大工さんの雑学講座 U
Ohgu's Zatugaku
阪神タイガース大好きの奈良市の大工(おおぐ)さん

index
2004.9.1〜9.30 2004.7.1〜8.10
2004.5.1〜6.30 2004.4.〜4.30 2004.3.1〜3.31 2004.2.1〜2.28
2004.1.1〜1.31 2003.12.1〜12.27 2003.11.4〜11.30 2003.8.11〜11.03
2004.12.6   私の駄文講座は年末年始休みます

こんにちは、今日は天気もよく気温も平年並みに戻って師走の感じが一段と深まりました。それにしても昨日の暖かさは何だったのでしょう。
また、東海・関東では記録的な強風が吹いて大荒れしたようですね。
フィリピンを荒らした台風27号が低気圧になって日本を襲ったのでしょうか。

さて、1週間メール送信をサボりました。特にこれと言った訳があったのでは無いのですが、何となく気が乗らず、日が過ぎました。
健康の方は先のメールに書いたように、異常がある訳ではありませんが、しばらく乾燥が続き、切開した気管が不具合で落ち着きがなくなっていました。寒いと暖房を点ける、部屋の空気は益々乾燥する、加湿器を使っても何か不具合で、こんな時、体調不良、気が散って考えが纏りません。

そこで、いっそしばらくメールの送信を休む事にしました。先週月曜日の侭だとしりきれトンボのようになり、「アレ、大工は如何したか、また病気か」、などと思われるのも癪の種、ここに”一時休信”を宣言して暫しのお暇を頂戴する事にしました。悪しからず、ご了承ください。
年が代わり、十日えびすの頃には寒いなりに気象が安定すると思いますので、その頃再び駄文をお目に掛けたいと思っています。

最後に、最近気になっている言葉の事を一つお聞きください。それはテレビの料理や、名物や名店の紹介、或いは食べ歩き番組で、タレントがやたらと ”おいしーい!” と言う言葉です。食べ物を一口ほお張っては、思い入れを入れてから「おいしーい!!」と言うのを聞いていると、何だかその番組そのものが不味くなる様に感じます。チャンネルを代えるとそこでも「おいしーい!!」とやっています。
それにしても、料理番組が、各局、これほど多いのはどうしてでしょう。
タレントにもよりますが、特に男の場合は「うまい!」と一言短く言う方が聞き良いと思いますね。

お正月には、”おせち料理”を「おいしーい!」と食べてください。 おっと、この食べるにも使い方に注意が要りますね。「色気より食い気」「食うか食われるか」「食いしん坊」「食ってかかる」を「色気より食べ気」「食べるか食べられるか」「食べしん坊」「食べてかかる」では締まりがありませんね。
道草は、馬は「食べ」ます、人は「食い」ます。
皆さん良いお年をお迎えください。

2004.11.29  ヨン様見なければ…成田空港・ホテルでオバハン狂乱劇
 
先週金曜日の宵から深夜にかけて強い南の風が吹き付けて、雨戸にぶつかり、ドドッと音をたてていましたが、木枯らしとやらで、庭のモミジ葉も土曜日の朝には殆ど無くなっていました。しかし、昨日あたりの天気は一向に冬らしさは感じず、昼間は子どもの遊ぶ声も聞こえて穏かな日曜日でした。

先月29日の内科受診の際、血液生化学検査で腫瘍マーカーの値が、高いと言うわけではないが、少し気になるのでと今月5日に胃の透視検査をしましたが、26日の診察では問題は無いとの診断で、その他便の潜血・胸部レントゲン検査も異常なく、今年も何とか無事に年を越えられそうです。

最近の世相の中で、訳の判らないことは多いのですが、中でも「ヨン様」ブームとやらは何ですかねぇ。韓国映画「冬のソナタ」で主人公を演じたペ・ヨンジュンに日本の女は何故あれだけの熱を上げるのでしょう。しかも、それが中高年女性だと言うから訳が判らなくなります。
テレビで見ていると、既に小じわの目立つオバハンが、片手で携帯電話を差し上げて、「ヨンさーん、こっち向いてー」「カンゲキ!,笑ってくれた―」。

正に、「ヨンフルエンザ」の熱にうかされている態というべき無様さ。これでは子どもは鉄のアレイで頭を叩き割りたくなるでしょう。
26日、ホテル二ユーオータニの玄関ではファンが殺到、大分県から出てきた51歳の女がタイヤに足を轢かれたり、悲鳴と歓声が交錯、携帯電話や靴が散乱するパニック状態を引き起こしています。
「やまとなでしこ」は既に絶滅したか!!。…悲しい日本おんなの現実…

27日の六本木ヒルズ森タワーでのヨン様写真展でも朝から3500人以上のファンが詰めかけ、25日から並んだ(25日からですぞ!)千葉県浦安市のオバハン(会社員・46)は「写真展でヨン様の笑顔に会えてうれしかった」と話していたそうです(SankeiWeb)。…背筋のゾーとする話…

一方、拉致被害者の曽我ひとみさん(45)の夫チャールズ・ロバート・ジェンキンスさん(64)は、27日午前収監されていた米海軍横須賀基地から釈放されました。家族4人は、12月上旬にも佐渡へ渡って佐渡市で新しい生活に入るそうです。来年のお盆には、「佐渡おけさ」で踊る一家のゆかた姿が見たいものですね。…4人がゆかたで躍る佐渡おけさ…

先日20年ぶりに登場した新しい紙幣に、偽造防止の新技術として導入されたホログラムは熱に弱く、アイロンなどを掛けすぎると模様が浮び上がらなくなったり、下地が出たりするそうです。ただし、ホログラムが壊れても紙幣としての価値は変わらないから心配は要りません。
このような報道が出てました(asahi.com)。日本人は何でも直ぐにやってみたい人種ですから、ホログラムの壊れたお札が出回るかも知れませんよ。

E型肝炎、身近な食品が感染源?。北海道北見市の焼肉店で発覚したE型肝炎の集団感染は、豚の内臓という一般に流通する食品が感染源と強く疑われ、そこから輸血感染へと広がったケースが解明されたそうです。
BSEにしても、この話にしても、獣の内臓は食べるのを遠慮した方が無難なようですね。

今日はメールを3日休んだ後で、気のきいた話ができません。これで失礼します。

2004.11.25   言葉の間違いさがし

今日も良い天気ですね。朝こそ冷えるものの昼間は11月末とは思えぬ暖かさです。しかし、その11月もあと1週間を切りました。来月に入ると、年末の慌ただしさが始まります。歳暮、掃除、年賀状、煮しめ作り、等など各家庭では年の瀬を越し、新年を迎える準備をします。勿論、職場でも年末・年始は忙しいものです。

家庭の迎春も最近は簡略にする家庭が多くなり、家族で旅行に出る、注連飾りや鏡餅のお飾りはしない、おせち料理は外注で済まし、正月から魚ちり、すき焼きなどで家族が団欒する、など古い日本のしきたりは殆どなくなって来ています。
変わらずエスカレートするのはお年玉だけ、孫も大きくなれば、金額も多くしないと年寄りに近づかなくなってしまいます。年金が減っただけお年玉も減らして、とは言えないのが年寄りの弱みです。

昨日言葉のルーツとして”男性自身”を取り上げましたので、今日は”女性自身”のと、思いましたが、このHPの品位を落とすと言われてもいけないので止めて、日本語の間違いを少しだけお話しします。

いま、郵便局へ行くと窓口で聞こえてくるのが、「年賀状を100枚ください」と言うような声ですが、「年賀状」は新年の挨拶を書いた手紙や葉書のことですから、郵便局で投函するのが年賀状、買うのは「年賀はがき」です。

お屠蘇を祝って、お雑煮を食べてなどは、「昔日の感が深い」と言えば間違いです。むかしはアアだったのにいまは随分変わってしまったなあと、その変わりように驚くのですから、「……まったく今昔の感が深い」とか、「まったく昔日の面影がない」と言うのが正しいでしょう。

あそこの夫婦には、去年「結婚して十年ぶりにやっと子どもができた」はおかしいです。接尾語の「ぶり」は「生活ぶり」「飲みっぷり」のように、名詞や動詞の連用形について「……のようす」という意味を表します。また、「久しぶり」「十年ぶり」のようにある時間をおいて同じことがまた現れることを示します。
阪神は「18年ぶりに優勝」といえば18年前に優勝していることになります。
だから、十年ぶりに子どもが出来た、ではなく「十年目に……」が正しい。と思います。

こんなことを穿り出していると話の種は尽きません。皆さんも日ごろ周りで使われている言葉を見直して見ませんか。随分面白いですよ。
ただし、今どきの若者の言葉は考えるだけ無駄です。あれらは言葉でなく符丁です。若者だけの隠語です。検討に値しません。

明日は私の病院通いの日です。メール送りません。

2004.11.24   言葉のルーツ・男性自身のはなし

昨日に続き、今日も晴れ渡った晩秋の良い天気です。部屋の暖房が疎ましくなるような日差しが、窓から差し込んでいます。

昨日、私は匂いが嗅げない話から、鼻の話になってしまいましたが、病気(がん)で失ったものにはもう一つあります。それは男性自身の機能です。勿論形状や排尿の機能は変わりませんが、性の機能はなくなりました。
人間生まれながらにして持っていたものを、失うと寂しく、却ってそれへの意識は強くなるものです。今は打ち切りましたが、ホンバンと言うホルモン剤を10年ほど続けたので、私の男性自身は惨めに萎縮して、本来「厄介棒」であるべきものも、今は取り出すのにも難渋します。

男性の象徴を一般に「き○たま」と言い習わしています。ゴールデンボールとも言えますが、元来は「気のたまり」で、即ち男らしさの根源を意味します。外に「生きのたま」と考える説もありますが、その心は同じです。
古くは「へのこだま」とも言っています。「へのこ」は睾丸にあたり、また、陰嚢は「ふぐり」と言い「ふくらむ」とも、「ふくろ」とも言う意味です。
この「ふぐり」がしわしわなのは、表面積を広げたり、収縮したりして中の寒さには強いが、温熱に弱い精虫を保護しています。元もとこれは体内にあったものが外へ付け替えられたものとも謂います。
そして、この玉は左右不対称に”ぶらくって”(これ和歌山弁)居るのは何かのとき、ぶつかり合わず逃げ合うように神様は格別の配慮をされました。
日本のような夏季高温多湿な国でブリーフのような下着を使用することが如何に愚であるかが判ります。越中ふんどしが極めて合理的なのです。

ペニスをむかし「おはせ」と称したのは「雄走せ」、即ち、性欲の暴走するさまを表した、とも「男柱」男の柱とも考えたからでしょう。
「魔羅」はサンスクリットのマーラで智恵を損ずるものの意で、これが暴れ出すと手に負えない。一名「厄介棒」と言うわけです。
「ちんぽ」「ちんぽこ」は珍なる宝、または鉾として尊んだことに由来すると謂います。

天気は良いが、外を歩くのが極めて不自由な私は、やむなく、病気で失って帰ることのない、体の一部の機能、一部の器官を二日に亘って話の種に使いました。
詰まらない話の相手になってもらって、感謝します。今日はこれで失礼。

2004.11.23  今日は勤労感謝の日です…何を感謝しますか


今日は実に良く晴れた、気温も次第に上がって、勤労感謝の休みとしては、申し分のない天気になりました。野山は晩秋の香りがいっぱいで、郊外に出れば大いに浩然の気を養える事でしょう。
  「注…浩然の気、孟子に『我善養吾浩然之気』とあり、天地の
      間に満ち満ちている非常に盛んな精気を謂います」

「香り」と言いましたが、私にはどのような香りも既に十年余のあいだ、関係が無くなっています。喉頭をすべて取って、気管を首の前の孔に出しているため、呼気は鼻腔や口腔を通らないのです。
したがって、匂いも、臭いも、香りも感じることは出来ません。大量に臭いが流れてきて、自然に鼻腔に入った時は何か臭うなと気づきます。
食べ物の味は判りますが、食べ物の味は香りと共に本当の旨さが判るもので、香りの無い料理は、所謂”もみない”ものです。
  「注…もみない―正しくは、もむない。(上方語)」

