたが、最初に呼び出された6番隊長箕浦猪之吉は、フランス公使と護衛兵の席を睨み付けて大声で叫び、見事な十文字腹をきり、腸を掴んで投げつけたなんて、想像を絶することです。
2004.6.22  北海道の新十津川村は、十津川の大水害から生まれた

昨日は台風6号で一日が終わりました。6月の台風は雨台風と謂いますが、各地相当な雨量が記録されたようですね。幸い近畿で一番最後に大雨暴風洪水警報が出たここ奈良県の北の端は全く平穏でした。ただ、私は個人的な体の障害から午後は寝込んでしまいました。

奈良県では何時も降雨量が多いことで名が出るのは、十津川村です。昨日も午前中に「1時間に110ミリ」という激しい雨が降ったそうです。「降り始めから80ミリの雨が降った」と言うだけでも、大変な雨だったのだなぁと思いますが、1時間あたり110ミリとは私には想像がつきません。

十津川は幾度も豪雨を経験しているようですが、中でも、明治22年(1889)の8月18日から20日にかけて、吉野郡の山岳地帯をすさまじい暴風雨が襲って大水害が起き、大規模な山崩れで谷底に落ち込んでいった土砂は、人家をなぎ倒し、田畑を押し流しました。川の水はせき止められ、いたるところで氾濫が起きたといいます。十津川郷六ヵ村が壊滅に近い被害を受けたことが奈良県史に残っています。

全戸数2,403戸のおよそ4分の1に当る610戸が壊されたり、流されたりして、死者168人に及んだと伝えます。郷民が長年営々と山肌を切り開いて作ってきた田畑も、3分の1ほども押し流されたと伝えます。勿論吉野郡役場は救援活動を始めますが、壊滅状態の道路では、救援活動も思うに任せず、家族を失い、家や田畑を流された人びとは、殆ど絶望的な状態に追い詰められていったといいます。
ここに生まれてきたのが、北海道への移住計画でした。始めはハワイとか県内大台ヶ原、また、福島県の阿武隈川上流など未開地への移住が浮かび上がったようですが、南北朝の動乱のころ南朝に忠誠を尽くして以来、明治維新まで長い間、国のために活躍してきた十津川郷の由緒を考え、日本の北方を守る名誉も担えると謂う北海道への移住計画が進められました。

10月18日から27日までに間に、600戸の2,489人が3班に分かれて故郷を後にしました。その物悲しい旅立ちの風景は、『吉野郡水災誌』に次のように記されているそうです。

  『秋空千里晴朗拭フガ如シ、然レトモ送人行客離情万斛、其ノ分襟ニ
   臨ムヤ再会期シ難ク、行軍遅々、婦女飲泣別ヲ告クルコト能ハズ、
   男児モ家山ヲ顧望シテ恋郷ノ情ニ堪ヘズ、漣然涙下ル者アリ … 』

即ち、秋の空は何処までも晴れ渡っている。しかし、送る人も送られる人も、一旦離れ離れになれば、再び会うことが難しい事を知っているので、足はなかなか前へ進まない。女性は涙が溢れて別れの言葉さえ言うことが出来ない。男性も故郷の家や山を振り返って恋しく思う気持ちがこみ上げ、ただただ涙を流すだけの人もあった、と、言うのでありました。

新村名は「新十津川村」と決められ、屯田兵を希望した人を除いて、北海道庁の計画どおり樺戸(かばと)郡徳富(とっぷ)と謂う場所に入植しました。
移住者の苦労は大変なものだったようです。一方残された十津川郷の人びとも、災害の痛手から脱出するのは大きな努力と時間がかかったのは言を待ちません。今に至る115年余に亘る十津川南北両郷の歴史はこの様にして始まったのです。

昨日メールを送った後、テレビの台風情報を見聞きしながら、十津川の大水害と、その惨禍の中から立ち上がってきた、南北両郷の人びとのご苦労に賛辞を贈る気になりました。 【参考…奈良県発行。「青山四方にめぐれる国」】

思いついての話、些か長くなりました。今日は甲子園も晴れて、阪神は広島を向かえ撃ちます。嵐が去った甲子園、一昨日の気分で一気に3連勝と行きましょう。

(^。^)村ちゃん、昨日の大型台風第6号は、各地で交通機関に大きな影響を与えて近畿に再上陸後、列島を縦断し日本海から北海道へと抜けました。お陰様で大きな災害に到らずホッとしました。
十津川村の降雨量は凄いですね。明治時代の十津川郷の大災害と北海道への入植のことは、聞いたことがありましたが、今回の大工さんのメールでより詳しく知ることが出来ました。人々の災害から復興への大変なご苦労に対して改めて感動を覚えました。

2004.6.21   台風6号がやって来ます、蒸し暑い嫌な天気です


今日は6月21日・月曜日です。一年で一番昼間の長い「夏至」です。そして、今年は台風6号がやって来ました。いま、10時ですが、9時30分頃、高知県室戸岬付近にに上陸したと、私の後でラジオが伝えています。このまま進むと、昼頃には阪神間は、まともに厳しい雨風に見舞われると思われます。

阪神間は昔から大きな台風にあっていますが、大体は9〜10月台風でした。
今年は気圧配置が異常なのか、近畿は6月の台風になりました。
私の住まう奈良県北部は暴風警報も出ていません。奈良県南部を含めて、近畿全域に暴風警報が出ている中で、何か仲間はずれにされたようで、落ち着きません。

昨日は、この台風を感じて目が覚めたのか、井川がアレアレと思えるように生き返って、巨神戦は久しぶりに、ファンを喜ばせてくれました。金本も元気が戻ったようです。この調子をこれから後も忘れないようにして欲しいものですね。

蒸し暑い、クーラーをかけると、室温は或いは、湿度は下がりますが、狭い部屋ではあまり気持ちの良いものではありません。その点、大きなビルや病院の空調は、コンスタントに温度・湿度が維持されていますので、気持ちはいいものです。私のように気管を切開している者には、家庭のクーラーはあまり気分のよいものではありません。[これは私の愚痴です。お許しを]

いま、ラジオが10時32分、奈良県全域に暴風雨警報が出たと伝えました。
我家も近畿の仲間入りが出来ました。こんな感激、おかしいですね。

兎に角、この天候、メールはココまでにして、また、明日にします。

(^。^)村ちゃん、台風6号は四国を横断した後、午後1時過ぎ明石付近に再上陸したようですね。6月に兵庫県に台風が上陸したのは昭和26年以来の出来事だと、ニュースで伝えていました。今年も異常気象が続きそうで、本当に蒸し暑く嫌ですね。
 昨夜の阪神は井川が生き返り、打線の組み換えで今岡、桧山、金本などの奮起で連敗を何とか止めました。この勢いでこれからも頑張って欲しいもんですね。


2004.6.18  粗末な携帯食だった幕の内弁当は、かく、出世した

ここしばらく、続いていた晴れた空は、今朝は雲が多く雲間をもれる日の光も高い湿度と共に重苦しい感じでした。台風6号は既に沖縄付近にあって、この週末は西日本に上陸の恐れもあるとか。上陸しないまでも、雨模様の休日になりそうですね。
昨夜は大阪ドームの阪神、サッパリ意気が上がらず、昨日折角褒めてあげたのに4−1でヤクルトに敗退しました。新聞には「拙攻トラ5割ならず」、「好機で併殺続く」などと書かれています。

しばらく、イラクの事には触れませんでしたが、今朝の新聞ではバグダッドの自爆テロの記事がで出ています。新兵募集事務所前で自動車を使った自爆テロが起きて、35人が死亡、138人が怪我をしたというのです。新生イラクのために治安を担うべく集まった人たちを標的に、このような残虐な行為を行う一部の勢力は憎んで余りあるものですね。イラク暫定政府のアラウィ首相は「卑劣な行為だ」と犯行を非難し、ファラハ・ナキーブ内相は、事件には国際テロ組織「アルカイダ」幹部のザルカウィ氏が関与していると語っています。
このような状況の中で30日には主権委譲がされますが、イラクの将来はどうなるのでしょう。イラクの人たちの上に一日も早く平和が訪れるよう願うばかりです。

次第に気温が上がり、高い湿度に私は些か息苦しさを感じてきました。エヤ―コンを点けても肌が冷えるだけで、気分は治りません。そこで、今日はチョッと小耳にはさんだ話を書いて終りにします。

幕の内といえば、駅弁などでお馴染ですが、数種のお菜を副えて、結構、値も高いものですが、もと、このものは一種の陣中弁当だったといいます。
起源については、武士が戦場の陣幕の中で食したという説や、芝居で役者が出演時刻に迫られながら一時凌ぎに幕の間に食べた説などがあります。また、奇抜な説としては、幕の内は小さな握り飯だから小むすびで、相撲で小結は幕の内だというのもあるそうです。いずれにしても握り飯に簡単なお菜を付けた携帯食でした。
明治末期に歌舞伎座で食堂料理部を開いていた花月が、これを観客用弁当に仕立てようと試み、握り飯は下品だから失礼だという反対論もあって、色いろ苦心の末、大正初期からスシ型に区切った飯の上にゴマをまぶし、お菜にも吟味を加えて売り出したということです。歌舞伎見物が舞台の弁当なので次第に豪華になって、これが、幕の内を上等弁当に出世させた切っ掛けになったそうです。

阪神、今日は東京ドームで巨人との対決です。今年の阪神を見ていると、強気で見ておれるのか、はたまた、ヒヤヒヤしながら見るのか、兎に角頑張れ!。
明日・明後日はメールしません。では、月曜に。

2004.6.17  ご存知かな、国民歌謡、ラジオ歌謡と謂う歌謡

今日も良い天気です。しかし、夜明けから昨日ほど涼しくなくて、蒸し暑い空の感じでした。いま、10時、薄雲を透して太陽がギラギラして暑い日差しが、窓から差し込んできます。対抗策として東側の窓は雨戸を閉めてしまいました。

昨夜の大阪ドーム、阪神は下柳が粘って4勝、続く中継ぎも安定していて、特に安藤は見事でした。打線はそこそこで、ヤクルトのエラーでやっと2点、それでも勝ってなんぼの勝負ですから結構でした、と言っておきましょう。

ところで話は代って、先日私の二十歳はどんな時代かを見ましたが、十歳の時代はどんな日本だったのでしょう。流行歌で見てみました。

先ず、子供心に覚えてのは、昭和11年2月に(レコード)発売の「忘れちゃいやョ」です。唄は渡辺はま子。当時流行った「ネェ小唄」の代表です。
渡辺はま子のお色気たっぷりな歌い方が人気を呼んで、忽ち大ヒットしました。渡辺は最後の「忘れちゃ嫌ョ」の部分が幾度やっても上手く出来ないので、ツイに泣きながら歌ったところ、感じが出たそうです。それが内務省の検閲官に引っ掛って注意されたと言います。

ほかに、「ああそれなのに」とか「うちの女房にゃ髭がある」等など数多くの、所謂「流行歌」がレコード会社から発売されました。しかし、小学校、(男子は)中学校、(女子は)高等女学校では生徒が歌うことを、固く禁止していました。

この年、ニ・ニ六事件が勃発し、美濃部達吉博士の『天皇機関説』が問題にされた年で、廬溝橋事件…日中戦争の1年前でもありました。

そんな時代背景の中、「日本放送協会」(NHKではありません)は一連の新作歌謡をスタートさせました。
いわく、「歌詞も楽曲も清新、健康」、「家庭でも高らかに明朗に、または、感激して歌うことの出来る歌曲」、「時代感覚に共鳴する愉悦な歌曲」。まことに欲深い目的を持つものでした。これが、今は無き「国民歌謡」「ラジオ歌謡」です。緊迫した時局下にあって、軟弱な「流行歌」を排撃する事こそがその目的でした。

16年の冬「われらのうた」と改変されるまでの6年間に詩壇、歌壇、楽団の大家・中堅を動員して156の作品が作られ、一週間を単位にラジオで毎日放送されました。第一作は「日本よい国」、「椰子の実」、「愛国の花」、「夜明けの唄」、「心のふるさと」、「春の唄」、「隣組」、「歩くうた」などは好評で、私も良く歌い、憶えています。特に東海林太郎の「椰子の実」、トントントンカラリの「隣組」は戦後も、電車の中で子供が歌っているのを良く見ました。

同じ頃に「国民唱歌」が発足しましたが、その中で生まれた、信時潔作曲の「海行かば」は軍国少年であった私には忘れる事の出来ないものの一つです。と共に太平洋戦争中玉砕などを発表するラジオ放送はこの曲から始まりました。

私の10歳から、先日書きました20歳の間の時代は、どんなものだったのか、これでお判り頂けましたかね。
今晩も大阪ドーム、阪神頑張ってェー!。では、また明日。

(^。^)村ちゃん、阪神は下柳の粘りと安藤の好投が光り、敵失で粘り勝ちました。今夜も頑張って欲しいもんですね。
国民歌謡、ラジオ歌謡、国民唱歌など沢山の歌が作られた時代だったのですね。私も、「椰子の実」、トントントンカラリの「隣組」などは覚えています。

2004.6.16  東大寺二月堂下の「良弁杉」の由縁譚

今日も三日続きの日本晴れで明けました。朝は気温と湿度のバランスが私の喉(気管)を軽やかにしてくれて、気分は上々です。しかし、午後気温が上がり、空気が乾きだすと途端に、体調が変わります。昨日も夕刻から宵の内はつらい気分でした。そんな中で、阪神は私を慰めてくれました。