話が、臭い、匂い、香りと来てしまいましたので、つないで行くには「鼻」の話しか無くなりました。私の鼻は眼鏡の支えの役にしか立ちませんが、元もと「鼻」は「端(はな)」の意味だそうです。確かに鼻は人間の体で一番外側にとび出している箇所です。もっとも男性にはこれ以外にとび出すところがないわけでもありませんが、それは特殊な状況にある時だけで、普段はそんなに目立って出ている訳はありませんから、此処ではネグります。

この鼻は前記のように、ただ匂いを嗅ぐだけの道具かというと、それだけではありません。何か一寸したことをやれば途端に「鼻を高くする」し、失敗すると「鼻をへし折られ」てしまいます。だから、その人に取っては外交官でもあります。「鼻をきかせて嗅ぎ廻」れば刑事になり、相手を出し抜いて「鼻を明か」せば、途端に有能な営業マンに変身する。異性にうつつをぬかして入れあげたりすると「鼻の下を伸ばした」などと笑われる。

世間では「鼻」は男性自身のシンボルともいわれ、鼻の大きい男は、あれも大きいと謂われて来ました。次のような話を聞きました。
ある学者が本を読みながら本の間へ細かく切った紙を挟んでいました。奥さんが、その訳を尋ねると、これは不審紙というのだと答えました。奥さんはしげしげとご主人の顔を眺めていましたが、黙ってその紙をとり、ちょっと唾をつけると、いきなりその大きな鼻へペタリと貼りました…とさ。
  「注…不審紙(ふしんがみ)。書物中の不審な所に、しるし
      として貼る紙。多くは紅唐紙を使った。」

やがて昼です。穏かな日差しが庭を照らしています。水害や地震の被害に遭われた人々にも、この陽光はふりそそいでいるでしょう。

2004.11.22  ことわざには色いろな二ユアンスがあります

木枯らしが吹いて庭のカエデの葉も僅かな数になりました。空の様子も冬並みになりました。これから長い冬の寒さに悩まされるのかと思うとホトホト我が身が哀れに思えます。人さんは78才だと今どき、「まだまだ」と言ってくれますが、既に大病で疵付いた体は健康に年を取った人には判らない悩みがあるものなのです。

しかし、頭だけはボケずに何とか正常で居ようとメールを書いたり、その為に新聞や本を読んで頭の体操を続けています。

ところが、先週は観音さまのご利益を壺阪寺や当麻寺、などを中心に書いたもので、纏めとして、観音菩薩や阿弥陀如来について金曜日のメールで僅かな解説を入れました。その最後の一行に、「皆さんにとっては”仏に念仏”かもしれませんが」と書きました。
その時何となく使った”仏に念仏”が何時までも私の頭の中で、ハテナと残るのです。調べれば良いものを、30分後に慌てて「仏に説法」と、HPの管理人に訂正依頼をしました。

それで済んだ気持ちで居ましたが、なお、どこかで、ハテナが残っていて、午後昼寝して目が覚めたとき、ハッとハテナがはじけました。「釈迦に説法」だったのです。慌てて再度訂正を管理人にメールしました。

年を取ると、調べるのが億劫で、それで居て何か間違っているように気持ちに引っ掛りを感じている、そんなケースが多くなります。困ったものですね。

なお、「釈迦に説法」に関連して、今日は「馬の耳に念仏」について少しお話ししてみましょう。
このことわざは、普通無益なことの例えとして使われます。同じようなことわざは沢山ありますが、よくみると次の三つのニュアンスになるかと思います。

@手ごたえが無いこと
  「馬の耳に風」「柳に風」「暖簾に腕押し」「糠に釘」
  「豆腐に鎹(かすがい)」「泥に炎」「沼に杭」
A有用なものでも持ち主によっては役に立たぬこと
  「馬の耳に念仏」「犬に論語」「猫に小判」「坊主にかんざし」
  「豚に真珠」
B専門家(先刻ご承知の人に)道を説くのは無益で失礼なこと
  「釈迦に説法」「猿に木登り」「月夜に提灯」「カッパに水練」
  「孔子に論語」

私が、一寸した”ことわざ”に、固執したのは、”ことわざ”は色いろなニュアンスを持ち、使い方を間違えると人さんに失礼になる事があるからです。

話は変わりますが、奈良市で小学1年生の女児が攫われ、無残に殺されて平群町の道路わきの溝に捨てられていた事件がありました。最近何故小学生が事件に遭うのでしょう。
むかし、私の子供の頃は夕暮れには家に帰るよう躾けられていました。日暮れて遊んでいると「子取り」に捕らえられ、サーカス団に売られると言ったものです。サーカスの少女が悲劇のヒロインの様に言われていました。
今は、セックスの対象にされたり、殺すことそのものの対象にされたり、残虐な遊び道具にされているようなケースが見受けられます。
全く嫌な世の中になりましたね。犯人が早く捕まるように祈っています。

2004.11.19  今週は観音さんの話ばかりでした

今日も曇りで、時おり小雨が降っています。予報では雨は上がって、木枯らしが吹くような事を言っていましたが。いずれにしても終日晴れやかな天気は望めそうにありません。

今週は奈良盆地の南の壺阪寺や当麻寺、石光寺などを回って観音さんの御利益のあらたかな話をしましたが、此処で観音さんのことを知っておきましょう。

観音とは、@観世音の異称。 
       A虱の俗称…頭部近くに生える肢を千手観音に見立てる。
勿論、此処で言う観音は@です。

観世音は仏の左右に侍(じ)して…脇侍…衆生教化を助けるものです。
仏像では、本尊の両脇に安置され、または描かれる像のことです。
阿弥陀如来には、観音・勢至菩薩。釈迦如来には、文殊・普賢菩薩。
薬師如来には、日光・月光菩薩などがあります。

では、観音さんが脇侍する阿弥陀如来とはどのような仏かと言いますと、西方にある極楽世界を主宰すると謂う仏だそうです。
法蔵菩薩として修行していた過去久遠の昔、衆生救済のため四十八願を発し、成就して阿弥陀仏となったといいます。その第十八願は、念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると説いています。
浄土宗・浄土真宗などの本尊で、略して、弥陀、無量寿、無量光ともいいます。

観音信仰は案外広く行われ、各地の修験者の集まる行場では、専ら観音経や般若経が聞かれます。勢いが良くて、眠気が覚めるようなリズムが良いのでしょう。滝に打たれながら、無量経など唱えていたら完全に風邪を引いてしまいます。

以上のような事を言うのは、皆さんにとっては「釈迦に説法」かもしれませんが、今週のまとめに言うてみました。

明日、明後日は土・日で休みます。また、月曜にお会いしましょう。

2004.11.18  当麻寺・中将姫現身成仏と蓮糸曼荼羅縁起(続・完)

「お前さまのお命頂戴いたす」と松井嘉藤太に言われて、今日の日課の読経三巻だけはと待たせた姫は、肌身につけた玉軸のお経を取り出すと、草のしとねに座して西方を拝し、静かに読経を始めました。そして一巻読み終わると、亡き母を弔い、二巻読み終わると、父の無事を念じ、三巻目を終わったあとには”継母の息災を祈った”のでした。そして姫は静かに嘉藤太に向い頷いて、白いうなじを差しのべました。
  「お経は済みました。さあ、お前さまの役目を果たして継母さまの
   所へお帰りなさい」
さすがの嘉藤太も、この姫の無垢な気高い心を知っては動きがとれず、太刀を捨てて姫をかくまう事にしたのです。
このとき嘉藤太は乳母の娘を姫の身代わりにしたといい、一説には彼自身の娘を身代わりに立てて、中将姫を助けたのだと謂う、痛ましい異伝も伝えられています。

ともあれ、中将姫は、嘉藤太の庇護のもと、山の庵で読経に明け暮れ、三年を過ごしました。いまの青蓮寺の辺りであったと言います。
その後、父の豊成がたまたま宇陀の辺りに狩に来た時、嘉藤太の計らいで、ようやく父娘の対面が叶ったといいます。

さて、中将姫が十七歳のある晩、蜘蛛の巣に不思議な歌の文字が現れました。
  「極楽は いづくと問えば 大和なる
      丸子の里と 行きてたずねよ」
これは長谷の観音さまが、蜘蛛に化して当麻寺へ行くようにと、示されたものでした。

初夏のころ、中将姫は観音さまのみこころに従って、当麻寺に入り、剃髪して法如尼と名乗りました。そして千手堂にこもり、阿弥陀如来の御姿を拝したいものと、ひたすらに念じていました。すると七日目の明け方に一人の老尼が現れて、
  「阿弥陀如来の御姿を拝したいならば、蓮の茎百駄分を集め、その
   糸によって曼荼羅を織るがよい」
と告げるのです。
姫は百駄もの蓮の茎は、とうてい自力では集められないと思い、右大臣となっていた父豊成に頼みました。豊成は時の孝謙天皇に奏上し、勅命を得て、忽ち近隣の国々から九十九駄の蓮茎が集められました。
あと一駄、という夜のこと、いつぞやの老尼が現れ、この老尼の手助けを得て、姫は糸繰り堂で蓮糸を抜き取り、それを石光寺の染井の井戸に浸してから、そばの桜の木に掛けると、その糸は見事に五色に染めあがっていきました。
すべての糸が染めあがると、何処からか織女たちが現れ、姫を手伝って西北の一隅に機(はた)を据えました。そして、大きな燈明をともして織りはじめると、山と積まれた蓮糸は、見る間に、一丈五尺四方の大曼荼羅に織られていきました。…… 姫が、ふと我に返ったとき、蓮糸曼荼羅はすっかり織りあがっていました。

老尼は節なしの一夜竹に曼荼羅を掛けて、
  「これこそ、そなたが見たいと念じていた浄土のありのまま
   の姿です。とくと拝されるがよいぞ」
と教えました。姫は驚いて、
  「あなたさまは、どなたでございますか」
とたずねると、老尼はにっこりして、
  「われこそは阿弥陀仏、そして織女は脇侍(わきじ)観音です」
と名乗られて、そしてかき消すように見えなくなられたと言います。

それから十三年が経って、姫二十九歳の折のこと、当麻寺境内の来迎の松に、紫雲がたなびき、阿弥陀如来と二十五菩薩が来迎されました。
あたりいっぱいに妙香がかおり、妙なる楽の音のふりそそぐうちに、中将姫の法如尼は、しずしずと西方浄土へ導かれていったということです。
当麻寺では、毎年の五月十四日、二十五菩薩の練り供養と称して、中将姫が現身のまま成仏されたこの奇跡を再現すると謂う会式が行われています。

【参考】@まんだら(曼荼羅・曼陀羅)[梵語mandara]諸尊の悟りの世界
     を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、諸仏・菩薩及び
     神々を網羅して描いた図で、元もと密教のものですが、浄土曼荼
     羅や垂迹曼荼羅、日蓮宗の十界曼荼羅のように他にも転用され
     ています。
    A百駄…一駄は馬一頭に負わせた荷物。

本日はこれで終わります。長時間のお付き合い有り難うございました。

2004.11.17  当麻寺・中将姫現身成仏と蓮糸曼荼羅縁起

今日も良い天気で、暖かい日差しが窓から差し込んできます。

昨日は折角当麻寺へ行きながら、”中将姫”の話をせずに、そのまま壺阪寺へ飛んで、お里沢市の話になりましたが、大和の民話として忘れてはならないのが継母に苛められ、ひたすら浄土経の習得に励み、堪えて、末は阿弥陀如来と二十五菩薩に導かれ現身(うつしみ)のまま西方浄土へ行ったと謂う中将姫の話、また、彼女が蓮の茎百駄を集め、その糸で織った曼荼羅は、庭の牡丹と共に拝観の目玉なのです。

話は大変長くなります、だから今日と明日とに分けて書きたいと思います。
年をとると、考えながら書いているうちに、さて、いま”なんの話”をしているのかな、などと思うことがあります。頭に弾力性が無くなっている証拠でしょうね。
話の始まりと、終わりがくっ付かず話の締めくくりが出来ないときは慌てるものですね。この状態が続くと『ボケ』たと思はねばなりません。

むかし、今からおよそ1200年も前の事、奈良の都に、藤原豊成、またの名を、”横佩(よこはき)の大臣(おとど)”と言われた、才徳優れた朝臣(あそん)がいました。家柄も藤原鎌足の曾孫と言い若い頃から、何不自由ない立派な身分でした。
悩みは、妻との間に子が出来無い事でしたが、思い余って長谷寺の観音さまに願をかけました。すると、満願の夜、夢の中で夫婦共々観音のお告げを受けて、玉のような姫を授かりました。
観音さまの申し子─一という訳で、姫は両親の寵愛を一身にうけ、幸せ一杯に成長しました。しかし、その幸せもいつまでも続かず、姫が5歳の春のこと、母の紫前が思いもかけず、急逝してしまいました。

やがて継母として照代前が迎えられましたが、この人は橘諸兄(もろえ)の娘でしたが、酷薄な性質でこの時から姫の受難の日々が始まりました。継母照代前の姫に対する苛めは異常なもので、雪の日に庭の松の木に縛りつけて折檻するなどの事がしばしばあったと言います。
しかし、そうした中にも、姫は美しく優しく育っていきました。そして、時々高僧を屋敷に招いては、熱心に浄土経(浄土門の教法)を習っていました。

  【注…浄土門とは現世において修行し自力で悟ろうとする聖道門に対す
        るもので、阿弥陀仏の浄土に往生して佛果を得ようと期待するもの】

姫が十三歳の時、父の豊成が中将となったので、人々はその官名に因んで、姫を”中将姫”と呼ぶようになりました。そしてその頃から中将姫は浄土経一千巻の写経を始め、しかも毎日六巻ずつの読誦を日課としました。
さて、父の豊成は大宰府に左遷される事になって、都を留守にしなければならなくなりました。(今様に言えば単身赴任ですな)

その留守中の事ですが、継母照代前は、夫の不在をさいわいに、腹心の松井嘉藤太に言いつけて、大和宇陀の日張山で姫を亡きものにすると謂う、悪計をたくらみました。
ある日、姫はひそかに輿に乗せられ、さびしい山の奥に連れ込まれました。そして、嘉藤太は姫の前に仁王立ちになると、ギラリと太刀を抜き放って言った。
  「姫さま、お覚悟なされ。ここが、あなた様の墓場じゃ、継母(かか)さまの
   ご命令じゃによって、お気の毒じゃが、お命頂戴いたしますぞ」
しかし中将姫は騒ぎもせず、静かに答えました。
  「継母上のお申し付けならば仕方ありません。ただ、今日は日課の読経を
   三巻読み残していますので、どうか、あと、この三巻の読経が済むまでし
   ばらく待ってください」
嘉藤太も最後の頼みならばと、白刃を構えたまま、そこに佇みました。(つづく)

本日、天気がよく、空気が乾燥しているのか、私の喉はカラカラして不快です。
今日はこの辺で終わって、明日続きをお話します。

2004.11.16  お里・沢市のはなし…壷阪霊験記

昨日一日雨や曇りで鬱陶しい思いでしたが、今朝は晴れて気分は上々です。

私は、昭和43年3月に大和郡山市へ移って来て、奈良盆地周辺には色いろと子供の頃から聞いた昔の話に出てくる古寺、遺跡があることに気が付きました。それまでは知ってはいても、全くと言っていいほど関心を持たなかったのです。しかし、近くにそれらがあると判れば、一度は覗いて見たくなりました。

いつの頃だったでしょうか、子供も手を離れて家内と二人の時間が出来たとき、ある春の休日に、どちらから言うでもなく当麻寺の牡丹を見に行くことになりました。近鉄電車で、大和郡山駅から橿原神宮前駅へ、乗り換えて、当麻駅まで交通の便は極めて良く、当麻寺の牡丹をゆっくり鑑賞しました。中将姫の話も聞き、蓮糸で織られた曼荼羅も拝観して、となりの石光寺も尋ねました。

しかしなお、時間が余るので、同じ近鉄線にある壷阪寺まで足を延そうかという事になって壷阪山駅まで行きました。ところが予め調べもせずに行動したものですから、駅で降りてもバスがありません。都会と違ってバスはそんなに再々出ている訳も無く、『よーし、それでは歩こう』。私も家内も二人はまだ若かったのです。
しかし、歩き出すと街なかの舗装された道ではありません。そのうち草臥れても、既に、行くにも帰るにも地獄のこごち、意を決して遂に壷阪寺までたどり着きました。

此処は奈良盆地の南、高取山のふところに、
  「岩を立て 水をたたえて 壷阪の
     庭のいさごも 浄土なるらん」
と、詠われた、西国観音霊場三十三ヶ所第六番札所です。ここの御本尊、十一面千手観音菩薩は、盲目の沢市がその霊験によって両眼の明かりを得た、という物語で名高いものです。

壷阪寺の名が、世間に広く知られるようになったのは、明治のはじめ、浄瑠璃「壷阪霊験記」が脚色され大当たりした事にあります。
また、浪曲にもなって、浪花亭綾太郎でしたか、「妻は夫を助けつつ、夫は妻に慕いつつぅ…」などと語っていました。

話の筋は、ご存じでしょうから、簡単に済ませますが、江戸時代の土佐(高市郡高取町)に、沢井市蔵という若い座頭がいました。父は高取藩の武士でしたが、市蔵は幼い頃に、”ほうそう”に罹って両目を失明し、武士になれず、やむなく座頭になりました。
沢市は、幼い時から兄妹のように一緒に育った養女のお里と、許婚同士でしたが、成人して二人は仲の良い夫婦となって、当地にささやかな所帯を持ちました。お里は気立ての良い優しい女で、目の不自由な沢市に良く尽くしていました。

そんなお里のまめまめしさを、有り難いとは思いながら、盲目の身の僻みから時には、「あれは本心なんやろか」と思う事もありました。
ある晩、ふと目を覚ますとお里が居ない、さては、と沢市疑念を持って、お里を詰問しました。沢市はお里の口から思いもかけない事情を知らされました。
  「お前さんの目が少しでも見えますようにと、壷阪の観音様に、願かけて
   三年の間、毎夜水ごりとって祈願をし、今夜が丁度、満願の夜……」
  「しらなんだ、しらなんだ、それ程までに、お前は私の事を……」
沢市、感動のあまり、持ち慣れた杖をとって、
  「夜道は危ないですから」と言うお里を振り切り、自分も観音様に夜参りに出かけると言います。仕方なくお里は沢市の手を引いて暗い山道を壷阪寺へと向かいます。

ようやく谷間の奥の道まで来たとき、お里は自分の数珠を忘れてきた事に気づき、沢市を岩に腰かけさせ、「そこを動くでないぞいな」と言い置いて急いで家に戻りました。

その時、沢市は突然、お里の苦労を思いやり、
  「このわしというものさえ、いなければ…」
と立ち上がり、谷に向って杖を投げ捨て、合掌しつつ、杖の後を追って我が身を谷間へなげました。

  「沢市さん、沢市さーん」
自分を呼ぶ声に沢市が目を開くと、不思議や、あかつきの光の中に穏かな観音菩薩のお顔があり傍らにお里の顔が見えました。
観音さまの御慈悲によって目明きとなった沢市はお里と土佐の里で一生幸せに暮らしたのはいうまでも無いことでした。二人の墓は土佐の信楽寺に仲良く並んで居ます。
杖はお寺のお堂の壁際に置かれていました。粗末な黒い木の枝のように見えました。しかし、この杖、お里・沢市の愛情のぬくもりがありました。
私もここへ登る道、杖を突いて、家内に引っぱって貰えば良かったかな。(終)

2004.11.15   徳川家康の墓は久能山?堺の南宗寺?


最近のニュースは兎に角、腹の立つことが多くていけません。今日は新聞やテレビの報道を離れて何かお話をしましょう。

私は戦争末期静岡県清水市の折戸と云うところに居りました。そこに高等商船の生徒館や教室があったのです。生徒館は木造二階建てスレート瓦葺きで、二階が寝室、階下が温習室でした。一棟が四つに仕切られていて四個分隊が入っていました。一つの分隊は、航海科、機関科、二年生、一年生同居でした。だから一年生はいつも戦々恐々として、意地の悪いしごきに耐えていました。
その頃夜中に、「敵襲、静かに起きろ」の声で起されて、事業服に着替え、ゲートル(巻脚絆)を巻いて練兵場に整列しました。
号令台の上で、訓育官が第一生徒隊は、これより久能山ヘ向けて行軍すると言うのです。

久能山と云えば、大阪夏の陣で豊臣氏の息の根を止めた、徳川家康がその翌年元和2年(1616)1月に鷹狩りに出かけて、鯛の天ぷら喰らって倒れ4月17日、駿府城内で75歳で亡くなり、遺体を久能山に葬られたという場所です。

夜が開けて日本平に立った時、遥かに広がる太平洋は水平線を左右一線に引いて素晴らしい眺めでした。「あの向こうに敵国アメリカがあるんだ」と上級生が叫んだのを覚めた気持ちで聞いていたのを思い出します。

ところが、家康は大阪夏の陣で深手を負って、堺まで運ばれて死んだと云う話もあり、現実に堺市旅籠町の南宗寺(なんしゅうじ)の境内には、山岡鉄舟の筆になる「徳川家康墓」が一基あります。昭和42年に水戸徳川家の家老の子孫三木啓次郎の立てた大きな石碑には、 「ここが家康公の終焉の地である事は、有力な史家の保証するところで、それを物語る文献や遺物もたくさん残されている」と云う意味の文章が刻まれていると言います。

大阪城落城前日の元和元年5月6日、家康は茶臼山における真田幸村との合戦に敗れ、駕籠で逃げるところを、後藤又兵衛に外から槍で刺され、虫の息になって堺まで落ち延びましたが、南宗寺に着いたときは既にことぎれていました。
家康戦死と判れば、味方から寝返りが出るやも知れない。側近の大久保彦左衛門は、早速、常に家康の影武者として付き添っていた小笠原秀政を身代わりに仕立てました。その後1年経って徳川の天下もすっかり固まり、身代わりの必要も無くなったので、「家康は鯛の天ぷらに当たって死んだ」として全く別の遺体が駿府の久能山に葬られました。

一方本物の家康の遺体は、ひっそりと南宗寺の開山堂の下に眠っていましたが、怪僧天海の発案で、久能山からの移葬という名目で堺から日光へ運びました。
南宗寺から北へ通じる道を権現道と云うのはその証拠だそうです。元和9年7月10日に秀忠が、同年8月18日に家光が南宗寺を訪れ、鐘楼を茶堂に改造した座雲亭で四辺の風光を賞でたという事にもなっています。

『徳川家康』の著者山岡荘八氏は異論があるようですが、”太閤びいき”の大阪人は、家康が真田幸村に敗れ、後藤又兵衛に刺し殺されていた方が、痛快に思うかもしれません。

因みに、南宗寺は弘治2年(1556)、畿内を平定した三好長慶とその一族が建て、その後2度も兵火にかかり、元和5年(1619)徳川秀忠によって再興された禅寺です。

家康を刺し殺したのが、真田十勇士の誰かであったら、より少年講談としては面白かったのにと思います。真田十勇士とは猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊三入道・穴山小介・海野六郎・筧十蔵・根津甚八・望月六郎・由利鎌之助。ただし、実伝は不明です。
後藤又兵衛は名を基次と言って、黒田幸高次いで長政に仕え、後浪人して大阪夏の陣で戦死しました(1560?〜1615)。

私がむかし、夜間行軍をした久能山と堺の家康の墓を結びつけ、真田の軍勢や後藤又兵衛の話、それに大久保彦左衛門もご登場頂いて、小学生の頃読んだ少年講談を思って見ました。お粗末でした。
2004.11.12  闘うカリスマ・アラファト議長逝く…エルサレムの夢遠く

夜中から激しい雨、そして雷も鳴っていました。しかし、夜が明けると共に雨は上がって、陰鬱な曇り空になりました。気分は優れませんが、私の喉のためには、久しぶりに高湿度になって呼吸が楽になっています。湿度が低いと、幾ら加湿器を使っても天然の大気の湿度にはかないません。

ここ1週間の間、国籍不明の潜水艦が潜航したまま我が国の領海を侵犯して、何を目的とするのか、悠々と島々の間を縫って行動していました。中国海軍の原子力潜水艦と見られる事は判っていながら、政府は海上自衛隊に追尾させながらも、凡そ我が領海を離れる頃になって海上警備行動を発令しています。

北朝鮮には国家主権を踏みにじられて、国民を拉致され、今また中国に領海を侵犯され、そして、何一つ言えない哀れな日本、こんな日本に誰がした。既にアメリカの”ポチ”では無い、世界の”ポチ”ではないか!。