故障者が多い中で、若虎たちが育ってきました。杉山は6回途中まで3失点でプロ初勝利、矢野の2ランも鮮やかでした。(一方ひざの状態が悪い伊良部の登録は抹消されました)。23歳右腕に期待は大きいところです。

国会は昨日、例によって例の如く、野党(3党)提出の「内閣不信任決議案」を賛成多数で否決して、150日間の会期を今日終えます。先生方は、イズレ、後は野となれ山となれ、参議院選挙に向け、ヨォーイ・ドン、かな。

”交野のふるさと講座”の方々、昨日は奈良・東大寺周辺に遊ばれたそうで、天気も良し、青葉の季節も良しご満足であったと思います。
東大寺境内の二月堂には、東大寺創建時の功労者で、初代別当となった良弁(ろうべん)僧正と、由縁譚の伝わる堂の下の大杉…良弁杉があります。この由縁譚もお聞きかと思いますが、ここでも一応話しておきましょう。

持統天皇の三年(689)の頃、近江国志賀の里で、久しく子に恵まれないのを嘆いた母親が、観音様に祈願して一人の男の子を生みました。観音様に授かった子なので、吉祥丸と目出度い名が付けられ、両親の慈愛を一身に受けて育っていきました。
吉祥丸が二歳の時、母は愛児吉祥丸を連れ、木陰に子供を遊ばせて、桑の葉を摘んでいた時、突然、黒い影が母の目先をかすめ、母がハッとして顔を上げた時、一羽の大鷲が吉祥丸を掴んで低く飛び去るところでした。
  「あれーっ、なにをするっ!」
一粒種の我が子を失った母の嘆きは限りなく、八方手を尽くしても、杳として消息は判りませんでした。

さて、そのころ奈良には義淵(ぎえん)という高僧がいましたが、その日義淵が大杉の下にさしかかると、
  「アーン、アーン」
と、幼児の泣き声がします。驚いて見上げた杉の大枝に、幼児が見えました。
人を集めて助け下ろしてみますと、着物に鷲の爪あとや羽毛が着いており、鷲に攫われてきた子と知れました。お守袋には一寸八分の金色の観音様を入れており、義淵はこの子を御仏の授け子と深く信じ、手許で育てました。

かくして、この子…吉祥丸は日々勤行の経を子守唄と聞き、かの大杉を我が両親と思い成長しました。5歳にして、目にした経文を忽ち読誦し、諳んじるという利発さで、義淵は「良弁」と謂う法名を与えて弟子としました。やがて良弁は法相宗を学び、華厳経に親しんで、年少ながら早くもその名は南都諸寺に鳴りひびきました。長ずるにつれ聖武天皇の信任も厚く、天皇発願の東大寺建立には大いに尽力しました。

一方、吉祥丸(良弁)の母は我が子を鷲に攫われてから捜し求めて、30年、片時も我が子の面影を忘れた事は無く、あるとき、淀川を下る船中で、
  「あの名高い良弁さまは、幼いとき鷲に攫われ、
   東大寺二月堂の杉の枝に捨てられてやったそうな……」
と謂う噂を耳にしました。
「もしや、我が子…」と思った母は、さっそく、奈良の大杉の下に佇み、遂に、今は、良弁大僧正の、我が子吉祥丸に再会しました。目出度し目出度し。

大体、10時頃からお茶を飲んだり、便所に立ったりして書いていると、この位で昼になります。そして、疲れも限界にきます。
今夜は大阪ドームでしたかね。この天気なら甲子園の方が気持ちがいいんですがねェ。では、あした。

(^。^)村ちゃん、昨日は好天気に恵まれて「交野ふるさと講座」で、興福寺、東大寺周辺から奈良町界隈を散策してきました。奈良への電車の中で乗り合わせた時に、良弁杉のことを前日に調べておくべきだったと、参加者のお一人が言われていたのに、二月堂のお休み処で昼食したあと、良弁杉のことをすっかり忘れてしまっていました。今日、大工さんのメールを拝見して、あっ!そうだった!写真を撮っておくべきだったと。
奈良の昔話、大変楽しく読ませて頂きました。


2004.6.15  近鉄、オリックスと合併へ、1リーグ制に現実味

今日も素晴らしい天気になっています。夜明けは放射冷却か、すこし、肌寒い感じでした。しかし、いま、10時次第に暑くなって来ています。
午後には空気が乾燥して私を悩ますでしょう。

プロ野球近鉄球団は先日来、命名権の売買問題などで、とかくの話が出ていましたが、13日、オリックス球団と今シーズン終了後に合併するとの合意に達した旨明らかにしました。
「野球ビジネスは苦境に陥っている。2チーム合併、合流して巻き返しを図ろう」(近鉄・山口昌紀社長)と云うことのようです。拠点は「大阪ドーム」に置くそうですが、両球団のファンは「ナンデヤネン!」と衝撃は大きいようです。特に、BWファンは「神戸に残して!」と残念そうです。

元関西の私鉄会社は京阪を除いて夫々球団を持っていました。南海は福岡へ、阪急は神戸へ移って大阪には近鉄と阪神が残っていました。阪神は流石野球のメッカ・甲子園を控え、巨人との宿命的関係で意気軒昂(ファンだけです)ですが、近鉄はファンの乗りが悪く今日に至ったのでしょう。
5球団では1リーグのローテーションが悪く、2リーグ制を改め1リーグ制にと云う話も聞こえて来ましょう。

ところで、話は変わりますが、私は最近不思議に思う事があります。
それは、仏式のお葬式で、骨揚げの後、直ぐに初七日の供養をする家が多いように思います。人は死ぬと極善の者は極楽に、極悪の者は地獄に直ぐに行きますが、善悪の決まらない並みの死者は「中有」を彷徨(さまよ)い、早い者は七日目に行き先が決まるので、先ず、この日に仏事を行い、極楽行きを念じます。
以後、善悪の軽重に従って、七日毎に行き先が決まって、七七49日までにすべて決まりますから、この間七日毎に仏事を開くのが筋です。

それが、中有(中陰)に送り出されて、いきなり念仏を上げられると戸惑いをしないかと心配しています。最近都市生活をする者は、親類縁者が遠隔地に住まっているので便宜的にそうするのでしょうが、死者は面食らって「往生しまっせー!」と言っているかも知れませんね。
49日で余ほど決定の遅れた死者も、彼岸に達して来世に納まるので「忌明け」として、「満中陰(志)」(つまり、香典返し)を贈ります。

この初七日は、別に親戚縁者沢山でなくとも、ホンの近親の者だけで、お燈明を上げても良いのではないでしょうか。
死者に、中有への第一歩は、ゆっくり逝く道を確かめさせてあげたらと思うものです。

いま、昼のサイレンが鳴りました。これで終わります。今晩、甲子園では、阪神とヤクルトのゲームがあります。何とか阪神が復調するようにと願っています。

(^。^)村ちゃん、今晩の甲子園、燃えていますね。矢野のホームランで6-1と大きく水をあけました。やっと、阪神らしい試合運びでゆっくりと観戦出来そうですね。
今日は、交野のふるさと講座で、興福寺から東大寺二月堂、三月堂、春日神社から「なら町」へと歩いてきました。途中、先日(6/2)の大工さんの雑学講座、「興福寺に纏わる「十三鐘の石子詰」の伝説のある大御堂を平田さんに案内して頂き、みんなで悲しい話に耳を傾けてきました。

2004.6.14  小泉首相、イラク主権委譲後の多国籍軍参加を表明


三日休んでいる間に、入梅して、台風4号と共に大雨が降って、その後昨日,今日と梅雨の晴れ間とも思われない、爽やかな良い天気になっています。近年の天気は気まぐれで、天気の予報屋さんも大変だろうとご苦労に思っています。
私は空気の乾燥や湿度の高すぎは全く苦手で、朝起きると直ぐに気温・湿度を調べます。いや、調べると云うよりは、「喉」気管の方が乾燥してるぞ、とか湿度が高いから、天気は崩れるぞと知らしてくれます。今日も昨日と同じくらいの天気で、気分も良いだろうと知らしています。

世の中、自分の身の回りだけを見ていると、あまり変わった事は無いように思えますが、世間では色々な問題を抱え残しているものですね。
年金問題は一応決まったようですが、まだまだ尾を引きそうです。
また、小泉純一郎首相がイラク主権委譲後に編成される多国籍軍への自衛隊参加を表明した事については、野党は国会の議論も無いまま、ブッシュに約束したと強い批判を示し、年金制度改革法強硬採決と共に15日には内閣不信任案を提出する構えです。

更に、いま国民の関心を呼んでいる問題は、皇太子の記者会見に端を発した宮内庁の体質と「お世継ぎ」問題があります。

名血の保持が何にも優先していた天皇家は、名門名血を汚さない事が至上命令で、「外血」の流入を厳しく拒否し続けてきました。同時に天皇家の血がよそに流出・混濁する事もかたくなに避けてきました。

今上天皇が皇太子の時、軽井沢に結ぶ恋を実らせ、テニス・フレンドの正田美智子を妃に選んだのは、正に皇室の血の解放でありました。
天皇・皇后など小さな天皇一家からは歓迎されたこの結婚も、実は皇室大ファミリーからは問題視され、美智子妃は歓迎されざる新皇室人となりました。
「粉屋の娘」…皇室大ファミリーの一部では、美智子妃をこう呼んで、白い眼で見ている人たちも居たと言われています。皇室大ファミリーは、正田家と親戚づきあいはしなかったと言います。皇太子妃が民間人を見舞った例がないと、実父・英三郎が病床に臥せっていても、美智子妃の里帰りは許さなかったそうです。このような旧態依然とした中で、当時の美智子妃も体調を損なわれた時期がありました。
皇太子妃・雅子は民間からの流入第二号ではありますが、やはり美智子妃と同様な皇室大ファミリー乃至宮内庁の対応があるのではと思ってしまいます。特に「お世継ぎ」問題と重なって雅子妃の心を蝕んで居るのではと感じています。
皇太子は相談相手(話し相手)を希望しておられる様ですが、何かお気持ちが、私にも判るように思えます。

そんな事を考えていた三日間でした。阪神の事は今回省略します。ひと言いうならば、「甲子園はアンタラのホームグランドやで!」くらいでしょうか。

(^。^)村ちゃん
昨日から前線が南に下がり、爽やかな天気となっています。
梅雨の晴れ間と言うより、5月の天候のようですね。
身体の調子も良く気持良いですね。
 
小泉首相、イラク主権委譲後の多国籍軍参加を表明については
勇み足ではないかと、論議を呼びそうですね。

2004.6.10    戦後、続々と名乗りを上げた自称天皇たち(2・完)

戦後、”自称天皇”が沢山出現した事は、勿論、「神に等し」かった天皇の権威が敗戦によって揺らいだ事に因るものですが、その背景には730年ほど前の朝廷内紛の後遺症が残っていた事も否定出来ません。
明治44年、大逆事件をめぐる政争の余波を受けて南北朝正統論争が起こり、政府は強引に南朝正統を決定し、「万世一系」を教育の場に持ち込みました。私が尋常小学校で習った「国史」は、勿論、この「皇統は連綿」として「万世一系」である、でした。

時は、北条時頼が鎌倉幕府執権のころ、京都の朝廷内でゴタゴタが起きました。88代後嵯峨天皇のあと、兄皇子の後深草天皇が89代となりましたが、弟皇子の方が利発で、父にも可愛がられていましたので、後深草をおろし、亀山天皇として90代に迎え、91代に亀山天皇の皇子・後宇多天皇を立てました。当然、ほうり出された後深草側はゴネました。そこで幕府は妥協案をだし、以後は後深草側(持明院統という)と亀山側(大覚寺統という)とが交代で天皇になる事にしました。

90代、91代は既に大覚寺統でしたから、92代伏見天皇,93代後伏見天皇と持明院統がとり、以下、94代後二条天皇(大覚寺統)、95代花園天皇(持明院統)、96代後醍醐天皇(大覚寺統)と交代制が続きました。

この96代後醍醐天皇のとき、持明院統が北朝をおこし、南北両朝時代を迎えますが、皇統は大覚寺統の南朝を正統とし、97代後村上天皇・98代長慶天皇・99代後亀山天皇と独占するに及びました。
この後、南北統一が図られ、100代に、北朝の持明院統・後小松天皇が立って、それからはずっと持明院統に占められました。
取り残された大覚寺統は後南朝と称しましたが、遂に再び皇位に着く事は無く、これらの子孫と称する人たちが、折にふれ名乗りを上げ、我こそ「正統」と叫ぶようになったようです。

前述のように明治の南北朝正統論争の時、政府は強引に南朝正統を決定し、万世一系を教育の場に持ち込んでいますが、南朝を正統とすると、北朝系の現在の皇統をどのように扱うかは問題が残りますが、政府はこの矛盾をいっさい不問にし、その論議を権力によって封じ込めて来ました。
自称天皇の輩出は、こうした政府の便宜的・強権的な皇統論への反動でもあったと考えられています。

私は、昭和61年10月10日、新人物往来社発行の、別冊歴史読本「天皇家系譜総覧」で、88代後嵯峨天皇から100代後小松天皇まで系譜をおいましたが、右へ左へ、上へ下へと実にヤヤコシイ疲れるものでした。年取った目は疲れてしまいました。小学生のころ考えていた、一本の糸に繋がった「一系」でないことが良く判りました。(おわり)