「此処掘れワンワン」で金だけは世界に、中国にもばら撒くが、その資金を軍備に注ぎ込んで、中国如きに馬鹿にされないよう再軍備を覚悟すべき時でしょう。原爆も作りましょう。ミサイルも量産しましょう。徴兵制度も考えましょう。… 一寸過激かな。そうです、私は七洋に軍艦旗をハタメカせていた時代に育ちました…

「アラファト議長死去」先日来意識不明に陥っていた、パレスチナ自治政府とパレスチナ解放機構(PLO)を率い、35年にわたって解放闘争を指導して来た、ヤセル・アラファト議長は11日午前3時半(日本時間同11時半、入院先のパリ近郊、ペルシー軍病院で死去したと伝えられました。75歳。
「アルアクサ・モスクにパレスチナの国旗を掲げる」悲願を求め、内外へ向け、独立宣言を、という夢を果たすことなく「エルサレム」の夢遠く、「不死鳥伝説」の幕は下りました。

月曜日にメールします。中国潜水艦に領海を侵犯されて、抗議も出来ない我が国の情勢に些か不快で、今日はこれで終わります。

2004.11.9  お犬さま用”おせち”料理、塩分控えめ…三越謹製

ここの所、良い天気が続いています。それだけ朝は放射冷却で秋の深まりを感じて、いい時候だなと思っています。
しかし、豊岡市や新潟中越の災害に遭われた皆さんのご苦労をおもう時、心が痛みます。テレビでの情報を見ているだけでは何か絵空事のように思われ勝ちですが、現地では雪の季節を控えてその復旧、仮設の住居の確保に「猫の手も借りたい」思いでしょう。
各地からボランチャが随分駆けつけているようですが、なお不足のようです。理髪師・美容師・マッサージ士なども現地で奉仕活動をしているそうです。

先に、イラクで首を切られて殺された直方市の香田証生(24)くんも「自分探しの旅」がしたければ、この災害復旧に手を貸す事で「自分」を見出せば善かったでしょうに。

さて、そのイラクでは、イラク政府軍は米軍と共に、8日、中部ファルージャから武装勢力を一掃するため掃討作戦を始めました。暫定政府としては、米軍の仕向けたものとは言いながら、真に「危険な賭け」と言う事になりましょう。ベトナム戦争以来の激しい市街戦も予想され、その成果は今後のイラク情勢を大きく左右する事になりましょう。
我が国にとっても、12月14日に期限切れとなる自衛隊派遣の延長論議に重大な影響を持つ事になります。

明日・明後日はHPの管理者が旅行で留守にされるようですので、私のメールも休みます。最近新聞の拾い読みをメールの材料にしていますが、来週は民話・歴史伝説などを取り上げて、お話をさせて頂きたいと思います。

プロ野球は合併球団オリックス・バファローズと新球団東北楽天・ゴールデンイーグルズ(この呼び名長いですね)の分配ドラフトも決まり各チームの基礎はほぼ固まったようです。私は阪神ファンですから、出来上がったところで見せて貰いましょう。

ところで、今朝の毎日新聞の8ページに、『おせちだワン』として三越が、犬用のおせち料理の受付を始めたと伝えています。昨年に続いての第2弾だそうですが、和食の料理人が監修して、「犬用塩分控えめ」だそうです。
むかし、徳川5代将軍綱吉は動物愛護の命令を出し、僧隆光の言によって、魚鳥を食糧として飼養することを禁じ、畜類、特に犬を愛護させました。
人民は苦しみ、綱吉を犬公方と呼びました。(1709年ー宝永6年廃止)

因みに、お品書きを言えば、タイ(”タイ”ですぞ)、牛ロース筋テリーヌパイ包みなど計22品が入った2段重ね。内容量700g、1140`i、お代は9240円(送料、税込)。…なに、自分も犬になりたい…ですと。

2004.11.08  冷たい泥の中から家族のもとへ…真優ちゃんの遺体収容される

先週金曜日から3日休んでいる間に秋は一段と深まった感じがします。
そして、その間にも、色いろな事が起きていますね。

前衆議院議員であった、そして、旧北海道開発局発注の公共工事をめぐる受託収賄罪や林野庁の行政処分に絡む斡旋収賄罪など、四つの罪に問われていた、鈴木宗男被告(56)に対して、東京地裁は、5日、懲役2年追徴金1,100万円の「実刑」判決を言い渡しました。
そして、「国民の信頼を裏切ったばかりか、不利な証言をした関係者を誹謗するなど反省の情は全く無い」と厳しく指摘しています。
私は量刑が少し軽いようですが、先ずは妥当な判決だと思います。
テレビ、新聞を見ても凡そが肯定しているようです。僅かに北海道の彼の地元の人の中には残念がっている者もテレビで見ました。余程彼から甘い汁を吸っていた人たちでしょう。
判決後の記者会見では所謂「ムネオ節」で判決批判を打ち上げていたようですが、新聞の伝え方は気の無い記事でした。彼は即日控訴し補償金7,000万円で再保釈されました。「往生際の悪い男」というのにピッタリですね。「馬一頭」の怨念ですかね。

新潟県中越地震で、長岡市妙見町の崩落現場から4日ぶりに救出された皆川学(37)さんの長男優太(2歳11ヶ月)くんは、5日午後長岡赤十字病院を退院しました。姉の真優(3)ちゃんは7日、県警機動隊と民間建設会社の従業員によって搬出されました。即死の状態だったそうです。余震の続く崩落現場での決死の救出作業であっただけ、テレビを見て人々はハラハラした救出劇でした。母親の貴子(39)さんと真優ちゃんの冥福を祈りたいと思います。

日本のプロ野球は”楽天”の新規参加で、納まりが着いたかと思っていたら、日本シリーズで日本一になった”西部”に「身売り話」が飛び出し、一体全体、”ダイエー”も含めて、どう言う事になって行くのやら。しばらくは部外者の我々は見守るしか無い事になってきました。兎に角来季は6球団2リーグ制でしょうから、それなりに楽しみましょう。

今朝の毎日新聞29面に「園児に”愛国行進曲”歌わせる」として、大阪の私立塚本幼稚園の園児が、運動会で戦時歌謡曲2曲を歌わされていると報じていました。籠池靖憲園長は、これらを「高齢者を励ます名曲」だと言っているようですが、確かに軍歌として作られた歌ではありませんが、「万世一系の天皇の御稜威(みいつ)に副う大使命として、八紘を宇(いえ)とする」即ち世界制覇の思想を歌っているもので、幼稚園児に歌わせる如きは狂気の沙汰としか思えません。

そもそも、このものは、内閣情報部が昭和12年9月25日、全国民から歌詞を公募すると、10月20日の〆切までに57,578篇という多数の応募がありました。作曲が公募されると、11月30日の〆切までに9,555曲集まったと言います。
当選者は当時70歳の瀬戸口藤吉(軍艦行進曲作曲者)で、病臥しながら”想”を練ったと言います。作詞者は鳥取の人で、当時23歳の青年でした。私も懐かしい気持ちでCDなどを聞く事はあります。
しかし、平成の世に、これを幼稚園児に歌わせるのは、如何なる神経でしょう。私はこの園長の神経を疑いますね。

今日も昼になりました。これ以上は私も疲れますので、また明日にします。
朝の冷え込みは本物になって来ました。皆さんお風邪を召さぬよう。バイ

2004.11.4  ブッシュ大統領が勝利宣言「歴史的な勝利だ」

今日はここら辺りは天気ですが、新潟中越地方は大雨が予想されています。山古志村の山肌崩壊による「ダム湖」の決壊が、若し起れば大変な土石流が下流に流れ、地獄絵に見るような惨状を見ることになるでしょう。天に祈るばかりです。

長い期間騒がしかった、アメリカの大統領の選挙もやっと、ブッシュ勝利に終わりました。ブッシュ大統領は「歴史的な勝利だ」と勝鬨を挙げています。
我が国にとっても、やはり、今、現状が急に変わることは問題が在り過ぎます。良くも悪くもブッシュ勝利は良かったと思います。

チャールズ・ロバート・ジェンキンス元アメリカ軍曹は昨日、在日米陸軍司令部(座間)で開かれた軍法会議で「脱走」と「敵への支援」を有罪として、禁固30日、2等兵への降格、給与・福利厚生の没収、不名誉除隊を判決として言い渡されました。
司法取引段階からの、曽我ひとみさんや子供たちへの配慮ある米陸軍の好意が、私にもひしひしと感じられます。
早く刑を終え、親子4人が佐渡で平穏に暮らすことが出来るよう祈りたいと思います。勿論ひとみさんには母親の生死の問題が残るでしょうが、それはそれ、兎に角大きな山を一つ越えたのですから余生を大切にしてくださいと言ってあげたい。

毎日新聞の24面【デスクです】の欄に「米大統領選の投開票があった夜、香田証生さんが無言で古里・福岡に帰って来ました。星条旗の上に座らされて殺害されたといい、胸が痛みます。人質になった映像が流れた先月27日。大阪市内で街の声を取材したところ、「自己責任論」が多数を占めました。軽率な行動だったとしても、「何とか助けて」という願いが、もっと大きな声になってほしかった、と思います。日米同盟の下でも、無抵抗な若者の命がテロで奪われていいはずはありません」と書いていました。
私は言いたい「自分の蒔いた種は自分で刈り取る」のが原則で、24歳にもなった男が、危険と人が注意しても、なお、一人ほっつき歩いて殺されたのを誰に救いを求めるのか、私は(新土居)さんに反問したい。
香田さんの父親は文書で、「証生の訃報を聞いて、たまらない気持ちで一杯です。なんと表現したらいいかわかりません」と心境を明らかにしていますが、当然でしょう。

プロ野球新規参入は”楽天”と決まりました。”ライブドア”と較べて妥当な決定だと思います。仙台の若い年代層にはライブドアの堀江社長が早くから、現地で人気を呼んでいたため、ライブドアの方が良かったと言う声がありますが、客観的に見れば、私は”楽天”が順当と思います。

さて、明日は胃のレントゲン検査のため病院へ行きます。いずれ注腸検査もやれと言われるかもしれません。注腸だけはお断りしょうと思っています。【注腸とは、下部消化管]線検査の事ですが、気分の悪いものですよ。やった者でないと判りません。】
そんな事で、メールは8日まで休みます。
お元気で。サテ、私がもつかな?。


2004.11.2   今日は雑感…ただ、雑感

今朝は晴れていますが、次第に曇ってくるようです。我が家は屋根の点検と少しばかりの補修をしましたので、足場が残っています。最近屋根の点検をシッコク勧誘に廻る何処かの業者が来て煩いので、私方がいつもメンテナンスを任せている、住林ホームテックに上記の工事をさせました。
ところが、大手業者は僅かな屋根の補修でも足場を組みます。案外足場の費用が高く、全工事費の3割ほどになっています。費用は兎に角台風23号と新潟の地震に職人を回して手薄になり、我が家の足場の撤去は遅れ、ヤット今日職人が足場外しに来ています。
台風や地震の影響がこんな所へも出て来るものかと、改めて感心しています。やはり「風が吹けば桶屋が儲かる」と言いますが、考えてもいなかった所へも影響は出るものですね。

イラクでの香田証生殺害事件で、国会では12月14日に期限切れになる自衛隊派遣期間の延長が与野党の争点に急に持ち上がってきています。テレビの報道で見ましたが、民主党は盛んに政府が香田救出にどの様な事を、どれだけ、どの様にしたか等と質問していましたが、首相も町田外相もやれるだけの事はやったとあっさりと答えていました。
民主党の質問者は、では、お前なら如何するかねと反問されても答えようを持たなかった筈でしょう。今回の救出は初めから無理なことは明らかだったのです。
それは、被害者とされる香田なる男の行動が初めから暴走行為だったのですから。

不幸な中にも、明るいニュースもあります。新潟県中越地震で長岡市妙見町の崩落現場から救出された皆川優太ちゃん(2年11ヶ月)は順調に回復し、明日か明後日には退院の見通しがついたと長岡赤十字病院が明らかにしました。しかし、母親・姉を喪い父親だけの将来は、真に気の毒と目頭が熱くなります。
それにしても、この児の救出に全精神を集中させて余震も続く中、足場の悪い岩場で頑張ったレスキュウ隊の皆さんの姿はテレビで見ていて感動ものでした。

明日はアメリカ合衆国の大統領が決まります。ブッシュか?ケリーか?。
明日はジェンキンス元軍曹(64)の軍法会議が在日米軍陸軍キャンプ座間で始まります。北朝鮮による拉致被害者曽我ひとみさん(45)の為にも軽い量刑であって欲しいと願います。

では、今日は何がある?。それは来季からのプロ野球新規参入球団を決める実行委員会とオーナー会議がやがて開かれます(現在10時半)。
採決を行わず、話し合いで全会一致と云う形にする案も出ているようです。
それ程、ライブドア―と楽天の企業内容に差が見られると云う事でしょう。

今日はまとまりの無いことをダラダラ書いてしまいました。お許しを。
2004.11.1   政府、香田証生(24)の殺害を確認した

三日もメールをサボると、サテ、何を何から書いたものかと取っ付きに迷ってしまいます。それ程今の世は日々の出来事の動きが速く、丸でウナギかドジョウを追っかけているようです。事件のほうがスルリスルリと先へ逃げて、この事を話そうとしていても、次の瞬間には古い話になってしまいます。

福岡県直方市の香田証生(24)なる馬鹿者が、「イラクの聖戦アル・カーイダ組織」に拘束されたことを、先週木曜日のメールの最後に付け加えて書いて置きましたが、(日本時間の)昨日未明に首を切断された遺体がイラクの首都バグダッドで見つかったと言います。
物見遊山でアンマンの旅館の人の忠告も振り切り、バグダッドに入ったものの何れの宿にも断わられ、アンマンに帰ろうとしても直ぐにはバスは無く、次にアルジャジーラの映像に出たときには、哀れな囚われの男の姿でした。
政府・外務省その他に迷惑を掛け、国費を使わせた罪は、マスコミなどが人道第一と騒ぐほど、私は腹立たしくなって来ます。

一方、新潟中越震災の後は余震こそ大きさ・回数が少なくなったと言いながら、未だ自宅に帰れない、或いは自宅の無くなった人が、避難所で極悪の条件で避難生活を続けております。兵庫の豊岡周辺も、水害の打撃から立ち直れずにいます。何れも寒冷地でやがてやって来る冬を迎えて、その復旧、対応が急がれます。
テレビで見ていると、各地から民間の若者が、何かして上げられる事があるのではと、ボランチャが逐次集まって来ているようです。
国や、行政や、自衛隊のような大きな纏った事は出来なくても、何か手伝って上げることがあるのではないかと、或る娘さんは言っていました。
そばでは大阪のマッサージ修行中の男性たちがお年寄りを横にして、肩・背や足腰をマサージしているのが映っていました。

直方市の香田証生も「自分探しの旅」に出たければ、新潟中越へボランチャに出て来れば善かったので、さすれば、両親真澄(54)節子(50)に
「イラクに入国しているとは夢にも考えていなかった。多くの方々にご迷惑をかけ申し訳ない」などと言わせなくてもよかったわけですね。

さて、話は変わってプロ野球新規参入は”楽天”と”ライブドア―”どちら。
明日その運命は決まります。
前評判は、楽天に有利なようですが、さて、?

2004.10.28  A 随想「広島原爆の爆発の瞬間を見た」…半田久幸

「20年7月頃桃色の紙の「特命令状」なるものが届いた。7月某日灘区高羽小学校へ出頭せよとのことで、当日小学校へ行ってみると在郷軍人がいた。地域の暇のある学生は事務要員として、小学校へ詰めるようにとの話である。
私は入学待機中の徳島工専(現 徳島大学)へ一度行ってみたい旨申し出て了承された。とにかく神戸にいても仕方がないと、広島能美島の伯母の家へ暫く疎開することにした。

そこは呉軍港に面し、広島市の宇品港から小さな便船で約2時間半ほどのところにある島の港町であった。私が出かけたのが8月3日、翌8月4日に母方の大叔母が広島市内の家へ帰って行った。8月6日の朝、島の段々畑へ野菜や作物の収穫にでかけた。その畑へは直接通じる道はなく、伝馬船で20分くらいの離れた浜辺まで行きそこから登って行くのである。

港を出る時空襲警報が鳴った。それにお構いなく伝馬船を漕ぎ出して暫くすると、空襲警報解除のサイレンと共に警戒警報となった。少ししてあのB29独特の爆音がきこえてきておかしいなとおもった。親戚の2人とそんな話をしつつ、段々畑の夫々の場所で作物を獲り始めて5分くらい経った頃か、
 「ピカッ」
と緑色の閃光がまぶしい程明るく走った。驚いて立ち上がり北方を見ると、緑色に霞んだ広島市の方向に火柱が立っていた。数秒してその火柱は崩れ元の夏雲の形に戻ったので従兄達と、何であろうか海軍の火薬庫が爆発したのかも知れん、等と言いながら再び作業を始めて数秒した時、
 「ドカーン!」
というものすごい爆発音と爆風に5メートル程とばされた。慌てて立ち上がって北方を見ると、夏雲の上に例の黒いきのこ雲の上部が海越しに見えた。

これは只事でないと早々に片付けて伝馬船に乗り家へ帰った。それから2・3日して、無残な死体が海岸に流れ着くようになった。4日に広島市内の家へ帰って行った大叔母はこの原爆で死亡して遺体も見つからなかった。
田舎も決して安全ではないと思い神戸へ帰ったら間もなく終戦となった。」(完)

明日は私の予約診察日で通院します。したがって、メールは月曜まで休みます。

【また、イラクで武装勢力が邦人を拘束し、自衛隊の撤退を要求しています。
このイラクで拘束された男は、福岡県直方(のうがた)市の香田証生(しょうせい)なる24歳の男、「自分探しの旅」と称して今年1月、「ワーキングホリデー」制度を利用して、ニュージーランドへ出かけたと言います。理解に苦しむイラク入りは、国内外に問題の多い今の時期に勝手な行動で政府・国民に心配と迷惑を掛ける実にけしからぬ男だと思います。罪万死に値すると私は言いたい。政府はこんな男の救出より、新潟の地震被害者の救出に全力を結集せよ!と言いたいです】

2004.10.27  A 随想「神戸大空襲」…半田久幸

「昭和20年6月5日に第2回目の神戸大空襲があった。明け方に来襲したB29の大編隊は、神戸の残った家並みを徹底的に焼き尽くした。私の居た六甲の山の手は幸い助かったが、神戸区、葺合区、灘区の南部は殆どやられ、当日は日が昇っても黒煙がたちこめ昼なお暗い状態であった。この空襲が終わった後も火災の激しさは一向に収まらず、当時上筒井にいた児玉慶三君の安否が、しきりに気になり救援に行く決心をした。

将軍通りまで来ていた市電の通りを西へ稗田小学校まで来ると、電車通りをはさんで両側の民家が猛烈に燃えている。ただ時々煙が薄れ向こうに阪急電車の原田のガードが見え隠れする。これは走ったら行けそうだと思ったのが若気の至りであった。

ひとつ大息を吸って走りだしたところが、40〜50メートルも走った頃南北両側からの火勢がものすごく、煙が渦を巻くようになった処へ入り込んで呼吸もできない。「ああこれで俺の人生も終わりか」と思った。元へ引き返しても助かるとは思えず、死力を尽くしてなおも走った。もう駄目かと思った時に煙の中に立往生している市電が見えた。最後の力をふりしぼってその市電の北側へ倒れこんだ。

まことに天の助けとはこの事か、少し呼吸を整えあとひと息に阪急のガードへとびこんで命拾いをした。死線とは紙一重のところにあるように思う。その日児玉君と出会ったはずだがその記憶はどうもはっきりしない。」(この項終)

2004.10.26      @ 私と、半田久幸との出会い


私は昭和27年3月に、やり直しに通った神戸経済第二学部を卒業しましたが、私と同じ白杉三郎教授(故人・商学博士・保有論)の保険ゼミに花房俊明という中学の教師がいました。彼も戦争中文系の学校へ入ると徴用されて学習どころか、工場で雑役工をやらされるため、心ならずも徳島工専(昔、高等工業、今は徳島大学)へ入り、戦後やり直しに神戸経済へ来た者でした。当時はこの様に理系へ行った人、陸軍・海軍の学校へ行った人がやり直しの為に、官立ではたった一つであった神戸経済の第二学部へ集まっていました。
さて、卒業となると就職です。保険ゼミですからやはり保険会社にと云うことで、二人とも同和火災へ願書を出しました。幸い一時試験(筆記)は二人とも難なく通って、二次試験(口頭試問)と云うことになりました。

当日は梅田新道の同和火災の何階かの控室(会議室)に集められていました。勿論花房と私は椅子を並べていましたが、突然少し離れた席から「オー、花房やないかぁ」と声がありました。「ヤー、半田か」と花房は立ち上がりました。半田は席を我々の近くに変えて「お前もここ受けたんか」「奇遇やなー」などの会話の後「大工くんや」と花房が私を紹介しました。「おおぐ言うんや」「高等商船からのやり直しや」と、「こちらは半田くん言うねん、徳島で同じやったんや」と半田を私に紹介しました。半田は神戸三中から徳島工専へ行き、卒業して関西学院でやり直して今年卒業するという事でした。こんな次第で、偶然3人は知り合いになりました。

数日後、私は不採用の通知を受け取り、六甲の白杉先生の研究室へ報告と相談に行きました。そうすると、先生は「日新火災という小さな会社があるが、願書を出してみるか」といった後、「小さいが内容は悪くなく何とか食っていける会社だ」と付け加えました。私も外に思案のある筈も無く、「お願いします」と履歴書を預けました。そして、2月下旬だったかに採用者全員が桜橋のバラックの二階建ての社屋に集められました。

その会合の時、半田の顔が見えたのです。「やぁ、君もか」「俺も同和はあかなんでん」「花房はよかったらしいな」と会話を交わしたのを憶えています。以来、今に至るまでお互い無事に付き合って来ましたが、私は心臓・喉頭・前立腺を患い、彼もまた目が悪くなって、この夏の始め頃電話をしてきて、「記念誌」を送るから読んでくれと云って来た時は「白い杖」を突いているとのとでした。52年の間にお互い年をとって、「おい」「おまえ」も元気のない電話に終わりました。

こんな事情で、この「記念誌」の中の少しをHPに書いて見ようかと思った次第です。
今日は半田と私の出会いについて書きました。

2004.10.25   新潟県中越地震は大変です。
           死者・被災者にお悔やみとお見舞いを!

今日も素晴らしい秋の爽やかな日になりました。しかしテレビ・新聞は先週末23日に発生し、そして未だに有感地震の収まらない、新潟県中越地震の広がる被害のニュースが続いています。

私は23日(土)18時前には夕食にかかっていて、NHKのテレビを見ていましたが、ニュース速報と同時に画面が中部地方の地図に固定され、新潟県を中心に震度の数字が入りました。小千谷市が、震度6強ほか新潟県から東北南部、関東一円、富山県と非常に広い範囲に亘って震度が書き込まれていました。しかも小千谷市を中心に数分置きの震度5強・6強・4強・6強…の余震の連続に、何か身震いするものを感じました。約十年前の阪神の大震災の惨状を、とっさに思い起こしたものでした。勿論私は奈良で安泰でしたが、息子や弟・甥・姪の住まう西宮の惨状が頭に染み付いていたからでした。

幸いというか、人家・工場などの密集した大都会と違って死者・負傷者等人的被害は少ないようですが、範囲が広く過疎地への対応が道路の寸断などで困難を極め、救援物資の行き渡らない所もあると伝えています。

復旧と云うより救援そのものに困難が山積しているようですね。新幹線も直下型の地震には弱点が露呈しました。

それにしても、6月段階から台風は日本列島を狙い撃ち、浅間の山は火を吹いて、川は氾濫し浸水の被害・高潮や津波で海岸線や船舶の被害・山は崩れ、道路は寸断。若し、いま、いずこかの国が日本侵奪に、列島に上陸して来たら…皆さんどうしますか。

さて、私の前に「第二十一回生卒業五十周年」記念誌「兵庫県立第三神戸中学校」平成八年と言う、B5版275ページに亘る、昭和20年の同校卒業生の記念誌があります。
私は同じ兵庫県でも財団法人辰馬学院甲陽中学校卒ですから、全く関係のないものです。
実は、これは今年夏のかかりに半田久幸(以下敬称略)が送ってきたものです。当時何冊か引き受けたものが、残っていたので、私に読んでくれと云って来たもののようです。「あぁ、良いよ」と返事はしたもの他校のものには興味も無くそのまま机の上へほり出していました。しかし、それでは申し訳ないと思いますので、このメール中へ取り込もうと思います。