阪神”虎”の夢は一晩だけでした。誉めると負けるので、私は誉めなかったのですがね。それにしてもココしばらくの井川は変ですね。心配しています。

明日、私は例月の予約診察日です。メールはいたしません。また、来週。

(^。^)村ちゃん、天皇家の系譜を紐解いていただき、またお疲れ様でした。自称天皇がなぜ、次から次へと出て来たのか、その背景を明らかにされ本当に勉強になりました。有難う御座いました。
 特に、私達の年代は、明治以降の歴史を勉強していません。小さい時から歴史に興味を持っていましたが、授業は受験勉強対策の歴史しか勉強した覚えがなく、今になってあちこちと歩き回って、本当のふるさとの歴史を勉強している次第です。
これからも、興味深いお話をどうぞよろしくお願いします。


2004.6.9   戦後、続々と名乗りを上げた自称天皇たち(1)

一昨日入梅が宣言されて、昨日にかけてひどい雨が断続的に降りました。今朝は気温も低く、雲の多い朝でしたが、次第に晴れて、所謂梅雨の晴れ間と云う感じです。

昨日はチョッと科学的?に、精液冷凍技術の根本を取り上げてお話しました。今日は何を取り上げようかなと考えた上で、私は1926年(大正15)生まれですが、その20年後の1946年(昭和21)にはどのような出来事があったのかなと思い、調べて見ました。

毎日新聞社発行(1989.3)の「昭和史全記録」によりますと、1月冒頭には、「天皇人間宣言」が記載されていました。続いて、「熊沢天皇」の記事が出ておりました。戦後名乗りを上げた”自称天皇”は数多く、この熊沢天皇を第一号に、愛知県の「外村天皇」や「三浦天皇」、岡山
県の「酒本天皇」、鹿児島県の「長浜天皇」、新潟県の「佐渡天皇」、高知県の「横倉天皇」等など十数人に及んだと云います。

中でも、この「熊沢天皇」は、前年9月、マッカーサー司令官に「現皇室ハ往昔、足利軍閥ノ私ニ利用セントシテ擁立シタル北朝ノ天皇ノ血統」であって「皇位ノ正当ナル継承権ハ大覚寺統即チ南朝ニ存ス」と書かれた請願書が届き、11月末ダイク少将らが名古屋の請願人、熊沢寛道宅へ派遣され、この事が「ライフ」「スターズ・アンド・ストライプス」に取り上げられました。

この請願書を提出した熊沢寛道は、名古屋市千種区で雑貨商を営む当時56歳の男性でしたが、「GHQは天皇の地位を自分に返すよう命令を発して貰いたい」と言うものでした。
熊沢は戦前、既に政府に上奏文を送り憲兵、特高監視下にあったと言います。

この様に熊沢は自ら南朝直系を名乗り、4月からは各地で講演を始めています。天皇の戦争責任が問題になっていた時期でもあり、退位の問題ともからんで、連合国側のジャーナリズムは好んでこの”自称天皇”を取り上げたようです。だから、評判は海外にも及び、また、GHQとしては、天皇制に対する揺さぶりで、国民の反応を見ようと云う狙いもあり、事実、一時期、熊沢の「行脚」にはGHQの将校が同行していた様です。

しかし、昭和22年から始まった、天皇の巡行が各地で熱狂的な歓迎を受け、「天皇を利用せずして日本の統治は難しい」と判断したGHQは天皇の戦争責任追及を中止します。反響が次第に冷めてきて焦った熊沢側は、昭和26年1月、「現天皇不適格確認訴訟」を東京地裁に提訴しましたが、「天皇は裁判権に服しない」として却下され、以後、急速に忘れられて行きました。
因みに、昭和41年6月、熊沢寛道は東京新橋の病院で、膵臓がんのため亡くなりました。そして、このニュースは海外にも打電されましたが、も早、ニュースとして取りあげられる事はありませんでした。

このような話は、間違えるといけませんので、私も緊張が続きます。それだけに疲れます。

さて、こんな問題は突然起きるものではありません。古い時代の因縁が齎したものなのです。では、むかし、何があったのか。その事は明日見てみましょう。今日はこれまでにします。(つづく)

阪神タイガースは久々に、広島カープ相手に8-0で勝ちました。藪完封の勝利です。しかし、私は誉めません。何故なら、誉めると直ぐ次は負ける癖が、今年の阪神には憑いています。今日の結果を待ちます。

(^。^)村ちゃん、自称天皇のこと、あまり良く覚えておりませんがこんなことがあったのですね。「天皇人間宣言」後、確かに沢山の自称天皇があらわれる世相だったのですね。GHQが利用しようとした時代背景と併せて、考えてみることも必要ですね。
午前中、市民農園に出掛けて坂道を上がってくると蒸し暑さで汗だらけになりました。

2004.6.8  脳細胞への充電のためにEROTICな話はいかが

梅雨に入って蒸し暑く、脳細胞も年のせいか、スポンジ状が進んだのか、思考の能力に衰えを感じるようになりました。そこで、思いついたのは、脳活性化には多少EROTICポィ話が良いのではと云う事です。

ありました!。悪魔とSEXした魔女の告白など如何でしょう。勿論、西洋の昔の話ですから、私が取材した話ではありません。いつか、どこかで耳にした話です。だから、その真偽の程は責任を持ちません。

中世ヨーロッパで猛威をふるった魔女裁判には、悪魔とSEXした魔女の自供が沢山記録されているそうです。悪魔の性器の大小、硬軟、精液の温度、分量、体位、回数、持続時間、快感度等などがPORNO小説顔負けの描写で、実に詳しく記録されているそうです。恐らく裁判官たちは魔女の性生活に最大の関心をもって、拷問のうえ、微に入り細に亘って尋問したのでしょう。

@サバト(安息日ココでは魔女集会)に出席した娘の自供 ……
「ダンスが終わると、私と踊っていた悪魔は、私を押し倒して、30分以上もSEXをしましたが、全然快感はありませんでした。氷の棒で突き刺されるような痛みと、雪のように冷たい精液の奔流が体の中に打ち込まれるのを感じました」

A魔王サタンと寝た女の供述 ……
「魔王とSEXした事を認めます。魔王のPENISを幾度も握って見ましたが、それは氷柱(つらら)のように冷たく、長さは指ほどで、人間のものほど太くはありませんでした。精液もひどく冷たく感じました」

B女色魔(スクプス=女の悪魔)と寝た男の証言 ……
「無理やり四度も要求されて、僕が疲労の極に達して、ぶっ倒れたら、やっと解放してくれました。最初、彼女の中に挿入したら、そこは冷え切った洞穴の中みたいでした。」

これらの告白に共通している点は、悪魔の性器が氷のように冷たい事であると云います。

十三世紀の最高の神学者・トマス・アクィナスの学説によると、悪魔自身には生殖能力が無いので、女色魔が人間の男とSEXして、精液を吸い取り、それを男色魔(インクブス)に渡す。男色魔はそれを人間の女に注入して受胎させ、その胎児を奪い取って、悪魔の子孫を増やすと言うのです。つまり、悪魔は人工授精の元祖であり、その性器が冷たいのは、人間の精液を冷凍保存するためであろうと云う事です。

受け売りですから、そのまま聞いておいてください。質問されてもお答えは出来ません。お粗末の一席でした。
こんな話は罪が無くってよろしいですね。また、今度いつか。ご免。


(^。^)村ちゃん、今日はまたぐっと毛色の違ったビックリするようなお話、何か科学的なニューアンスも感じられる、悪魔は人工受精の元祖だったなんて驚きました。



2004.6.7   私78歳、なお、隠遁の暮らしを続けます、宜しく

土、日休んで、再び月曜日になりなした。
ところが今日の月曜日は私にとって、極めて意義の大きい日なのです。
何故なら、6月7日、それは私の78回目の誕生日なのです。我ながら良くぞここまで生きられた、頑張ったと回想することしきりです。
心臓を患い、前立腺がんに罹り、全喉頭を摘出して、十余年、人さんと満足な会話も出来ず、独り隠遁の生活を続け、古い友人村田義朗くんの好意で、そのHP”星のまち交野”を利用させてもらい、日ごろの憤懣や感想を其処に吸収してもらう事で、気分の整理をしてきました。日々世間に感謝しながら今日この頃を生きています。

ところで、先週末の年金改革関連法をめぐるドタバタ騒ぎにはウンザリさせられました。民主党の”岡田”代表が采配を振ったのでしょうが、お陰で阪神の”岡田”監督まで変になったのか、期を一にして阪神は奈落へ落ちました。
この両者共通点がありますね。民主党の岡田さんは笑わない、笑顔を見せないと言われていますが、阪神の岡田さんもあまり笑った顔をテレビでは見ません。少なくとも前の星野さんの様な明るさはありません。呵呵大笑する、否、出来るタイプには見えません。星野さんが藤本の肩を抱いてその労をねぎらうような演出も無理でしょう。聖人君子は喜怒哀楽を面に表さないと謂いますが、一軍を率いる者は明るく大らかで無ければいけないでしょう。

話は替わって自民の小泉さんはどうでしょう。負けおしみが強いですね。
「石に漱(くちすす)ぎ流れに枕(まくら)す」という故事があります。これは「漱石枕流」という4字熟語にもなっています。

西晋の時代、孫楚という男がいました。若い頃、隠遁の志がありましたが、その気持ちを友人の王済(おうせい)に伝えようとして、「石に枕し、流れに漱ぐ」と言うべき所を「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまいました。王済が「流れに枕したり、石に漱いだり出来るだろうか」とからかうと、頑固な孫楚は「流れに枕するのは、耳を洗うためだ。石に漱ぐのは、歯を磨くためだ」と言い張りました。

中国古代に許由(きょゆう)という賢人がいて、堯帝(ぎょうてい)から帝位を譲ろうといわれたとき、耳が穢れたといって清流で耳を洗ったそうですが、その故事を持ち出して、孫楚は自分の言い違えを正当化したものです。

小泉さんは、何時も「上手く言いつくろいます」ね。「流石(さすが)」と私は思います。しかし、あまり度が過ぎるとテレビを見ていても聞き苦しいと思う事もありますね。彼は平然と詭弁を弄します。
明治の文豪、夏目漱石も負け惜しみは強かったのでしょうね。

「奈良あやめ池遊園地」は私と同じく、大正15年生まれでしたが、昨日6月6日、77年の生涯を閉じました。
私は、いま、しばらく強情に生き残ります。皆さん、宜しくお引き回しください。

(^。^)村ちゃん、大工さん、78歳の誕生日おめでとう御座います。大病を患われその後の生活も大変だったでしょうが、75歳でパソコンを手習いされこうしてお元気でメールの交換が出来、誕生日のお祝いを申し上げられることを、本当に嬉しく思っています。
どうぞ、お元気で雑学講座を続けていただくようお願い申し上げます。

2004.6.4  年金法案参院委で強行可決、民主封じの抜き打ち早業

昨日メールの最後に、明日はもう少し明るいお話をしたいと言いまたが、やはり、今どき明るい話は見つかりませんね。悲しい世の中と言うべきでしょうか。

先ずは阪神、昨夜のヤクルト戦、サッパリ元気の出ない打線、9回末期(まつご)のあがきで、サテこそ得意の逆転劇かと思いきや、五十嵐亮の158`でダウン、戻ってきた”虎”も、肩でアヘアヘ。全く、ドンナランなー。

一方、参議院厚生労働委員会では、又してもドタバタ騒ぎ、共産・民社及び無所属委員の質疑を残して、自民・公明の賛成多数で強硬採決しました。自民党を支持する(公明党は嫌い)私も、これは少々やり過ぎと、些か穏かには思えません。

そんな事で、明るい話は思い浮かびません。そこで、日本人が貯蓄民族になった由縁を見ながらお耳を(おめめかな)汚してお茶を濁しましょう。

郵便貯金の出来たのが約130年前、明治8年5月と云います。当時政府御直々に、我ら国民の零細な小銭まで、御預かり置き下さるアイデアは、イギリス、ベルギーに次いで世界で第3番目、古い事は確かに古いです。
しかし、建国以来、他人に金を預ける風習のない、貯金と云えば大判小判を甕(かめ)に詰めて庭の隅に埋めて置くくらいの智恵しか無かった庶民を相手に始めたのですから、創始者のPRの苦労は大変だったようです。
駅逓頭(郵政大臣)前島密は、身銭を切って人々に与え、その場で貯金させました。こうまでして貯金と云うものの実地教育をしたと云います。

一方、末端の駅逓局員は武士崩れか、地方なら素封家が多く、見識が高かったようで、口座を開くには「貯金御預かり願書(ねがいしょ)」なるものを差し出して、「決してご迷惑はおかけ申し上げませぬ」と、ペコペコしなければならず、平民たちは益々敬遠して寄り付きません。かくて、第一年度末の成績は、全国の預金者総数千八百余人、一万五千円、内訳は殆どお役人で、「上司の命令やむなく」預けたと云うものだったそうです。

預金の魅力を作るため、年3分と決めた利率を引き上げ、明治9年は4分、10年は5分、11年は6分…と、1年に1分ずつ引き上げたと云います。
日露戦争直前で、預金者3300万人、(これは人口の過半数)、貯金金額で3100万円だったそうです。
当時の逓信大臣大浦兼武は「夢は郵便貯金1億円だ」と嘆いていたと云います。
それが、今年2月末現在郵貯残高は、何となんと、229兆4104億円、日本の個人金融資産の16%を占めると云います。日本人は世界に冠たる”貯蓄民族”ですが、国民にここまで貯蓄を習慣づけた最大の功績は、郵便貯金制度でありましょう。
同時に、計算事務に女子職員を大量採用し、婦人の社会進出を開いた点でも、電話交換局と相並ぶと云えるのでは無いでしょうか。

郵便貯金の民業圧迫をどう解消するかが、いま、論議されています。私は民営化に反対ではありませんが、最近影を潜めている郵貯民営化問題を思い出して見ました。お粗末でした。

明日(土)、明後日(日)メール送りません。
阪神、今晩は静岡で横浜とですね。この辺で踏ん張ってやー。

(^。^)村ちゃん、そうですね、そんな明るい話はありませんね。阪神の力の無さ、なんとかしてやー。
郵便貯金も創設された時の苦労は大変だったのですね。へーぇ!とビックリするようなお話で、それが今や民業を圧迫し、日本の個人金融資産の16%を占めるのですね。
 また、来週こそ、楽しく明るい話が聞けることを期待しています。

2004.6.3  千里走って、千里帰る虎、
          ヤット甲子園に帰りました…長かったぁ

昨日の甲子園は見応えがありました。井川、立ち上がり必ずしも良くなく、気になりましたが、1回裏に阪神4点を挙げ、それで落ち着いたか井川も安定、8回に2点を加えて6−0で完封勝利、5連敗を免れました。
阪神に言うておくけど、投手が抑えて、打線がどこかで集中すれば勝てるという事を憶えておいてや。(当たり前やて…そうやんか)

それにしても、悍(おぞま)しいのは佐世保市の小6女児同級生殺しですね。
新聞報道によると、4日前にも計画していたと云います。そして原因はインターネトの掲示板への書き込みだったと云うことです。
更に、私がテレビで聞いていて耳を疑ったのは、その殺害方法でした。
加害女児は、被害女児の御手洗怜美(12)さんを学習ルームに連れ込み、カーテンを閉めて、椅子に坐らせて、目隠しし、カッターナイフで切りつけたと謂うのです。
アメリカ・シカゴのギャングのリンチに見る光景そのものを感じました。
小6女児が何故こんな恐ろしい事を、と思うと堪らない気分です。これは市中に溢れる安っぽいゲキガ雑誌の影響でしょうか。
少年少女犯罪の増える昨今、大人たちは徹底した反省が求められます。

さて、一昨日のメールで、お一人身の孝謙天皇から淳仁天皇に譲位されたと書きましたが、拙文をお読みくださった方から、その関わりが判らないとお問いかけがありました。我々昔は、「皇統連綿」とか、「万世一系」とかと教えられ、何か天皇からその第1男子が皇嗣になって世々受け継がれて来た様に錯覚していましたが、現実は、あちらへ飛び、こちらへ飛びしていまして、皇室の系譜を見ると中々見にくいものなのです。

説明の順序として、@舎人親王(とねりしんのう)は天武天皇の皇子で、勅により「日本書紀」編修の総裁となり、720年(養老4)撰進。のち知太政官事となりました。太政大臣を贈られ、759年(天平宝字3)崇道侭敬皇帝を追号されています。
A淳仁天皇は舎人親王の第7皇子。名は大炊(おおい)。藤原仲麻呂に擁立されて即位。のち仲麻呂失脚により廃位、淡路国に配流。淡路廃帝ともいわれます。(733〜765)(在位は758〜764)
Bここに出てくる藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)はというと、奈良時代の貴族で、武智麻呂の子。光明皇后・孝謙天皇に信頼されて橘奈良麻呂ら反対派を倒して政権を掌握しました。女婿の大炊王が即位して淳仁天皇となるに及んで官制を改め太保(太政大臣)正一位に進みましたが、僧道鏡が孝謙上皇に重用されるに及んで、これを除こうとして挙兵し敗れ、近江で殺されました。(706〜764)

皇位を取り巻く諸々の人間関係は昔の一時期、中々理解しづらいものです。
お判り願えたでしょうか。
ついでに、もう一人登場人物を紹介しておきましょう。それは、和気清麻呂(わけのきよまろ)です。彼は、官人で、本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ)と言って備前出身。道鏡が宇佐八幡の神官と結託して皇位を望んだ時、勅使として宇佐八幡の神託を受け、阻止しました。ために道鏡の怒りを買い、名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改めて大隈に流されましたが、道鏡失脚後召還されて、光仁・桓武天皇に仕え平安遷都に尽力しました。
民部卿・造宮太夫・従三位として、護王神社に祀つられます。(733〜799)

今日も結構長くなりました。説明が拙くお判りにくかったでしょうが、お許しください。明日はもっと明るいお話を考えます。

(^。^)、村ちゃん、阪神、昨日は快挙でした。尻上がりに井川も良くなって来てそう心配はしませんでしたが、相変わらず得点できない回を重ね、やっと8回2点を加え、連敗を止めました。言われるように、連打、連打で頼みまっせ!
皇位を取り巻く人間模様は、それだけで面白い歴史小説のようですね。これからも、面白いお話お聞かせ下さい。楽しみにしております。

2004.6.2  「十三鐘の石子詰」の話…奈良の民話

 
私が、かってお話した中で、奈良公園の鹿は春日さんの御遣いで、若し殺した者は、「石子詰」の刑に処せられると書いて(3月8日・5月21日)いましたが、昨日歴史伝説を書いたので、ついでに、伝説と謂うよりは民話というべきかも知れませんが、興福寺に纏わる「十三鐘の石子詰」の事も話しておきましょう。
奈良に遊ばれた方は、観光案内などで、既にご存知かも知れませんが、しばらくお付き合いください。

奈良のゆかしいシンボルの一つは優雅に群れ遊ぶ鹿の姿です。この鹿は神鹿、即ち春日明神の御遣いで、神聖不可侵のものとされて来ました。
公園内の興福寺の塔頭(たっちゅう)の一つ、菩提院大御堂[三条通りを東に登って、一の鳥居の手前右側]は俗に「十三鐘」の名で知られていますが、ここにはこの神鹿と少年をめぐる悲話が伝えられています。

むかし、当院に寺子屋が設けられて、和尚が子供たちに読み書きを授けていました。その中の一人で、十三歳になる三作という少年が、ある日、開け放した部屋の端近に坐って、習字の稽古に励んでいました。その時ふと机に影がさして、脇に置いていた新しい半紙がズイッーと引かれたので、三作思わず顔を上げると鹿がすまし顔で、三作の大切な半紙を銜えこんで立っていました。
  「コラーッ、何すんのや―」
と叫ぶとともに、三作は「けさん(文鎮)」を鹿に投げつけました。「けさん」は鹿の鼻ずらに見事当って、追い払うつもりが鹿を殺す結果になってしまったのです。

神鹿の保護に当る興福寺では事の処理に頭を抱えてしまいました。三作はわずか十三歳の少年のことではあるし、鹿が死んだのも、ものの弾みと云うもので、人情としては助命したいのはやまやまでした。
しかし、神域の掟は余りにも明白で許されるものではありません。三作の「石子詰」の刑は決まりました。大御堂の境内に大きな穴が掘られ、既に泣く力も無くした三作と、鹿の死骸が抱き合わされて、穴の中に下ろされ、上から大小の石が無数に投げ込まれ、哀れ三作は自分の命で、神鹿を死なせた罪を贖(あがな)わせられました。

のちに、三作の母親が永代の供養木として、「モミジ」の木を三作塚のそばに植えたと謂いますが、今はそこに、「イチョウ」と「ケヤキ」の大きな木があり、これもその母親が三作のために植え、回向したものと伝えられています。

ところで、大御堂では、明けの七つ(午前4時)と暮れの六つ(午後6時)に、合わせて十三回鐘を撞いたので、十三鐘と呼ばれたと言われていますが、石子詰の処刑が、暮れ七つと六つの間であったからだとも謂います。因みに三作の行年もやはり十三歳でありました。[この悲劇を伝える鐘は、いま南円堂(興福寺境内の西端)の傍らにあります]。

昨日午後、長崎県佐世保市で、小学校6年生の女児が同級の同じく女児を「カッターナイフ」で首に長さ10cm、深さ10cmの切り傷を負わせ死亡させたと云う事件がありました。その両者の係りは詳細発表されていませんが、数えでいうと何れも十三歳で、三作の享年と奇しくも符合します。合掌。

ところで、阪神タイガース、今や重症で、何処まで落ちるやら、ヒットの数はそこそこでも、残塁、惨塁?でホームベースはほど遠い有様。
 「野球は点を取るゲームや。ヒットの数で勝負するんと違う」…岡田監督。
さすが、監督エエこと言うてるでェ。今晩ガンバリヤ。  では、明日。

(^。^)村ちゃん、興福寺に纏わる「十三鐘の石子詰」のお話、初めて聞きました。民話って、結構むごい話も多いですね。でも、三作の母親が永代の供養木として、「モミジ」の木を三作塚のそばに植えたとか、今も「イチョウ」と「ケヤキ」の大きな木があり、どこか心温まる救われる気持になりました。
 佐世保の小学校6年の女子の死亡事故は、ショックを受けましたね。我々には理解できない、余程の事があったのでしょうか?何かの弾みでこんな事件が起きたのでしょうか?余りにも酷過ぎますね。
阪神、魔の水曜日、今日こそ勝利に結び付くでしょうか?岡田監督、頑張ってや!


2004.6.1  「道鏡は人間にてはよもあらじ」…江戸川柳

蒸し暑く、午後は雨になった昨日の天気も、今朝は幾分涼しいくらいに感じる爽やかな朝になりました。然したる大きな異変も無いようで、昨日に続いて、昔がたりでお時間を頂戴いたしましょう。

唐突な「件名」何事かとお思いでしょうが、これは、奈良朝の僧道鏡の”男性の象徴”が、あまりにも大きく「人間離れ」していたのを風刺したものです。が、彼は何故そんな体になったのでしょう。

道鏡は慶雲2年(705)河内国弓削(八尾市)の生まれとされ、村落を流れる長瀬川沿いに住んでいた弓削部の伴造(とものみやつこ)、即ち弓作りの職人の一族でした。[ここには一族の氏神の上,下二つの弓削神社があります]。

一生を弓の職人で終わりたくなかった道鏡は、如意輪経を信心すると立身出世すると聞いて、大和の国平群(へぐり…生駒郡)の岩窟に3年間籠もって修行しましたが、一向に出世の糸口が掴めないので如意輪経を大地に叩きつけ、その上に小便をひっかけました。すると一匹の蜂が飛んできて道鏡の”一物”を刺し、以来腫れあがったままで治らず「人間離れ」した道具の持ち主になってしまったと云います。しかし、後にこれが幸いします。

その頃、呪術(じゅじゅつ)や祈祷で病気を治すものを看病禅師といって、山林で苦行をつみ解脱した僧がこれに当っており、それらの僧が奉仕していた所を内道場といって宮中に設けられていましたが、どの様な縁故があったのか、道鏡50歳のころにはここへ入り込んで、まんまと看病禅師になったいました。偶々、そんな時に孝謙上皇が病気になられました。
呼ばれたのが道鏡で、枕辺に侍し宿曜(すくよう)秘法(一種の点星術)によって治療したという事です。時に、天平宝字6年(762)のころで、上皇齢45歳、道鏡は60歳に近かったといいます。

孝謙帝は天平勝宝元年(749)32歳の処女で即位された女帝で、聖武帝の皇女です。天平宝字2年に淳仁天皇に位を譲り、上皇となられたものですが、所謂、いかず後家だった上皇に、道鏡は夜ごと怪しい振る舞いに及んだと云われます。
もっとも、上皇は、それまでにも色々の法師と情事を重ねられてはいましたが、上皇の”秘所”が大きすぎて御意を得なかったとも云われ、奇しくも「人間離れ」した道鏡にめぐり合って、情念を燃やされたのでしょう。
見かねた淳仁帝が諫言すると、反対に怒って、帝を淡路へ流し、みずから重祚(ちょうそ…退位した天皇が再び位につくこと)して称徳帝となられました。二度も女の身で皇位につかれ、そして道鏡を大臣禅師とし国政を2人で見られたそうです。

道鏡は弓削一族を重用し、策謀をめぐらし、
  「道鏡を天位につかせれば天下太平は必定」
との神託を作って、皇位に昇ろうとまでしました。この頃帝に勧めて建立させたのが、西大寺と云うことです。
道鏡の野望を阻止したのは和気清麻呂で、ニセ神託も打ち破られ、程なく帝が平城京で亡くなられると、道鏡も失脚し、宝亀3年(772)4月、流罪先の下野(栃木県)で死んだといいます。

これは、昨日のメールに関わる、歴史伝説です。
今日も時間(正午)となりました。また、明日メールを送ります。

(^。^)村ちゃん、昨日と打って変わって今日は爽やかな良い天気になりました。お陰様でKSS会(関西みつわ会歴史散策会)も予定通り、伊丹郷町めぐりを無事終えることが出来ました。荒木村重が伊丹氏を滅ぼし有岡城と名を変え、城を大改修したと伝えられる惣構えは南北1.6Km、東西0.8kmもの壮大なものです。村重と黒田官兵衛の話など興味深い歴史物語を皆さんと楽しんできました。
弓削道鏡の皇位に昇ろうとまでした男の話、興味尽きませんね。有難う御座いました。

2004.5.31  天皇家歴代系譜の中には女帝は10人おられます

先週金曜日は、送信先光ファイバー導入工事のためメールを休みました。
続いて土,日と三日の間休みました。三日休むとその間に色々な事が起きるものですね。
今回はイラクで日本人フリージャーナリスト2名とイラク人2名が乗った車が襲撃されるという事件が、28日午前に起きました。そして、橋田信介(61)さんとその甥小川功太郎(33)さんが死亡しました。今回はご両人とも覚悟の上で、ご家族にも常々覚悟の程をシッカリ言い渡しておられたようで、橋田さんの夫人、小川さんのお母さん共、この凶報を聞いても取り乱すご様子も無く、前回人質事件の際の家族のような顰蹙を買う騒ぎはありませんでした。私は感服しつつご冥福をお祈りいたしました。