そして、その中で半田久幸が執筆している、「神戸大空襲」と「広島原爆の爆発の瞬間を見た」の二つの文を紹介しょうと思います。

その前に、私と半田久幸との不思議な出会いをお話しましょう。少し長くなりますので、今日は此処で打ち切って明日以降半田久幸の文章二題まで連続してメールします。ご了承を。なお、半田久幸にHP転載を断わっていませんが、既にこの記念誌を私に送ってきた事で、異論は無いものと考えます。

我が家も築20年、屋根の漆喰などの点検を今日からさせています。いま、足場を組みに来て、家の周りがざわざわしています。それでは、バイ。

2004.10.22  練習船「海王丸」の遭難に想う

今朝は台風騒動など忘れるような、秋晴れの明るい空が美しい、そんな天気になりました。
しかし、朝刊は各地の水による被害惨状を詳しく報じており、23号台風の如何に凄かったかを伝えています。

昨日のメールの最後に航海練習所の練習船「海王丸」が富山市の防波堤に吹き寄せられて、テトラポットに擱坐して浸水し、たたきつける大波に甲板を洗われているテレビの画を見たと言いましたが、昨日の午後3時半ごろまでに、乗組員、実習生ほか167名全員を救出したとありました。ほかと云うのは一般人で体験航海のため参加していた人が乗っていたようでした。
投錨して台風の通過するのを待っていたのが、私が予想したとおり、碇が走って防波堤に打ち寄せられたようです。退避する場所・海底の状況などの確認・選定が甘かったのでは無いかと思えます。いずれ海難審判所で詳しく原因を検討するでしょうが、碇が走ると言う事は大変に恐ろしい事なのです。

戦後満足な姿で残っていた、帆船の練習船はこの海王丸と日本丸の二隻でした。4本のマストに帆を揚げ満帆風を含んで大洋を突き進む、こんな雄姿も見る機会はなくなりました。
船乗りは、誰しも自分を育ててくれた揺籃の船に、深い愛着を覚えるのもです。船は生命(いのち)こそ持ちませんが、船員とともに闘った長い海上での航海を通じて、命のある伴侶とされ、マザーシップは「生みの母」とたたえられるようになります。練習船から巣立った人々にとって、航海の辛酸を共にした「マザーシップ]に対する海の伝統は、決して架空のものではなく、その人の生涯の想い出として、また人生の憧憬として、永遠のものとして、船乗りの心に残るものなのです。
「海王丸」はいずれ修理され、元の姿を取り戻すでしょうが(私はそう望みます)、海に僅かながら縁のある私は、この船の遭難事故はショックでした。

明日・明後日は土・日でメールは送りません。来週までお元気で。

2004.10.21  台風23号は「「紀伊山地の霊場と参詣道」を避けた

始めに、台風23号の影響を受け、被害に遭われた方々に心からお見舞いを申します。
この辺りは、今朝は台風23号の後追いの雲か、黒味を帯びた雲が広がっています。私がこの年までに経験した台風は、「台風一過」と言って通過後は昼なら青空が、夜なら星空が見られたものでした。今回は後追いの風や雲が広い範囲に亘っていたらしく、彦根市辺りにあるころ(夜9時過ぎ)から上空をビューンビューンと強い風が吹き抜け、ときおり地上の我が家の壁を、雨戸をドドーンと打ち震わせる重たそうな風が吹きました。しかもこの風は明け方近くまで残ったようです。気象予報では初めから”超大型”とは言っていましたが、これだけ広範なものは、私もこの年になって初めての経験でした。

昨日の朝、私は台風の進路について、高知県または高知沖を通って紀州白浜辺りへ上陸、紀伊半島を横切って東海から関東へ抜けるコースを勝手・独断で予想しましたが、思いのほか北に寄って和泉佐野市に再上陸しました。それでも、気象台が発表していた進路予想図よりははるかに南に寄っていました。子供の頃から興味を持っていた、そして船乗りとしての感と常識が、まだ、確かなのを感じて満足しています。
お陰で、我が家の辺りは雨も風も殆ど気にすること無く終わりました。

台風23号が、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を北へ避けたのは紀伊山地を荒らしたくなかったのでしょう。
この奈良・和歌山・三重3県にまたがる「紀伊山地の霊場と参詣道」が今年(2004)7月、世界遺産に登録されたのを受け、一昨日奈良市三条宮前町「なら100年会館」で登録認定書の伝達式が行われました。
柿本善也奈良県知事・小佐田昌計和歌山県副知事・土橋伸好三重県出納長に国連教育科学文化機関(ユネスコ)本部の松浦晃一郎事務局長が、夫々に認定書の複製を手渡しました。【本物の認定書は外務省で保管】

ところで、【たいふう=颱風・台風】の語源は何なのでしょう。古くは暴風の意であったようで、中国語起源説・アラビア語起源説・ギリシア語起源説があるそうですが、詳しくは判らないようです。

今朝のニュースで気になったことが一つあります。それは富山港で練習船の「海王丸」が港外の防波堤に打ち寄せられて、激しく寄せる大波に、乗り組数人と練習生参十数人が危ないという事でした。
台風来襲は予報されていた訳ですから、沖に出して投錨し、波に流されないよう、陸に打ち寄せられないよう荒天準備していた筈です。どの様な状況だったのでしょう。碇が走ったのでしょうか。テレビのニュースでは薄暗く、沖の防波堤に打ち寄せられている「海王丸」のシルエットに大きな波が打ちかかっている様子しか見えませんでした。

今日は台風23号のことに終始しましたが、これで終わります。続いて24号も発生しています。ご用心を。

2004.10.20   「心太」が何故「トコロテン」

今日も雲っていて、夜が明けても空は雲が厚く鉛色をしていました。台風23号の進路が気になります。テレビの予報士は言ってませんが、幾分南にそれて、紀伊半島の白浜辺りに上陸、半島を横断して東海地区に再上陸するのではないかと、希望を込めて勝手な自己予想を考えています。

私の家は高の原の北東斜面にあって、台風が生駒山脈の西を通ったときは京都側木津方面から東の風が吹き上がってきて、大変恐ろしい思いをします。年をとると何事にも機敏に対応できないもので、自分が平穏である事しか考えません。人間って勝手なものですね。

先刻から雨になりました。まだ、台風の雨ではありません。前線が台風に押し上げられて、この辺に雨を降らせています。夕方には台風の雨も届くでしょう。我が家のある場所は雨には強いので、前述のように紀伊半島を過ぎって東海方面へ抜けてくれるように祈っています。

私は辞書、特に広辞苑などを開いて見るのを好みます。そして自分の知らなかった字や句などを見つけると、そこから色いろな話が見出せます。
例えば、ところてん【心太】です。勿論ご存じのとおりテングサを洗ってさらし、煮てかすを去った汁を型に流し込んで冷却・凝固させた食品です。
では、なぜ、「心太」が「ところてん」かは、辞書では(「ココロテイ」と読んだものの転化)としか書いてません。そこで私の好奇心が動くのです。

もと、このものは海国である日本独特の海草製品ですが、大宝律令(702)にも見えるといわれますから、古く奈良時代以前からあったことは確かでしょう。そのころ凝海菜としてあって特に名は無かったようですが、平安時代に「古々呂布止(ココロフト)」と称するようになって、俗に「心太」の字が当てられたといいます。
室町時代以前ではまだココロフトでありましたが、室町時代に入ると、やがてココロテイと言い換えるようになり、ココロテイがココロテン、そしてトコロテンと転化していったもので、トコロテンになったのは江戸時代の寛永年間だといいます。ココロテンが江戸弁では、つい、トコロテンになったと言えましょう。文字のほうは「心太」のままですから、よほどの当て字のように考えられてしまいます。
テングサも本来はマクサと言ったものが、トコロテンの原料なのでトコロテングサと言うようになり、上部を省略してテングサの名が生まれたと言います。

今日は天気が悪く、老いの目には長い時間PC画面を見つめるのが苦痛です。ここらで終わりますが、午後からの台風にはくれぐれも注意してください。

2004.10.19  鯨の熊野詣で…背美の子持ちは夢にも見るな

今朝は久々の雨になりました。昨日あたりからテレビ各局は、一斉に台風23号のスケールの大きい事、そして列島上陸は避けられないように伝えはじめました。24号も続いているようですが、23号が上陸すれば今年10個目の台風になります。日本は神国、神の威徳によって起る神風が吹き、元寇の際には元艦を沈め、日本を国難より救いました。いま、この神風は日本列島を壊滅しょうとするのでしょうか。

熊野古道が世界遺産に指定されて、熊野路は人気の中にありますが、これは、昔、鯨も熊野詣でをしたお話です。
  「鯨とる海の上まで 小春かな」 (紀伊名所図会)
紀州と鯨の関わりは、秦の始皇帝の命を受け、東海の蓬莱山に不老長寿の天台烏薬を求めて紀州に来た徐福が、捕鯨術を伝えたという古い話に始まります。
そして、慶長11年(1,606)和田忠兵衛頼元が泉州・堺の浪人伊右衛門と尾州・知多の漁夫伝次を誘い鯨突きを始めたのが始まりで、紀州太地浦での捕鯨が日本で初めて始まったと謂われます。
  ”鯨一頭で七浦賑わう”
は、森浦、宇久井、下里、勝浦、三輪崎、浦上、太地の七浦の繁栄を物語っています。
  「太地覚右衛門は大金持ちよ
   背戸で餅つく 表で碁打つ
   沖でのどかに 鯨打つ 」
ともかく、村は鯨の為に繁栄の道を走りました。

むかし、この浦に佐吉という鯨取りの名人がいました。燈明崎に鯨が来たという狼煙が上がると、塗舟の何艘かを蹴立てて黒潮の躍動する熊野灘へおどり出ました。
ある夜のこと、この佐吉の夢枕に一人の女が現れて、
  「あしたの朝早く、この沖を親子連れの鯨が通ります。長い念願で
   ありました熊野詣でに参りますので、どうかお見逃しください。
   その代わり、佐吉さんの事でしたらどんな願いでもお聞きします。」
佐吉は朝、目が覚めて夜の夢を思いだすと、なんやら枕辺がジットリ濡れて潮の香りがしていました。
しかし、燈明崎から狼煙が上がると、「鯨が熊野詣でをする筈はない」と言いながら、「鯨が来たぞー」の声にざわめき出した浜へ出て見ました。
良く見ると、昨夜の夢で女が言ったとおり、親子連れの鯨が沖合いの波間に見え隠れしていました。
  「背美(せみくじら)の子持ちは七浦照らす」
佐吉は一瞬迷いながら、
  「なんの、鯨が熊野詣でてあるこたぁないわ。七浦照らすと行こらよ」
と言うなり舟を蹴立てて二頭の鯨を目がけて突っ走り見事に二頭の鯨を射止めました。
佐吉の家はその鯨で大変儲けて栄えました。ところが、豊かに栄えたのも束の間、佐吉の家には次々と不幸が続きました。
  「なんの祟りかの」
村人たちがヒソヒソと噂をはじめて間もなく、ある日の大時化で佐吉と舟の幾艘かがもろ共に海のもくずときえました。
  「背美の子持ちは夢にも見るな」
それからは子持ち鯨を獲ることは恐れられるようになりました。
 ※ 参考…じょふく【徐福】
  秦の始皇帝の命で、東海の三神山に不老の仙薬を求めたという伝説上の人物。
  日本に渡来、熊野または富士山に定住したと伝えられている。
  また、三神山とは、中国で、東方の絶海の中央にあって、仙人の住むと伝えられた、
  蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の3山の総称。
  日本では、富士・熊野・熱田の3山を謂う。

少し長くなりました。熊野に因んで書きました。
雨は依然降ってます。では。

2004.10.18   かんこつーだったい【換骨奪胎】と言う言葉

今日も秋晴れの良い天気です。朝の冷え込みは次第に酷くなりますが、昼間は爽やかに行楽日和になっています。しかし、南の洋上には台風23号があって、北上を続け、或いは再び日本列島に近ずくのではと心配されています。

気候は良くなっても、私の体調は思わしくありません。やせ我慢でメールの文面上は強がっていますが、健康人と違って朝の冷え込みや空気の乾燥には年々弱くなっています。自分で、あぁ、去年はこれほどでなかったのにと思い、悲しくなることもあります。
「相撲用語」では、力士の体勢がくずれて立ち直ることが不可能になった状態を【死に体=しにたい】と言いますが、正にその状況が、今、私の健康状態です。

海軍少尉川島武男が出征するとき、愛妻浪子は言いました。
  「人間は何故死ぬのでしょうね」
これは徳富蘆花の家庭小説「不如帰」の一節ですが、大きな手術を受けた者が、その手術で引っぱり縫合した部分が老化して不具合が生じてくると、もう後戻りは出来ないんだと思うとき、つい、弱気になってしまいます。

話を変えましょう。
髪結いの亭主が、年上の女房に養われながら、瀬戸物の道楽に凝っていましたが、女房は亭主の気持ちを試そうとして、台所の上げ板をずらし、亭主の大切にしている瀬戸物を取り落とし割ってしまう。亭主が心配顔に、「けがはなかったか」と聞くと、女房はやはり私のことを心配してくれたと喜ぶ。すると、亭主が言うには、「ナァニ、おめえに怪我されては、明日から遊んで暮らせない」。
おなじみ、落語の「厩火事」のサゲですが、この話が、『論語』の『厩焼けたり、子、朝より退きて、曰く、『人を傷つけたるや』馬を問いたまわず」と言う逸話から作られていることは知られています。

このような話の組み立て方を、【換骨奪胎】(かんこつだったい)と言います。
骨を取り換え、胎を取って使うと言う意味で、詩文を作る際に、古人の作品の趣旨は変えず語句だけを換えて、または古人の作品の趣旨に沿いながら新しいものを加えて表現することです。俗には「焼き直し」の意味に誤用されています。

このメール書き始めた時は、風はありましたが、良い天気でした。いま、僅かな間に、雲が増え、風も幾分強くなって、戸袋の雨戸をガタガタ鳴らしています。
秋の空は変わり易いとも言います。

明日も、あなたや、わたしにとっていい日でありますように。では。

2004.10.15  女房のすねたは足を縄にない…経験ありますか?

今日も朝は肌寒く、空は秋の爽やかな色をしていました。愈々秋冷の候という事になります。
第161臨時国会の代表質問は今日も衆参両院で行われていますが、野党の質問も精彩を欠いて、小泉首相を慌てさせるような発言はありません。多くの重大な問題を抱えている割には低調と言えます。
いずれ、各委員会ではそれなりの議論も沸いて来るでしょう。

関西みつわ会(日新火災のOB会)のパソコン同好会の情報を貰いましたが、皆さん熱心にパソコン技術を研鑚し、後は懇親会として楽しく歓談されている様子で喜ばしく読みました。私も体が自由であれば駆けつけて仲間に入れて貰いたい気持ちです。
残念ながら私、近時、足・脚・腰が弱り外出が困難になっています。以前にも書きましたが、四週間に一度の病院通いも往復タクシーを利用しています。

「足」されど「足」、人間、否、動物すべて足は大切です。足の機能を失い移動が困難になれば、既に植物です。
「足」は色いろな事柄に使われ、そして、大切なことなのです。「足が早い」は駆け足が早いの他に、食べ物が腐り易いことにも使います。
犯罪の手掛かりを掴まれることを「足がつく」と言いますが、「情夫ができる」「利息がつく」などの意味にも使われます。
自動車や船などの速度では「足が強い」と良く聞く言葉です。

幹事さんに辛いのは「足が出る」ことで、予算オーバーした分どうしょうか、等と心配の種です。他にも誰それには「足が遠のいた」。何となく「足が向いた」、目的もなく散歩に出て、「足に任せて」彷徨った。

彼も既に六十に「足を掛けた」、やくざな世界から「足を抜く」、泥棒社会から「足を洗う」、政治家には「足を引っ張られ」たり、「足元に火のつく」者もあります。「足」はかように大切なものです。
次の言葉に思い当たる方はありませんか?。
  「女房のすねたは足を縄にない」

今日も正午前になって雲が多くなりました。昨日も同様でしたが、午後は良い天気に戻りました。今日も同でしょうか。また、明日メールします。

2004.10.14  ダイエー民間入札を断念、産業再生機構の支援を求める

昨日は熊野古道ツアーに管理者が参加し、不在になると言うので私のメールは休みにしました。
今日は大変天気が良く、放射冷却のためか日の出前の気温は10℃まで下がっていました。いよいよ秋冷身にしみる頃となって来ました。しかし、まだ今は、日が昇り始めると直ぐに気温も上がって、年中で一番過ごし良い時期です。昨日のKSS会の熊野古道散策に参加された方々は素晴らしい気分を味わわれた事と思います。

一昨日は第161臨時国会が召集されましたが、首相は同日午後、衆参両院本会議で所信表明演説を行い、「構造改革の芽が大きな木に成長するか否かは、これからが正念場だ」と強調し、郵政民営化や国と地方の税財政を見直す三位一体改革を一層加速する決意を示しました。

そして、昨日は衆院で代表質問がおこなわれました。岡田克也民主党代表は、郵政民営化・年金改革・三位一体の改革など、小泉内閣の改革構想を批判・反対の表明をしていましたが、今一つかみ合わず、イラク戦争についても首相は正当性を強調し、テレビで見ていても我々にはもう一つピンとした論点が判りませんでした。今日も今ごろテレビでは国会の中継をしている筈ですが、野党側には何となく、迫力と云うものを感じる事が出来ません。まあ、国会の成り行きはゆっくり見守ることにします。

それより、俄かに起きた西武鉄道グループ、コクドの堤義明会長(70)が、昨日突然コクドとグループ会社の全役職を辞任するという事態が大きく報道されました。西武鉄道の株式保有比率を有価証券報告書に過小に記載していた責任を取ったものだそうです。
一方、更に再建を民間でするか、産業再生機構の支援を求めるかで、揺れていたダイエーが銀行筋に押しきられた形で、民間入札を断念、産業再生機構を活用する事に決めました。勿論、高木邦夫社長は辞任し、福岡ダイエーホークスも売却の方向へ向かいます。

予ねて、オリックスと近鉄の合併で揺れていたプロ野球界も、新規参入球団を選考しょうとしているとき、西武ライオンズは兎に角、福岡ダイエーホークスの売却問題が出てきては、ますます、問題は複雑になって来ましょう。
野次馬は問題が複雑になるほど嬉しいもので、当面はテレビ・新聞のスポーツ関連のニュースから目を離せません。
今日は新規参入を希望している「楽天」と「ライブドア―」に対する2回目のヒアリングが行われる予定です。

さて、これで終われば、雑学の看板が泣きます。そこで知ったかぶりを一つ。
「盲導犬」というのは、近年に出来た言葉ですが、誰が考えたのでしょう。
盲人を導く犬ですから、本当は「導盲犬」でなければ、文法上不合理と言わねばなりません。「盲導犬」を漢文読みにすると、「盲、犬を導く」となり「導盲犬」は「盲を導く犬」となります。全く意味が逆になっています。だからと言って、もう定着してしまった以上、どうにもしょうがありません。今更、「導盲犬」などと改めようものなら、「獰猛犬」と間違う恐れが出てきます。

昼前になって空に雲が多くなって来ました。今日はこれまで、また、明日。

2004.10.12  病(やまい)膏肓(こうこう)に入(い)る…晋の景公王の病気

今日も天気は良く、気温も高めで、秋らしい元気の出る気候です。

さて、昨日の話の中で、雉も鳴かずば「射られまい」と「うたれまい」を使いましたが、元の話が古いので、本来は「射られまい」だったのでしょう。鉄砲を使う時代になって「うたれまい」という様になったと私は考えます。

今日もことわざのルーツを探してみたいと思います。
「彼のマージャン好きは病気、膏肓(コウモウ)だ」とか「あいつの女遊びはもう病(やまい)、膏肓に達しているよ」等と、ある物事に耽溺してしまってほかをかえりみる余裕もなく、なかなか改める様子のない事を「病、膏肓に入る」と言ってよく使われます。

膏肓は一般に「カウマウ、叉はコウモウ」と読まれていますが、これは「コウコウ」の誤読に基づく慣用読みだそうです。そして、本来、この言葉は、大病に罹って手遅れに近い状態の場合を言ったものです。【広辞苑】

[左伝(成公十年)]晋の時代【広辞苑】景公という王が重い病気に罹ったときに、当時、名医と評判の高かった緩(かん)という男を呼びにやらせました。その緩の来るまでの間、景公はしばらくウツラウツラとしました。
そして、景公の体の中で、二豎(にじゅ=二人の子供)が話し合っている夢を見ました。
  「緩のやつが呼ばれたようだぞ。あいつは名医だから、うまいところ
   に隠れていないと見つかってしまうぞ」
  「俺は膏(コウ=心臓の下)に隠れよう」
  「だったら、俺は肓(コウ=横隔膜の上)だ。あそこなら針も刺さるまい」
夢から覚めて間もなく緩先生がやってきて診察して言うことには、
  「この病は、膏肓に入っていますな。相当難しい病気ですわい」
夢のとおりであったので、景公は感心して、すべて治療を緩先生にまかせ、お陰で無事に全快しました。【二豎は病魔、転じて病気】

ついでに、「杏林(きょうりん)」という言葉がありますが、これは医者の事です。
【神仙伝】三国の呉の名医の董奉(とうほう)が病人を治しても報酬を受けず、代りに治った者に杏(あんず)の苗を記念として植えさせました。
重症だった患者には5本、軽症の患者は1本の定めにしていました。その結果、数年後には董奉の家の周りは10万余株の杏の林になり、「董奉の杏林」と呼ばれるようになりました。以来、医者の異称として、「杏林」と謂う言葉が広まりました。いま、「杏林」は杏林医科大学や杏林製薬などに使われています。

優れた医者の事を話せば、下手な医者の事も話さなければならないでしょう。
このような医者の事を、やぶ医者、傭医(ようい)、竹庵、やぶくすし、やぶいし、やぶい、やぶ、などといいます。
「藪医者」と書く、「藪」は当て字で、元もとは「野巫(やぶ)」と言いました。
「野巫」とは官途にもつけない在野の、知識がなくて学業の劣っている祈祷師をたとえて言った言葉だそうです。これは元もと田舎の巫女(みこ)のことで、このような事から転じて、”まじない”を用いる医者、医術の心得の少ない医者と言う意味になった訳です。
昭和の終わりごろ、中近東の巫女もどきの行うという、心霊手術ツアーとやらに何人もの人が参加するという、変な、わからない時代がありました。

皆さん、若し、健康を損ねたら、良い、そして適切なお医者さんに治療して貰ってください。膏肓に入らないうちに!!。

2004.10.11  雉も鳴かずばうたれもすまい…長柄の人柱

先週金曜日は朝、起床時(6時)に体温、血圧、心拍数は全く正常でしたが、着換えを終わって周りを片付けていると、急に気分が悪くなり、慌てて血圧を測ると最高200を超える数値が出ました。私は200の数値を見ると仰天する癖があります。だから正確には最高、最低血圧は記録出来ていません。そのままベットに倒れ込んで安静にしていました。
何回か測って10時30分ごろにヤット132−60、心拍数80に治まりました。何が原因か未だにサッパリ判りません。時どきこんな事もあるので、治まれば気にしてませんが、そんな事でメールをサボりました。
今日は天気も良く、それに気温が残暑再来の様相で、いったん着込んだ衣類を一枚、二枚脱がないといけないようなありさまです。

新聞やテレビを見聞きしていると、国際・政治・社会・スポーツと色いろな報道がありますが、あまり私の気を引かないので、今日は、民話を一つ取り上げて見ました。

大阪の古い子守唄に、
  ♪「ものは言うまい もの言うた罰で 父は長柄の人柱 …」
と言うのがあって、これには以下のようなお話が伝わっています。

新淀川との分流点から近い今の大阪市大淀区長柄のあたりに、むかし、長柄橋という大橋が架かっていて、長さ1里(4`)もありましたが、架けても直ぐに流され、橋杭だけが長く残っていたそうです。古歌にも多く詠まれ、近くの大願寺(東淀川区東三国町)にはこの橋杭で造ったという地蔵尊が祀られています。
斉明天皇(在位7世紀中葉の9年間)の時代に、長柄橋が架けても架けても流されてしまうので、なんぞええ考え無いやろかと思案の末、人柱を立てようと言う事に決まりました。人柱とは皆さんご存知のように人間を犠牲にして水の神に供え、その助けを得ようと言うものです。
これは大問題で、はて、どうしたものかと、橋奉行たちが額を寄せて相談していると、一人の男が幼児をを背負った妻らしい女を連れて通りがかり、
男は人柱の話を聞くと、
  「そういう話なら、袴に白い継ぎ布を当てた者がええと聞いてます」
と、したり顔で答えました。そう言われてよく見ると、その男の袴に白い継ぎが当たっています。
  「そんなら、おまえが一番ええ」
と、直ぐ捕らえられ、橋杭の下に埋められて人柱にされてしまいました。
男は前の晩に袴の破れに妻が継ぎを当てておいたのを知らなかったのです。
…【だから人は考えもなしに余計な事をしゃべるものではありません】…