さて、話は変わりますが、皇太子さんが外遊前の10日の記者会見で、皇太子妃雅子さんの心神疲労の背景について「人格やキャリヤーを否定するような動きがあった」などと発言された事に関しては、湯浅宮内庁長官は未だ「お招きがない」と皇太子の発言の真意は聞けていないようです。

皇太子のご心中はわかりませんが、最近出てきている話がお世継ぎの問題です。この問題は昭和天皇の時にも起きています。天皇はまだ摂政の大正13年1月26日に良子妃と結婚されましたが、お二人の間に、第1子の成子内親王が生まれたのが摂政時代の大正14年末。以後裕子(2歳で死去)、和子、厚子内親王と続けて4人のお子が生まれましたが、天皇、皇室の使命は皇統即ち、男児を絶やさない事なので、皇太子となる男児の誕生が渇望されました。
皇后が懐妊されるごとに男児誕生の時は、皇居で祝砲を撃って東京市(当時は市)民に知らせられる筈でしたが、4度も肩透かしで、国民もヤキモキしていました。私は尋常小学校1年生でしたが、大人たちの会話や、先生のお話で小学校挙げて皇太子ご誕生を待ちました。

皇室の周囲から、天皇に「側室をおいては…」と云う動きも出ました。お二人の夫婦愛よりも、皇統を継続する方が大事だとするものでしたが、天皇はこれをキッパリ拒絶され、やがてお二人の愛は実を結び、皇后5度目のご懐妊の10ヶ月目、昭和8年12月23日、皇居から轟音が東京市中に鳴り響きました。待ちに待った皇太子誕生の祝砲でした。「継宮明仁」と命名された第一皇子は即ち、今上天皇です。
国民の喜びようは大変なもので、津々浦々の市町村の役場は一斉にサイレンを鳴らし、花火を揚げ、昼は旗行列、夜は提灯行列で日本列島は沸きあがりました。「鳴った鳴ったサイレンが鳴った」とか「皇太子さまがお生まれになった」とか言うような歌を謳った記憶があります。

当時の皇室典範は、1889年(明治22年)に制定され、大日本帝国憲法と並んで、日本の成文憲法としての性質を具えていました。現行のものは1947年(昭和22年)制定で、内容も簡略にした通常の法律です。だから、皇嗣(こうし)の資格、順序は現実に即して変えうるものと私は考えています。
だから、秋篠宮家に、「いま、お一人のお子を」などという事はないでしょう。
そういった事も雅子妃殿下の健康にわざわいしているとすれば、真に不届きの事に思われます。

歴代皇室の系譜を見ますと、女帝は10人おられます。将来女帝が即位しても差し支えは無いと考えますが如何でしょう。その10女帝は、推古・皇極・斎明・持統・元明・元正・孝謙・称徳・明正・後桜町ですが、孝謙天皇は高野天皇とも謂い、聖武天皇の第2皇女、母は光明皇后、名は阿倍(あべ)、藤原仲麻呂、道鏡を重用しました。淳仁天皇に譲位し、後、重詐(ちょうそ)して称徳天皇となり、在位通算718〜770年と謂います。従って実質は9人です。

私は小学校の「国史」で藤原仲麻呂、弓削の道鏡、和気清麻呂の話は学びました。しかし、この頃の皇室については色々な話(歴史伝説)も生まれ興味のあるものです。

今日はココントコ、阪神もパッとしません(中日に3連敗)ので、全く違ったお話を持ち込みました。お許しを。やがて、正午になります。これにて失礼。

(^。^)村ちゃん、先週金曜日は、光ファイバーの導入工事で失礼しました。午前中に工事は完了、午後12時半頃にはパソコンの設定も終わり、早い早い、光ファイバーに繋がりました。これで、一安心と思いきや、家庭内LANケーブル、LANボードが従来の物が10baseで100baseに切り替えることになり、電気販売店に走ったりしてやっと、昨日無事開通できホッとしているところです。

阪神タイガース、中日に無様に3連敗でした。ここと言う所に、1発が出ませんね。ヤキモキの連続でした。打線を組み替えるとか、何か抜本的な対策が必要じゃないでしょうか。岡田監督の手腕に掛かっています。

女帝の誕生、歓迎ですね!

2004.5.27  サマワのオランダ軍は撤退するか? 自衛隊は誰が守る

この所、しばらくイラクの事から、私の思いは離れていましたが、復興支援業務も大過なく進み、隊員の交代も既に行われ、すべては順調な中、サマワで治安維持に当るオランダ軍の駐留期限が7月15日に迫るについて、オランダ国内が揺れている事に驚きました。

政府や主要与党が「駐留延長」を主張しているのに対し、「世論」はサマワ情勢の悪化を受け、「撤退」に傾いていると云うのです。
政府は来週にも結論を出しますが、何分最大野党の労働党が「撤退」を主張しているので楽観は出来ません。

若し、オランダ軍が「撤退」すれば、我が自衛隊は丸裸になるわけです。
仮にオランダ軍が撤退しても、アメリカ軍には代って欲しくない、まだしも、イギリス軍の方がましだと願うばかりです。「アメリカ軍だと最悪だ」(外務省幹部)とは、日本政府の本音だと言います。
サマワは「奇跡的に平穏な地域」(陸幕幹部)でしたが、5月に入ってからは現地民兵と、地元警察やオランダ軍との間で小競り合いが散発的に発生し、オランダ兵もテロで1名死亡しています。

「拉致」に関わる、小泉首相の平壌再訪問に目を奪われている間にも遠くイラクの地で危険を顧みず、日夜復興支援に尽力している自衛隊の皆さんがいる事を想起しましょう。
  【陰の声】 むかしなら、慰問袋などを送ったのですがね。

ところで、今の若い人は「千人針」と謂う言葉を知っていますかね。
  一片の布に千人の女が赤糸で1針ずつ縫って千個の縫玉を作り、出征将兵の武運長久・安泰を祈願して贈ったものです。日清・日露戦争の頃始まり、初めは「虎は千里を走って千里をもどる」の言い伝えから寅年生まれの女千人の手で縫ったと謂います。

今日は、「拉致」関連の話には食傷気味になりましたので、イラクの事を書きました。やがて、正午が来ます。空には雲が多く、明るいのですが、鬱陶しい感じで、蒸し暑く感じます。

昨夜は阪神、横浜戦に7連敗。”虎陥落”、中4日の三浦の気骨に負けたと言われています。この虎では「千人針」は無理ですね。


2004.5.26  麻酔科の医師が足りない、外科医で間に合わせ?

今日は悪い天気ではありませんが、雲が多い空になっています。昼になれば日差しも強くなるのかも知れません。

小泉純一郎首相は昨日衆院本会議で、22日の日朝首脳会談について報告をしました。会談の成否をめぐって与野党で評価が入り乱れ、政界の混乱を露呈していました。その内容については既に報道されていますので、繰り返しはしませんが、「何でも反対」の共産党・社民党がこの件だけは評価していたのは、成るほどなぁと変に感心しました。

朝刊(毎日)に「6割以上の病院、外科医など応援」として、麻酔科医が足りない事を取り上げていました。学会の調査では、「全身」1人年間500件も担当しているそうです。奈良県立医科大教授は「年間300件が限度ではないか」と話しているそうです。
「全身」とは「全身麻酔(全麻)」の事ですが、施術をうける患者にとっては大変気になる心配な事なのです。専門医でも間違いを起さないとも限らないのに、専門外の医師が、と思うと心が縮む思いがします。

私は喉頭がんの治療に際して3度「全麻」を掛けられました。1回目、2回目は生体検査で、最後は喉頭の全摘出でした。その都度、前夜就寝前に麻酔科の医師が、手術の段取りを説明に来ます。医師はいとも簡単に説明して、「終わると手を握りますから、判ったら握り返してください」と言います。そして「大抵の人は暫くすると意識が戻りますから」と説明を終わります。

最初の時に私は、「目が覚めない事もあるのか」と聞きましたら、「たまにそんなケースも報告されていますね」と、イトモ簡単に答えてその医師はニヤッと笑いました。幸い、私は3度とも生還して現在生きています。
皆さん、「全麻」で手術するようになった時は、麻酔科の専門医師が居る・居ないはシッカリ確かめておいてくださいね。(新聞記事を読んでの感想でした)

ところで阪神はどうなってるのでしょう。去年のお返しか今年は、横浜に6連敗、昨夜、気の良い私は7回以後に得意の逆転劇で、ファンを喜ばせてくれるのかと最後まで付き合いました。ところが逆転するどころか追加得点されて、8-2で惨敗でした。藪は暴投で自滅4敗目。残念ですね。

今日は麻酔科の医師不足の新聞記事に目がとまり、私の「全麻」経験を書きました。ご退屈さまでした。正午になります。また、あした。


2004.5.25  「何てややこしい人生に」曽我さん心境漏らす


今日は朝からすっきりした空で、洗濯に、布団干しに絶好の天気でした。

小泉首相の北朝鮮訪問で揺れた日本の国論も、既に凡そは治まったようで、何でも先にたって騒ぐテレビも今朝あたりは静かに話しています。
兎に角、金正日が「白紙に戻した」10人の安否を、いつ報告してくるのか、それを待たなければ、国交正常化交渉も進みません。

それと、曽我ひとみさんと夫ジェンキンスさん、二人の娘さんを何処で会わせるかも急ぐ事です。ロシアのウラジオストックにするとか、スイスのジュネーブ等も考えられていたようです。ある期間夫婦親子でゆっくり話せるようにして上げなければならないでしょう。
政府は24日、結局、曽我ひとみさん一家の再会場所を「北京」とする方針を固めたようです。(5/25・03.04 Yomiuri Line)

考えるべきは、アメリカとて、軍隊の軍規軍律は厳しいでしょう。特にアメリカは、いま、戦争中です。いかに小泉首相がブッシュ大統領と親しいからと言っても、軍は許しはしないでしょう。
極端に冷たい言い方をすれば、曽我ひとみさんの「拉致」は解決した訳ですから、話し合った上で、曽我さんが北朝鮮へ行って夫婦親子で住まうと云う結論が出ても、誰も邪魔立ては出来ないでしょう。曽我さんが家族を捨てるか、日本の親を捨てるかは自由です。勿論、出来れば日本へ来て一家が平和に暮らせるのが一番です。(休憩)

一寸一休みしていたら、Sankei Web が次のように伝えていました。即ち、米政府高官が、曽我ひとみさんら家族の再会場所として北朝鮮が提起した「北京」について「特段問題になるようなことはない」と述べ、中国での再会に米政府として異論はないとの認識を共同通信などに語ったそうです。
また、バウチャー国務省報道官は同日の会見で、再会問題に関して「日本政府と接触している」と指摘、強い関心を抱いている事を示唆したそうです。

しかし、曽我ひとみさんは、とんでもなく不幸せな星の下に生まれた人だと同情します。若くして、母親と共に拉致され、その母親は未だ行方知れず、北朝鮮で結婚した(させられた?)夫は米軍脱走兵、二女をなして、我が身は日本へ帰れても、愛する家族とは引き裂かれ、私は慰める言葉も知りません。むかし、子供のころに、「安寿姫と厨子王」の話を読んで涙した事が思い出されます。

曽我ひとみさんは22日夜に、「私って何てややこしい人生になってしまったんでしょうね」と心境を漏らしたと、中山恭子内閣参与は24日浜松市内で話しています。

曽我さんたちご一家に、神のお恵みあらん事を祈って、今日は終わりにします。

2004.5.24  蓮池・地村両夫妻、1年7ヶ月ぶりに子供と再会、
           願い虚しく 曽我さん涙溢れ


一昨日のテレビは騒がしい事でした。俄かの小泉純一郎首相の訪朝で、日本中朝から深夜まで、期待と喜びと落胆の興奮に包まれました。
私も野次馬根性丸出しで、朝6時過ぎから寝床の中でテレビを見ていて、夜ベットに入ってからもテレビを見ていました。
小泉首相を乗せた政府専用機は拉致被害者やその支援者・すべての国民の期待と共に午前6時48分、羽田空港を出発、平壌に向いました。
その後の日朝首脳会談の経緯、展開は逐一テレビや新聞(号外を含め)で報知されたところですが、夜には首相一行に続いて蓮池夫妻の長女(22)と長男(19)、地村夫妻の長女(22)、長男(20)と二男(16)の計5人が帰国しました。
曽我ひとみさんの夫元米兵チャールズ・ジェンキンスさん(64)は本人が米軍の訴追(脱走・外)を恐れて長女(20)、二女(18)を含めて来日を希望しませんでした。
首相は会談で、北朝鮮が「死亡」「入国なし」としていた拉致被害者10人について、再調査を要求し、北朝鮮の金総書記もこれを白紙に戻して、再調査する旨了承しました。
外に、「金総書記はミサイル発射の凍結継続を確認」「核問題の平和的解決に向け6ヵ国協議の進展に努力」「日本は国際機関を通じて食糧25万トンと、1000万ドル相当の医療品支援」「北朝鮮が日朝平壌宣言を履行する限り、経済制裁措置を発動しない」等などを確認しました。
現地からのレポートは、刻々テレビでも報道されて来ましたが、拉致被害者家族の会メンバーは、安否不明の拉致被害者10人の実態がこの期に及んでも明らかにされず、その事を追求もしなかったと激しく小泉首相の対応に不満を漏らしました。
帰国後、首相は午後10時20分頃から、拉致被害者と家族会メンバーと面会し訪朝の報告をしましたが、横田滋さん(71)は「予想していた最悪の結果が出た」と述べ、また、他の何人かも厳しい批判をし、中には口穢く首相の責任を問い、人道支援としてのコメ25万トンや1000万ドルの医療品支援を約束したり、制裁放棄をする事は正に金正日に屈し、自ら武装解除をしたに等しいではないか等の発言がありました。
小泉首相は、ただ、再訪朝の意義を述べ、不明者は「先送りではない」事を静かに強調しました。
昨日もこの事で各テレビとも持ちきりでした。家族会の人達の気持ちは十分判りますが、小泉首相に責任を取って辞めろとまで言うのはどうかと思いますね。
私は良く出来た、小泉首相だから出来たと思っています。今朝の新聞では各紙とも、評価は62から65%ぐらいになっています。
いずれにしても国と国の交渉事は難しく時間のかかるものですね。
蓮池・地村両夫妻も、子供を北朝鮮へ残していて言えなかった事を、これからは話しよくなり、安否不明の10人に関わる情報も得られるのではないかと期待します。

さて、先週末からの巨神戦、金曜日は井川の出来が悪く、エラーも絡んでサッパリでした。反面敵ながら天晴れは工藤、阪神は0.5差と追い上げられました。しかし、土曜日首位は渡せぬと7回、2死満塁で金本センター前へタイムリーヒット。4−6で逆転、そのまま勝利へ、。昨日は延長10回赤星のサヨナラ3塁打で4−5と逆転しました。この3連戦2勝1敗で阪神が勝ち越しましたが、阪神はどうして逆転でしか勝てないのでしょう。不思議なテームですね。

大相撲千秋楽は、朝青龍が連勝を35で止められた遺恨の相手の北勝力と13勝2敗同士で、優勝決定戦を戦いました。結果は朝青龍が北勝力を完封しました。

兎に角、騒がしい先週末でした。今週はどんな問題がメイン・テーマになるのでしょう。 
退屈じじいは待ってるぜ!。  では、また、明日。

(^。^)村ちゃん、小泉さんの評価は全体的には半ばのようですが、拉致の家族にとっては5人が帰って来た事は当然で、不明の10人の情報が何もなかったということで厳しい意見が続出していましたね。
いろいろと異論はありますが、私は今回の訪朝は評価できると思います。
国交正常化に向けて、また核問題など前向きな道筋が見えて来たように思えますし、今後の外交交渉が鍵になることでしょう。
不明の10人の情報も段階的に取り組んで行くしかないでしょうね。
記者会見での家族の噛み付きは、聞いておられませんでした。
自国の総理に対してあれは、行き過ぎではないでしょうか。

阪神、最後の最後まで良く頑張りましたね。あんなに力があるのであれば、モット早い回に得点を重ねておれば気持も楽になるのにね、と要らぬことを言いたくなります。また、明日からの横浜戦、本当に頑張ってもらいたいものです。



2004.5.21  今日から甲子園で巨人と3連戦 力が入りますね

列島を東西に延びていた前線が、しばらく雨を降らしていましたが、更に台風2号の影響で、太平洋側は大雨が続くと予想していました。
しかし、台風は東にそれたそうで、関東方面でも影響は少なく済むようですね。
ここ奈良では雲が切れて久しぶりの太陽が見られました。この分だと今夜の甲子園は巨神戦が楽しく見られそうです。神宮では惨めな1敗の後、雨でゲームが出来ず、阪神ファンはストレスが溜まっています。
今夜は是非とも、巨人を”虎”えて貰いたいものですね。

小泉純一郎首相が自ら北朝鮮の平壌を再訪問し、金正日総書記と会談すると突然発表されて以来、マスコミも、家族会も俄かに騒がしくなっていましたが、その日は既に明日に迫りました。会談の経緯結果については、何れ明日の深夜に首相の口から語られる事になるようですが、この首相の大きな賭けの前に年金未加入・未払いの問題は完全にお預けになった格好です。今朝の新聞は「三菱ふそう」の車両欠陥を8年間も隠蔽し、やっと18万台リコールする事になった。その間、死亡事故を含めトラブルが70件にも達していたと謂う記事が、トップに出ていました。

昨日のメールで、奈良の鹿は春日さんの神鹿で、死なせると「石子詰め」の刑に処せられると述べましたが、この「石子詰め」の事は3月8日のメールに説明していますので、参考にしてください。

今日はかって、私が聞いた話を思い出したので、ここに披露します。本当の話とは思えませんが、現実と符合した事もあると言う話でしたので覚えている事を書きます。
むかし、常陸の国から、春日さんが奈良へやってきました。そして、土地の神さんに、真に済みませんが、土地を少し分けて貰えませんかと言いました。土地の神さんはとの位の土地が欲しいのですかと聞きました。
春日さんは、「いや、一寸で良いのです。3尺位で良いのです」と言いました。土地の神さんは人が良いので「その位ならどうぞ、どうぞ」と許しました。
ところが、春日さんはドンドン広い土地を我が物にしていきました。
驚いた土地の神さんは「これこれ春日さん、話が違うでは無いですか。あなたは土地を3尺だけと言ったじゃないですか」、すると春日さんは「3尺とは言いましたよ、それは深さ3尺と言ったのですよ」と言って聞きません。
それで、春日さんの松やその他の木は、3尺以上根を張れず、強い風が吹くと直ぐに根ごと倒れる、倒れやすいと云う事になったと言うのです。
この話は、昭和42年、私が大阪阿倍野筋5丁目から大和郡山市下三橋の社宅へ転宅したその日に仕事を取りに来た洗濯屋さんが教えてくれました。その洗濯屋さんの家は奈良の転害門近くにあったと覚えています。
春日さんが聞かれるとお怒りになるかも知れませんが、巷間では色々な事を言うものですね。

それにしても、深さが3尺とは考えましたね。明日、明後日は土日でメールいたしません。来週またお会いしましょう。

(^。^)村ちゃん、今日からの巨人3連戦、阪神にとって大事な試合。井川、福原の踏ん張りに期待したいですね。北朝鮮の拉致問題、小泉首相の手腕に国民の目が一斉に注がれています。明日の土曜日、歴史的な瞬間を誰もが期待しています。
阿倍野から大和郡山へ移られたのは、今から37年前ですか。現役時代、阿倍野でお世話になった頃が懐かしいですね。
春日さんのお話、楽しいですね。深さが3尺とは良く出来たお話です。洗濯屋さんの家があったと言われる場所は、東大寺の転害門がある手貝町なんですね。

2004.5.20   22日家族帰国へ最終調整 北朝鮮も家族の意思確認に着手

日本列島は大陸からの雨雲に、すっぽり包まれているようですね。その上今日から台風2号の影響も加わって、太平洋側は大荒れのようです。特に関東は上陸の可能性もあって、降り続いた雨に緩んだ地盤山肌に非常のことが無ければよいがと、心配されます。

今回小泉首相が、拉致問題と併せて、核の問題、ミサイルの問題を包括的に解決しようという「日朝平壌宣言」確認のため、22日に自ら訪朝しょうと言い出してから、拉致家族会やマスコミがアレコレ騒いでいましたが、今日の朝刊(毎日)には「拉致被害者家族、『22日に首相と帰国』日朝両政府が合意」とありました。ただ、曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんについては本人の意向次第ではなお調整が必要のようです。
また、小泉首相は今日の「メールマガジン」に北朝鮮再訪問へのメッセージを載せています。首相の並々ならぬ、この問題に賭けた決意を感じます。

さて、昨日「大仏の鼻くそ」なる奈良公園の菓子の事を話しましたが、今日も奈良公園に関わる話をしてみましょう。

奈良公園へ行かれた方は多いと思いますが、公園の中を歩いていて気づくのは立ち木が茂っている所でも比較的遠くまで見通しがきく事です。人の丈くらいまでは枝が無く、下草も無いのです。これはディア・ライン(鹿摂食線)といって、大体190〜195cmくらいまでは鹿が刈り取ってくれるのです。
だから広大な公園の芝生の手入れは少なく済むわけです。「馬酔木(あせび)」は鹿が食べませんから繁茂しています。

また、奈良公園は範囲がはっきりしていません。だから、鹿は街中を歩いています。奈良と鹿は切り離す事が出来ません。
奈良の土産に、鹿の角で作った細工物や鹿皮の財布などがあります。昨日お話した「鹿のふん」は単なる飴で、「糞」ではありません。鹿の肉も私は見たことも食べた事もありません。鹿の肉は、猪の肉を「牡丹(ぼたん)」と言うように「もみじ」と言うそうです。

何故、「もみじ」と言うかには二説あって、一説には花札の紅葉と鹿の構図からきたと謂います。
もう一説は、『百人一首』の猿丸太夫の歌から発想したものと考えています。
  奥山に もみぢふみわけ 鳴く鹿の
     声きく時ぞ 秋は悲しき      (古今集巻四・読み人知らず)

江戸時代には獣肉は食べなかったので、病後などに「薬食い(くすりぐい)」と称して滋養強壮のために食い、獣肉であることを隠す意味での隠語として使われたそうです。但し、奈良の鹿は「春日さんのお使い」「神鹿」ですから、発覚すれば「石子詰」の刑に処せられました。

世の中何故か、ここ、二・三日落ち着いて然したる話題もありませんので、
今日は奈良の詰まらぬ話で、お茶を濁します。また、あした。

(^。^)村ちゃん、午後から雨の予報で、また台風2号の影響も心配され出掛けるのを控えましたが、午後1時半今の所雨は降っていません。台風の進路に当たる所に大きな被害が出なければ良いのですが。
奈良公園に行くと沢山の鹿と広さに驚きます。鹿の肉は「もみじ」と言うことは知っていましたが、花札や百人一首から来ているのですね。隠語として使われたそうで、昔の人の知恵というか、風流なもんですね。

2004.5.19  「大仏の鼻くそ」はそんなに東大寺にとって気になる?

今朝は曇って何となく鬱陶しい天気です。先日来雨がシトシト降り続き、時には激しく降って洪水警報が出たり、はや、梅雨かと思うこの頃です。
お陰で周辺の立ち木や我家も含めてご近所の庭も、緑が鮮やかに茂っています。
幸い昨夜東京は天気であったらしく、神宮の阪神ーヤクルト戦は行われました。阪神はヤクルトを飲んで元気を出すかと期待していましたがなんと、ヤクルトに10−13で溺れてしまいました。残念でした。

民主党の代表は結局、岡田克也(50)幹事長が無投票で当選して落着しました。野党第1党の代表としては、何故か、私には小遣いに不自由しない、個性の弱いボンチ、と云う感じに思えてなりません。海千山千の小泉や公明党の神埼あたりと、何処まで闘えるか?、お手並み拝見と云うところです。自民党サイドは早くも「組し易し」と好感を持って見ています。
「年金制度改革関連法案はこの国会で廃案にする」と言っていますが、3党合意は、岡田さんも関係しているのでしょう。政府の原案には賛成しいていないと言っても、可笑しなことに思えますがね。

俄かに出てきた小泉首相の北朝鮮訪問問題、22日の日朝首脳会談に向け、先遣隊は昨日平壌入りし、高麗ホテルに現地準備対策本部を設置しました。
日本テレビは何処で仕入れたネタか、16日に早々と「25万トンのコメ支援で最終調整」と人道支援内容を放送し、取材源を明かさないため、首相訪朝の同行取材から日本テレビを排除するそうです。マスコミはどうして何でもかんでも見境なしに報道するのでしょう。国の施策には密なる事を要する場合がありましょう。報道に従事する者も日本国民なら心得ていなければならないことでしょう。二言目には「知る権利」だとか「報道の自由だ」とか言う手合を、私は蛇蝎同様に嫌います。

話をガラッと変えて、奈良の話です。最近新聞やテレビで見聞きしましたが、東大寺南大門の前の土産屋に「大仏の鼻くそ」と謂う菓子を作って売っている店があるそうです。それが東大寺からクレームをつけられているというのです。
私は「鹿のふん」と謂うのは知っていますが、「大仏の鼻くそ」は知りませんでした。テレビで見ると豆か何かを黒砂糖様のもので固めた丸い塊りのような菓子でした。土産物として結構売れていたようで、寺から商品名を取られた業者は困惑していると言うのです。なんだか子供の喧嘩のようですね。

京の行事食の一つに「お釈迦さんの鼻くそ」とよばれる料理があります。
飯櫃にこびりついた米粒や、炊飯器についている米粒を竹ざるに集め、天日に十分干すと、コチコチの干飯ができますが、これを缶に入れておき、少し溜まったところでフライパンで煎り、砂糖としようゆで味つけすると、結構美味いおやつになります。別に大豆を十分に煎って、一緒に混ぜると、なお、よろしい。
むかし、4月8日の花祭りのとき、各戸でこれをつくって釈迦佛に供え、子供たちにもおやつとして与えましたが、かたちと音とが似ているところから、いつしか「花供御(はなくご)」を、「鼻くそ」と子供が呼ぶようになったと伝えています。

長くなりました。また、あした。

(^。^)村ちゃん、「大仏の鼻くそ」、「お釈迦さんの鼻くそ」どちらも子供が喜びそうな、また庶民受けする食べ物のようですね。東大寺たるものクレームとは、何故?それも、結構売れているというではありませんか。大佛様も喜んでおられるのでは?
「花供御(はなくご)」を、「鼻くそ」と子供が呼ぶようになったと伝えているそうですが、流石に京都には良い話が残っていますね。