妻はこれを嘆いて川に身を投げて死にました。それを橋姫さまといって橋のたもとに祀っていた時代もあったそうです。

人柱になったのは垂水の里(吹田市)の巌氏(いわじ)長者であったとも言い、その娘の照日姫は光り輝くばかりの美人でありました。河内国甲斐田(枚方市)の長者がその噂を聞いて嫁に貰い受けましたが、河内に来て以来ひと言も口をききません。長者は呆れはて、いくら美人でもこれではと、里に送り帰す事にしました。二人が垂水の雉畷まで来ると草むらから一羽の雉が鳴き立ちました長者が弓を取って雉を射殺すと、姫は初めて口を開いて、一首の歌を詠みました。
  「もの言わば 父は長柄の人柱
     雉も鳴かずば 射られまじきものを」
父は余計な口をきいたため人柱になった。だから、自分はものを言わないのだと言う歌でした。長者はこれを聞いて姫の心を知り、再び河内へ連れ帰ったそうです。

「雉も鳴かずば射られまい(うたれまい)」とは有名な諺です。前出の大願寺には人柱になった巌氏の墓と謂う五輪塔があり、寺の東裏には「長柄人柱巌氏碑」と刻した大石碑が建っています。

政治の世界でも、企業・会社の中でもひと言余計な事を言う人はいますね。
今日は休んだ分少し長くなりました。   また、明日。

2004.10.7  アメリカの日本無差別爆撃は60年前の秋から始まった

今朝も快晴、放射冷却のためか気温は14.5度と冷えました。しかし、昨日よりは気分は良く、優しく朝日が差していました。
気になるのは南の海上にある台風22号で進路を北西から次第に北へ、更に東北へと変えつつあります。若し、日本列島へ上陸する事があれば、今年9番目のお客様になります。先の台風で受けた被害の修復も完全に出来ていない所も多いとか、大変気になります。

昨日のメールで、先の戦争中アメリカの都市無差別爆撃の爆撃機侵入を、当時のラジオがかく伝えたと思い出して書きましたが、今は知らない人も多いようなので少し紙面を使います。
サイパンを手に入れたアメリカは、ここを基地として、我が国の各都市を無差別爆撃するために、B29爆撃機が200機、300機の編隊で列島に襲い掛かってきました。特に東京は酷く、最初は丁度今ごろでした、昭和19年の秋は青く澄んで美しい空でした。敵編隊は南の海から御前崎に向って来ます。そして、富士山を目標に久能山・清水市の上を通って富士山の手前で箱根を越えて一気に東京へ侵入します。
私は清水市の三保岬に在る学校にいたもので、その度に合戦準備や退避ラッパにウロウロしたものでした。行きがあれば帰りもあります。
その帰りに東京で落とし損ねた1トン爆弾を落とすので帰りも油断なりません。
翌20年の3月には東京は完全な焼け野原になっていました。防空演習を繰り返しして「帝都の護りは鉄壁だ!」などと言っていましたが「蟷螂の斧」にも及ばなかったのでした。

日本の中・大都市は殆どが絨緞爆撃によって焼け野原になりました。
私の西宮市の実家は8月5日、285機が芦屋・西宮・尼崎を夜間銃爆撃して完全に焼かれました。今は殆どが忘れられ、ただ、沖縄や広島・長崎だけが悲惨な戦争の犠牲になったように声高に言われますが、戦争の惨禍は当時都市部に住んでいた者総てが被っているのです。(子供は地方に疎開されていました)。

非戦闘員総てを攻撃したアメリカですから、イラクで住民を幾ら殺したとてあまり罪悪感は持たないのでしょう。イラクでは未だに殺戮が続いています。

戦争はなくなりません。恒久平和などと謂うものは幻想でしかなかったのです。戦後社会党は恒久平和を唱えて憲法論争をしていました。
丸腰であった我が国も今や憲法改正の声が高くなっています。戦後60年還暦を迎えてヤット気が付き憲法改正の声が上がっています。

戦災当時の事を思い出すと止まらなくなりました。終戦の年は暑い日が続きました。世間一般に衛生状態が悪く、ハエ(蝿)が大変多く、そんな時家が焼けなかった人たちは、「今年は戦災者が何処にでも排便するからハエが多くて困る」と言っていました。混乱の中では代々近所に住んでいた仲の良かった人の間でも、お互い疑心暗鬼になる、そんなものですねぇ。
”何が隣組だ!”。私は行政(お上)の手伝いに作られた自治会は未だに嫌いで、非協力的です。
今日は変な話になりました。ご無礼ご容赦を。   では、明日また。
2004.10.6  平成生まれの舞妓はんがデビュー、光陰矢の如し

秋の雨は瀟滌と降ります。少し風が伴って強く降るときもありましたが、昨日は凡そ物静かに降って陰気な雨でした。夕刻には上がりましたが、気温は低く私には一番苦手な一日でした。こんな時、私は私自身の秋声を感じるのです。
今朝は幸い雲こそ多いものの天気は回復するようで、再び、も少し生きねば思う朝でした。

そんな思いの私の目に飛び込んだのは、朝刊(毎日)の一面の写真でした。『平成生まれどす…舞妓はんデビュー』と言う見出しで、京都五つの花街で初めての平成生まれの舞妓はんが、昨日お茶屋など挨拶回りする「店出し」を迎えたそうです。舞妓富久美さん(15)、同うめ葉さん(16)の写真があでやかに載っていました。二人は11月1日に開幕する祇園東歌舞練場の「第47回祇園をどり」で初舞台を踏むそうです。
 「平成のねぇ … 己の秋声を感じるのも、うべなるべし」 とは私。

気分の浮かぬままに、或る古い本をめくっていたら、フト有平糖のことが目に付きました。有平糖は金平糖と前後して、江戸時代に渡来した南蛮菓子ですが、今の梅干アメに似たものです。金平糖と有平糖については次のような話が残っています。(作りばなしかも知れません)

文化・文政のころ、信心深い商家の主人が、習慣になっていた早朝の浅草の観音さん詣でに出かけました。その日は風の強い冬の日でしたが、一枚の紙が風に舞い上がって肩に落ちました。広げて見ると
  「今晩火事あるべえ」
と書いてありました。ありがたや観音さまのお告げ、とばかり直ぐ家に戻ると店の者を動員して、倉に目張りをし、用水桶に水をたたえ、家族を親戚に預けて夜に備えました。案の定、深夜に近所から火が出て、寒風にあおられて、江戸名物の大火となりました。しかし、事前に火事を知っていた事が噂になって、火付けの疑いで捕らえられました。
彼は事の顛末を話して、その証拠にと例の紙を差し出しました。
役人がそれを見ると、紙には
  「こんぺい、かし、あるへい」
とありました。”金平糖、菓子、有平糖”とのただの宣伝ビラであったと言うのです。

南の海に台風があります。又しても日本列島を狙っているようです。60年ほど前、「南方洋上に敵爆撃機200機」「御前崎に接近中」などと言うラジオの放送を思い出しますねぇ。

2004.10.5   男性ホルモンを溜めすぎるとがんになる?

今朝は雨で明けました。気温も18.5℃と低く、肌寒い日になりました。
余りにも急な気候の変わりに戸惑いを感じています。

マリナーズのイチローは、今季80回目になる複数安打(2安打)を打って、記録を262に伸ばしてシーズンを終わりました。アメリカでも日本でも「ありえないことをしてしまった」このイチローの偉業をテレビも新聞も大々的に喧伝し、褒め称えしています。ヤンキースの松井秀も打率こそ3割に届きませんでしたが、本塁打は31本と昨年の約倍を打っています。しかし、うわさは、イチローのそれに完全に隠れた形になってます。

阪神の事はファンでいながら、私は忘れていました。どうしても勝率5割にのせられないのにイライラしています。しかし、個別には嬉しい記録も出ました。それは井川慶投手(25)が昨日の広島戦で、無安打無得点試合を達成した事です。日本プロ野球史上71人、82回目の記録だそうです。
阪神には惜しまれる事も出来ました。”神様”と呼ばれた男、八木裕内野手(39)が現役引退を表明したのです。しかし、年を思えば仕方も無いでしょう。

今日は雨で鬱陶しく頭が冴えません。良い話題も浮びませんので、終りにしたいと思いますが、最後に前立腺がんに関わったお話を一つ。
それは、私が平成4年12月にがんの宣告を受けて、明くる1月に輸精管を閉塞する等の処置を受けた時ですが、手術室から出てきた主治医に家内は尋ねたそうです。
  「先生、(前立腺)がんはどうして出来るんですか」
すると、先生
  「それは、使わな過ぎるからですね」
以来、家内は人さんに精々使うことを勧めているようです。なお、その先生その年の6月に移動で他院へ移りました。いい先生でした。

2004.10.4   「おじんのしょんべん」、排尿には元気が無ければいけません

今朝は急に冷え込んで、大げさに言うと秋冷を感じました。先月いっぱい残暑が厳しく、台風騒ぎも続いていたので、突然の涼しさに、サテ、何を着ようかとタンスの中をかき回しました。気候の急な変わりは困りますね。

金曜日は県立奈良病院の診察日でしたが、泌尿器科では久しぶりに残尿量の検査を受けました。この検査は排尿後に残っている尿の量を調べるもので、朝から尿意を堪えて出来るだけ多く溜めておきます。
我慢できずに排尿してしまうと、再び溜まるのを待たなければならないので、検査を受ける身には気分の負担になります。幸い当日充分では無かったのですが、適当に検査を時間どおり受けられました。

結果は、やはり、排尿に元気が無く、量はそこそこでした。直ぐに診察台に横になってエコーで残尿量を測りましたが、幸いこの方も特段の事無く、先ず先ずでした。排尿に元気の無いのは前立腺がん治療中からで、更に年を取っただけ余計に勢いが無くなっています。
  「オバンのしょんべんではなく、オジンのしょんべんですなぁ」
と、医者に冗談を言ったのですが、若い医者は怪訝な顔をしていました。

昔は宴会で何か隠し芸をするよう順番に当てられ、モタモタしていると、
  「♪出そうで出ないは オバンのしょんべん…(繰り返し)…」
と、囃されたものでした。この頃の若い年代は専らカラオケなどで遊ぶので、案外この言葉を知らないのかなと、ズボンを上げながら、時代の変わりをつくづく感じました。

カラオケと言えば、発明者の井上大佑氏(西宮市、64才)が「イグ・ノーベル賞」(愚かなノーベル賞)の平和賞に選ばれ、米ハーバード大で10月1日、授賞式が行われたと新聞に出ていました。
この「イグ・ノーベル賞」と云うのは、ハーバード大系のパロデイ―科学誌が、「人々を笑わせ、そして考えさせた」研究に贈るものだそうです。

なお、排尿の元気さには年寄りは、気を付けておく方が宜しいよ。二十歳代は1m.50cm以上飛ばせていても、三十歳台は1m.、四十、五十となるとあまり飛ばせなくなります。六十を超えて、若しズボンの裾を汚すような事があれば泌尿器科の診察をお勧めします。肥大或いは”がん”にご注意。

飛ばすと言えば”イチロー”は遂に昨日で260本のヒットを飛ばしました。米大リーグ、マリナーズの”イチロー”外野手は、1日シアトルでのレンジャーズ戦で、三安打して、ジョージ・シスラー(ブラウンズ)の年間最多安打記録(1920年、257本)を2本上回る259本を打ち、昨日は更に1本打って記録を更新しました。今日は最終に何本にするか、既にテレビでは結果を伝えているでしょう。新聞もテレビも大変な扱いでした。

今日はいきなり変な話を出して失礼をしました。なゝ、何と言われる?、放尿で1メートル先の小石をはじき飛ばしたですって。あなたは健康です。


ホームページ へ戻る