2004.5.18  民主党・小沢一郎が代表就任辞退 年金未加入6年間


今朝はすっきり晴れた爽やかな天気で夜が明けました。気温も湿度も程々で、私の喉にとっては最適のものでした。日が昇って、気温と共に空気が乾き出すのが、脅威に思えます。

さて、私、昨日メールで「民主党の代表には小沢一郎代表代行が決まった」とし、「いずれ内部に亀裂も生じて」長続きしないだろうと述べましたが、その午後には国民年金未加入期間があったことを理由に、代表就任を辞退しました。あまりの急変に唖然とするばかりです。
年金に加入・未加入は問題になって既に相当の日時が過ぎています。
それを何故、今ごろと思い、サテは民主党内に小沢一郎就任に異見を唱える分子があるのかと勘ぐりたくなります。小沢一郎は以前から、一部にでも賛同しないものがあれば、ソッポを向く癖があります。
表向きは「小泉純一郎首相の未加入問題を追及出来ない」からと説明していますが、本意は”ドーナンヤロ”かと思うのは私の僻目でしょうか。
野党第一党の民主党もいずれ分裂すると私は以前から見ています。

年金制度改革関連法案は、今日から参議院での審議が始まりますが、ここまで混乱を招いた国会議員の手によって出来た法案は、一旦「廃案にして、年金一本化も含めて出直」しては如何かと私は思います。
皆さんは如何思われるでしょうか。

国内で年金を払った払わなかったと騒いでいる間も、イラクではテロによる破壊攻撃が絶えず、昨日午後(日本時間)にはバグダッドの米英占領当局(CPA)の管理区域入り口で自動車爆弾が爆発しました。そして暫定統治機関「イラク統治評議会」のイズデイン・サリム議長を含む8人が死亡したとAP通信は伝えています。これはイラク人の統治機関最高位の議長暗殺事件と見られています。

そんな中でも、我が自衛隊の皆さんは、それこそ”精精粛粛”復興支援の実をあげ、派遣陸自帰国第1陣約110名が17日午前旭川空港に帰り着きました。彼らの目にはこの無様(ぶざま)な政界の状況はどの様に映るでしょうか。

さて、北朝鮮による日本人『拉致』事件は、小泉首相が22日に平壌へ出向いて行う日朝首脳会談でどの様な結果が出るか、拉致被害者や家族は勿論、支援グループ、一般国民も期待を持って注目しています。
拉致被害者曽我ひとみさん(45)の夫で元米脱走兵のジェンキンスさん(64)の処遇は、小泉首相がブッシュ米大統領に配慮を求めていましたが、結果の公表はまだありません。本人は入院中との話もあります。何病か知りませんが、いっそ、日本の病院へ転院したらと思いますね。

いま、11時半空は雲が一面に広がって、雨の降る様子は無いものの嫌な天気になりました。今夕神宮で阪神はヤクルトと対戦します。関東の天気が気にかかりますが、虎はヤクルト飲んで元気を出すと思いますよ。
では、また、あした。

2004.5.17   15日の甲子園、4時間半雨中の死闘、赤星よくやった

今日は再び月曜日、新たな一週間が始まります。
先週末は金曜日が私の予約診察日で、メールを送りませんでした。
また、土、日は休むので、今日は3日ぶりのメールになります。最近の世の中は移り替りが速いので、僅かな間でも色々な問題が出てきたり、解決したり、何となく忘れられたりして行きますね。

天気も木曜日には大雨で洪水警報なども出ていました。皆さんにご被害は無かったでしょうか。金曜日は何とか過ぎましたが、土曜日は夜に入ってぐずつき出して、甲子園球場の広島対阪神戦は雨中の4時間半、球場に砂を入れながらの阪神首位をかける大熱戦になりました。12回裏阪神2死、1,2塁、赤星、ライト前にサヨナラヒットでヤレヤレの首位確保でした。
朝青龍は14日、6日目に惜しくも北勝力に破れて、連勝は35で止まっています。残念でした。

一方、女子バレーボールは宿敵韓国を3−0で降し、五輪予選を突破しました。更に15日には台湾を3−1で降しました。しかし、昨日はロシアに0−3とストレートに敗退し、五輪金メタルに不安を残しました。バレーボールは見だすと力が入るものですね。何分にもスピードが早く、私は年甲斐もなく力んで見ていました。

年金問題は揺れ続け、14日には小泉純一郎首相の未加入期間が報じられました。任意加入期間の問題とあって、マスコミあたりの攻め方も、もっと早くに発表すべきだったと政治責任を問う形で取り上げているようです。
首相は北朝鮮を訪問し平壌で金正日総書記と再会談を行う事にしました。これを以って拉致被害者5人の家族8人の帰国、外拉致事件全般の再調査、その上での日朝平壌宣言の確認をしょうとしているようです。

民主党の代表には小沢一郎代表代行が任期9月末までで決まりました。しかし、小沢民主党は長続きしますかねぇ。私はいずれ内部に亀裂も生じて来るように思います。参議院選挙の後でしょうか。

年金制度改革関連法案の「見送れ」コールが、そべてのマスコミを通じて起っています。法案を審議した国会議員が余りにも、国民年金に無知・無関心であった事実が続々暴露される中では、議員年金も含めて再検討の必要はあると私も感じております。

今日も朝から雨が激しく降ったり、止んだりしていましたが、やがて昼前再び降りそうな気配です。金曜に京都のタキイ種苗から届いたカラフルパプリカ(オレンジ・レッド・イエロー)と甘とうがらしの苗を植えましたが、激しい雨に叩かれて倒れたのを、支柱を立ててやりました。もうこれ以上の雨は「堪忍して!」と云う気持ちです。
いま、何処かのサイレンが昼を告げました。また、明日ご機嫌を伺います。

(^。^)村ちゃん、
よく続けて降りましたね。土曜日の甲子園は長時間TVも着けっ放しでやきもきしましたが漸く12回裏、赤星のヒットで貴重な勝星を拾い良かったですね。雨中の中最後まで応援されたファンも満足されたことでしょう。
 国民年金、言われるように再検討すべきですね。こんなにも問題の多い懸案をこのまま通してしまうことは将来に禍根を残すこと、必至です。

2004.5.13  公明党よ、お前もか、鉄面皮神崎武法代表は辞職せず

昨日の午後は気温が上がり、私には少しつらい気象になりました。
今朝も気温は高いようですが、雨になって湿度はまあまあで落ち着いています。わたしは救われたような気分です。

昨夜家内が電話の子機で友達と話をしていて、急に切れたと訴えるのです。成るほど、その子機はディスプレイも消えたままで、私もテッキリ故障かと思い、今朝NTT(113)へ電話しました。すると何の事はない、家内が「切」(電源)を抑えて、しかも数秒そのままでいたもので、話が切れて、更に電源まで切っていたことが判りました。私も其処まで気がつかず、慌ててしまっていました。赤面の至りでした。
機械に強いとの自負心があっても人間、時には思わぬ「ポカ」があるものですね。

「ポカ」で済ませられないのが、国会議員の年金保険料未納問題です。昨日は公明党の神埼武法代表・冬柴鉄三幹事長・北側一雄政調会長の幹部ほか13名が国民年金の未加入・未納者であった事が判明しました。
毎日新聞の社説には『公明党よ、お前もか』。「国民は砂をかむ思いである」。しかも、衆院本会議で年金制度改革関連法案が可決された翌日になってである。『こんな国民をバカにしたやり方はない。言語道断である』と厳しく論じています。
神崎代表は「国民に大きな不信感を与えた」と陳謝して「誠に慙愧に堪えません」と党内で適当な処分で済まして、大口叩いていた口を拭おうとしています。

自民党は形だけでも福田康夫官房長官が辞任しました。民社党はヤイノヤイノと言われて、菅直人代表が辞めました。神崎武法代表よ、「オマハンも代表辞めたらドーや」と私は言いたいです。皆さんはどう思われますか。

自民党の安倍普三幹事長は、遊説先の山口県の街頭で演説して、議員の年金保険料未納問題の報道について、「『こいつは払ってる、払ってない』と魔女狩りのごとくだ」と話したと伝えられています。
安倍幹事長にしてこの感覚か?。私は失望しました。

民主党の代表人事は難航しています。小沢一郎代表代行が引き受ける様ですが、幹事長で行き詰まり、また、党内の意思統一にもまだ、時間が掛かるようですね。

ところで、阪神はどうなっているのでしょう。一昨日ヤット阪神らしさが帰ってきたかと思ったのに、昨日は巨人木佐貫に抑えられ、打線は振るわず、井川は打ち込まれ、ローズのとどめに泣きました。
お陰で今日近畿は雨に泣いてます。東京はドームですから今晩はシッカリやってや!。
大相撲夏場所4日目、朝青龍は難なく34連勝、史上5位(大鵬)に並びました。今場所中に3位の大鵬に並ぶか。期待して見ています。

此処まで書いて正午になりました。明日は私の予約診察日で、病院へ行きますのでメールは送りません。悪しからず。

(^。^)村ちゃん、朝から小雨が降り出し、午後になり雨脚もきつくなり4時ごろには激しい降りでした。年金未納問題は留まるところを知らない程の人数になりましたね。自民党は幹事長更迭で、民主党は代表が辞任し、後継代表が難航している。言われるように、公明党は適当に処分して職を辞めないで職務を果たしたいと大見得を切っている。こんなことで、国民の信頼を繋ぎ止めようとしても、無駄なことです。何時まで続く泥濘か!

2004.5.12  首位攻防4時間、トラ連覇へ、巨人はお得意様でーす

今朝は少しひんやりした感じでしたが、太陽が昇るにつれて気温はグングン上がって、いま10時、既に25度を越えました。この分では午後はどうなるかと心配しています。と言うのは気温が上がり湿度が下がると私の喉の切開部は悲鳴を上げる事になるからです。

体調が悪い時、イライラすると何かに当り散らすのが、一番の良策で昨日は民主党の菅直人代表を随分こき下ろして、体調を整えました。
午後話の種の「年金制度改革関連法案は衆院本会議で採決が行われ、三党合意の「一元化の展望」をうたう法案付則と政府本案とに分けて、民主党は付則に賛成、本案には反対と謂う訳の判らない形で可決されました。参議院ではどうなるでしょう。もう、あまり揉める事もありませんかねぇ。

民主党の新代表は簡単には決まりそうにはありません。上記の修正案にも造反した議員が9人もいます。代表は話し合いで決めると謂いますが、そうはスンナリ決まらないでしょう。与党に対抗できる野党が出来るかと期待していた国民は、今回のバタバタでがっかりというところです。

ところで、昨夜の東京ドーム中々力が入りました。何分阪神フアンとしては相手が貯金のできる”巨人銀行”ですから。家内は阪神フアンではありませんが、アンチ巨人ですから二人で見ました。金本はやりますね。詳細はご存知の通りですから省略します。

大相撲夏場所の興味は、朝青龍が連勝45の大鵬に迫れるか、どうかです。昨日は栃乃洋を足取りで投げて33連勝を決めました。

話は替わりますが、アメリカ軍のイラク人虐待事件が、先日来世界のマスコミを騒がせていますが、今度は、米民間人が殺害され、その映像がイスラム系サイトで流されると謂う事件が報道されました。
これは国際テロ組織アル・カーイダ系ヨルダン人テロリスト、アブ・ムサブ・ザルカウィ容疑者とされる人物らがイラクの米民間人男性を打ち首にして殺害する映像であったようです。
もう、これは戦争と謂うよりは、お互い憎悪に満ちた民族・宗教上の憎しみあいで、やくざの子分が殺されたから、相手の子分・組長を殺す連鎖に似たものですね。けだものの食い殺しあいに似て忌まわしい限りです。地獄を見ると謂いますが、地獄絵には此処までの忌まわしさはありません。

いま、11時25分、気温は28度まで上がりました。空気も次第に乾燥して来ました。この辺で終わって、私は階下へ下りて防御体制に入ります。今夜も阪神の健闘を期待して依ます。では。
(^。^)村ちゃん、温度も相当上がってきました。でも、もう明日は昼頃から雨が降るとの予報で天候が一定しませんね。民主党の代表問題はどうなることなのか。年金問題では全く良く分からない形で採決してしまいましたね。早く一本化できるよう政党として立ち直ってもらいたいものです。今晩の巨人戦、井川で頂きと行きたいものですね。

2004.5.11  年金制度改革関連法案は、今日午後3党合意で採決か?

昨日の午後、一時晴れ間が出ましたが、夜に入って小雨が降っていました。その雨も夜明けには止んで、いま(10時)は曇り空ながら明るくなってきました。恐らく天気は回復してくるのでしょう。

愚図(この字は当て字)ついていた民主党の菅代表の辞任問題も昨夕の両院議員懇談会で、あっさり(否、やっと)本人が辞任を表明して晴れ間が見えました。しかし、同党としてはまだ一つ年金制度改革に関する自民・公明との3党合意の問題がありました。
そしてそれも総会を開かず、この懇談会で『執行部に一任』して安直に政府案に擦り寄る結果に終わらせました。天晴れ!、お見事!と皮肉に誉めて置きましょう。

ただ、一つ最後に、では、誰がこれからの民主党の代表者として参議院選挙に臨むのかは全く霧の中で先が見えて来ない体たらくです。
これでも日本の野党第1党ですかね。天下は太平ですね。

私のような、野次馬は三等席で、も少し民主党内で丁々発止と議論噴出するのを楽しみにしていたのですが、その意味では残念でした。
  因みに、丁々発止=刀などで互いに打ち合う音。
           また、激しく打ち合う様子。(ハッシも擬音)
その年金法案は、今日午後の衆院本会議で採決され、参院送りになる予定です。目出度し、目出度しですなァ。

次に、相撲の話ですが、朝青龍「重圧感無く、その日勝てばいい」と遂に32連勝して、羽黒山・北の湖と並びました。今場所中に大鵬の45連勝まで行くか?。

阪神は今日から、東京で巨人戦です。甲子園最後に出したあの打線で東京ドームを沸かせて欲しいものですね。「今年も勝ちたいんやー」

ところで、5月7日の私のメールについて、「越中ふんどし」とは何かという、若い人からの問い合わせがありましたので、説明します。
「ふんどし」(褌)とは、[フミトオシ(踏通)の転]ですが、男子の陰部をおおい隠す布で、「したおび」とも謂います。そして、むかし、細川越中守忠興の始めた、長さ1メートル程の布に紐を付けたものを「越中ふんどし」と謂うのです。
いまは、相撲取りの褌も「まわし」と謂うので、「ふんどし」と謂う言葉に馴染みの無いのは当然でしょう。
「六尺ふんどし」と謂うのもあります。これは晒木綿(さらしもめん)6尺(1尺は1メートルの10分の3)を使って作る男の下帯です。

私は前立腺がんの治療を受けた時、最初の処置を受けたあと、丁字帯なるものを使わされました。これは、正に「越中ふんどし」でした。

詰まらぬ事を思い出しながら、今日も昼になりました。これで失礼。

2004.5.10   「勝ちたいんや!」阪神去年の勢いを思い出したか?

今日は5月10日、再び月曜日がめぐってきました、昨日宵の内から降り出した雨がシトシト、時には音をたてて降っていましたが、今(10時)は霧のような雨に変わっています。
金曜日午前中にメールを送ったあと、俄かに民主党菅直人代表への”辞任コール”が、マスコミ、市民の間に広がって来ました。

従来から、政党内部では総裁や党首への不信任、辞任要求などはありましたが、今回の菅代表”辞任コール”は党内は勿論、党外、市民一般、マスコミ全般に強く、異例の姿になりました。
これに慌てた菅代表は、テレビの活用を思いつき、各テレビ局に出演を乞い、7日にはテレビ朝日・日本テレビ、8日はTBS・日本テレビ系、9日にはフジテレビ・テレビ朝日・TBS・日本テレビと三日の間に8局の番組を行脚しました。

訴えるところは「自分の年金保険料未納の言い訳」と「国会での年金制度一元化に関する3党(自民・公明・民主)合意の説明」でしたが、各局とも極めて冷たく、例えばテレビ朝日「サンデープロジェクト」では、司会のご存知田原総一朗からは「馬鹿みたいな弁解」「屁理屈はもういいの」と発言を遮られる一幕も見られました。

自民党の福田康夫官房長官に出し抜かれた菅代表は全く進退此処に窮まって、振り上げた刀、下ろす機会を見失い、立ち往生の形です。
今日午後の民主党両院議員懇談会で「3党合意」の了承が得られなければ、即時辞任、得られても「保険料未納(未加入)」問題で辞任する事で、幕を下ろそうと云う魂胆のようです。

『投了』と謂う言葉があります。これは囲碁や将棋などで、一方が負けを認めて、勝負がつく事です。私は若い頃よく友達と将棋を指して遊びましたが、王将が逃げ場を無くし、所謂、雪隠(せっちん)詰にならないと「負けた」と言わない奴は馬鹿だとしていました。先をよんで4〜5手前に『投了』するのを心がけたものです。

市民運動家から無手勝流で国政選挙に4回も挑戦し、当選後も小政党に身を置いてきたため、菅直人は「自分で道を切り開いて来た」との自負が強く、『負け』が判っていても『投了』せず、雪隠詰になっても、なお、粘ると人は言ってます。哀れな性(サガ)ですね。

8日甲子園は行き詰まるような投手戦が、阪神と中日の間で戦われました。
そして、0―0の9回裏、遂に鉄人・金本のサヨナラホームランが出ました。「今年も勝ちたいんや!」金本は叫びました。
そして、昨日は阪神打線が爆発、16−5と、去年の阪神が帰って来たかと、いささか「菅」中(あた)りをしていた私はホッとした気持ちになりました。(最初はラジオ、2回裏からテレビで見ました)

相撲は夏場所が始まりました。やはり朝青龍は強いですね。31連勝は単独9位になりました。何処まで勝ち続けるか、興味が沸きます。

正午になって、雨は上がり、空は明るくなって来ました。それではまた、明日。

(^。^)村ちゃん、
雨は一旦上がりましたが、また午後には降るようですね。昨日、一昨日と、昨年の強い阪神が帰ってきたようですね。今年のプロ野球、特にセは、所謂エースピッチャーが良くないようで全くのだんご状態ですね。阪神も井川、福原が敗れた中、打撃力が戻ってきましたが、気の抜けない試合が続きますね。大方の予想では、オールスターまでこのような状態が続くようですね。
菅代表のTV出演、余りにも無様で見ておられませんでした。与野党とも、年金問題でますます政治家不信を増幅しましたね。これで、参院選挙はまともに戦えるのでしょうか。

2004.5.7  セルを着る季節になりました、なぬ、セルをご存じない??

今朝も素晴らしい五月の空でした。明け方は少し冷え冷えしましたが、次第に気温は上がって爽やかな空気が流れています。午後は多少暑く感じるかも知れません。五月五日は立夏で、暦の上では既に夏です。

夏で思い出しましたが、昔は『更衣』(ころもがえ)という言葉がありました。着る物が洋服になり、住まいの中も洋風が取り入れられて、この言葉も殆ど聞く事がなくなりました。
これは、冬から春にかけて着用した衣を著更(きが)えることを言うもので、昔は四月朔日(ついたち)を『更衣』として着物・調度を取り替えたものです。今もなお五月一日から袷(あわせ)、六月一日から單衣(ひとえ)、七月一日から帷子(かたびら)に着かえる習慣の残る地方もあるそうです。

今日は余りにも爽やかな気分ですので、イラクの戦争や国会のゴタゴタ、北朝鮮拉致問題等など、話せば憤懣遣る瀬無くなるような話題は避けて、私が子どもの頃を思い出して季節の着物の事など話しましょう。

皆さん『セル』という着物をご存知でしょうか。セル地を使って作った単衣を謂いますが、セル地・ネル地の単衣は袷から単衣に移る中間に使われました。この『セル』という言葉は(serge オランダ)を語源としますが、梳毛糸(そもうし)を主とした単衣着物地や袴用の毛織物です。「サージ」【serge】と「セル」とは本来同じ語ですが、日本でいう「セル」は経(たて)・緯(よこ)とも細かい梳毛糸で平織りにした和服地の事です。

昔の書生は、絣の着物に「セル」の袴を穿くのが、最も書生ッポイ姿とされていました。私も中学に入った夏には、早速海水浴は白い絣と「セル」の袴で甲子園浜の少し西、中津の浜にあった甲陽中学の海水浴場へ行ったものです。
当時は高等学校(勿論、旧制)の学生が、絣の着物に「セル」の袴で、朴歯の足駄履いで詩を吟じ、寮歌を大声で歌い、ほろ酔い機嫌で街中を群れて歩く姿に憧れたものでした。
そんな少年の夢は次第に高まる軍靴の響きに打ちひしがれて、遂に、海軍色の極めて強い高等商船などへ進んでしまった私でした。

絣の下は何を着ていたかといいますと、晒しの半襦袢か、またはメリヤスのシャツ、下は越中ふんどしか、白い綿のパンツでした。今は着物を着てもふんどしをしめる人は無いようです。また、パンツも「おじんくさい」と笑われます。
越中ふんどしは気分の良いものですよ。第一、夏暑い時もアソコが蒸れません。着物やゆかたの下はこれに限ります。風とうしは絶好のものです。
ただ、ヒモはしかり締めておいてください。高等商船時代制服のズボンの裾から外れたふんどしの端が出ていて、上級生にシコタマ殴られた生徒がいました。可哀相でしたが、白い布を裾から引きずって歩く姿を見ていると思わず笑いも出てしまいました。

今では女性も殆ど和服を着ません。お正月や成人式、お茶の会やお花の会などには若い娘さんの和服姿も見えますが、本当にキッチリと極まっている人は10人中2〜3人位でしょうか。やはり和服の時は下着を着けず、腰巻にした方が良いのではないでしょうか。幾ら着付けをシッカリして貰っても、一度お手洗いへ行くと着崩れして裾がだらしなくなります。
  「ホットイテー!」ですか。
イヤハヤ、私としたことが、ツイ調子に乗りまして。それでは、また、来週月曜日にお会いしましょう。いま、11時30分、空はどんより薄曇りです。

(^。^)村ちゃん、
『更衣』(ころもがえ)のことから和服の下着のことまで大変興味深く、成る程成る程と頷きながら最後はニヤリとしました。昔の洋服は自然に適ったように出来ていたもんですね。今のように冷房装置も無い時代ですからね。今年もまた、暑い夏を迎えそうですね。

2004.5.6  何となく過ぎ去った連休、私には何だったのでしょう?

1週間に亘る連休は終わりました。後半天候が崩れましたが、概して平穏な連休でしたね。大いに楽しまれましたか。

私は申し上げているように、出歩くこともママならず、子供や孫が来るのを待つしかありません。しかし、孫も大きくなると、特にこのごろの若い者は年寄りには興味なく(但し、除お年玉)、今年は息子たち一家も、娘たち一家も来ませんでした。
夫々のスケジュールで過ごしたようです。まぁ、元気で居るならそれで結構です。孫も可愛いのは小学生位までですね。
息子や娘も「親父、パソコンやってる間は大丈夫だ」などと気にもかけない様子。今どきそんなものですかねぇ。尤もいつまでも親にベタベタしているようでは、却って親は心配です。考えて見ると子供もやがて50歳になります。

4月30日騒がしかったイラク人質、郡山総一郎(32)と今井紀明(18)の二人が記者会見をしていました。郡山君は「ジャーナリストは危険だからこそ現場に立って伝えることがある」と言い、今井君も「自分にとっての責任は、今回のこと(劣化ウラン)を日本の人たちに伝えること」だと話していました。二人は夫々それが自分に与えられた責任(使命)だと思っているようです。

それは二人の自由です。尊い志でしょう。それなら危険を承知でイラク入りするについては、親・兄弟にその志を伝え、「自分に如何なる事態が生じ、仮令、死ぬ事があっても騒いでくれるな」くらいの事を言い置く決意があってしかるべきものだったと思います。そして、不幸にして捕われた時、ビデオで、「わぁわぁ」騒いで自衛隊撤収を訴えるのではなく、祖国を、小泉首相を脅す手伝いをする位なら、「自分を殺せ」とひと言い得なかったのでしょうか。自分の責任と言いながら結果は、国の救出を待っていた訳でしょう。

国は国自体の邦人保護の立場から多大の犠牲を払っても、人質救出をしなければならなかったわけで、今回立派にやり遂げたと言えます。

そして、その間家族は毎日々々各政党を廻り、また小泉首相に合わせろと日参していました。そして、世間を騒がせました。その責任を感じなさいと謂うのが、所謂『自己責任』論なのでしょう。彼らは全く『自己責任』論を理解していないと私は思います。

また、マスコミはこの点を不分明にしたまゝ騒ぐから話はこんがらがってテレビのコメンテイターと云う利口ぶった者たちも、却って私たち視聴者を混乱させていました。

今後も、この二人はその志を大切にして、しかも、己もその属する社会の一員である事をわきまえて、大いに世のため頑張って欲しいものと思います。

話は替わって、横浜に連敗を続けた阪神はヤクルトを飲んで体力回復、広島のコイを一飲みかと思いましたが、昨日,虎はコイの小骨を歯に詰めて、最後に不覚をとりました。それにしても、流石は連休、各球場とも大変な応援でしたね。

3日は「憲法記念日」でしたが、今年は俄かに『改憲』論議が勢いづいて、「戦力保持を憲法に明記」せよとの意見が多く、自衛隊をグレードアップして、国防や国際貢献を目指す意向が一般に強くなって来ました。
ヤット、日本も年金制度で云う3号被保険者から自ら国民年金被保険者になろうと云う訳ですね。

また、予定では今日、年金改革法案を衆院本会議で採決するとの事でしたが、どうなるのでしょう。民主党の菅代表(保険料不払兄弟)は、海外逃亡をしていましたが、昨日あたりの報道では国会に間に合うように予定変更して帰って来ると言うことでした。

やがて、正午です。気温も上がり良い天気です。そよ風が吹いてお向いの鯉幟が静かに揺れています。平和です。眠たくなります。では、あした。

(^。^)村ちゃん、長い連休?も終わり私の住んでいる所も静かです。庭に出て、太陽に当たっていると眠くなるほど良い天気ですね。
私にとって、連休は良い骨休めになりました。会報のコピー取りやプリントに明け暮れましたが・・・。皆さんに喜んでいただける会報に出来上がったかどうか自信はありませんが、今月25日に発行します。
 処で、この連休大きな事故もなく良かったですね。阪神タイガースは、昨日追い上げも空しく敗れはしましたが、首位をキープ。明日からの中日戦が楽しみです。
年金問題、日朝正常化問題、改憲論などいろいろありますが、世論にも耳を寄せ真っ当な議論をやり実効をあげてもらいたいものです。

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